第8話 VS.


 非常階段から挟み撃ちした部下のおかげで、マーガレットは楽にカルロスを抑えることができた。このまま彼を仕留めてしまっても良かったが、先走りは得策ではない。皮剥ぎカルロスの白兵戦能力は本物だ。一手を間違えただけで、部下を何人も失う結果になる。マーガレットは常に慎重な選択を、且つ迅速に下さなくてはならなかった。

 通報を受けて警察や軍が駆けつけるまでの時間と撤収に要する時間を考慮した結果、獣人捕獲に尽力できるのは五分だけだった。テロリストとの銃撃戦に長々と付き合ってやる暇は無い。ターゲットを確保し次第、隊は一度離脱する手筈だ。

 退路を確保した部下が、既にホテルの外で車を用意して待っていた。ターゲットを車に積んだら、マーガレットたちも撤退する予定だったが、あれからフランシスの報告が途絶えている。痺れを切らしたマーガレットは、カルロスが隠れる壁に正確な射撃を見舞ってから一度体を引っ込め、無線に呼びかけた。

「ラビット2、状況は?」

 応答が無い。マーガレットは語気を強めた。

「ラビット2、応答しなさい!」



 マーガレットの呼びかけに応じようとしたが、そんな余裕は無かった。今無駄に声を発したら、舌を噛み切ってしまうだろう。

 腕時計のタイマーが〇四:〇〇から、〇四:〇一へと変わった。

 フランシスが、雲田に殴りかかる。

 両手をぶら下げていた雲田が突如として牙を剥き、フランシスのパンチを躱してシャツの襟を掴んだ。ちぎれそうなほど捻じられたシャツから、ボタンが外れた。もう一方の手でスーツのジャケットを掴み、雲田はフランシスを背負い投げした。

 雲田とフランシスには10センチ余りの身長差があった。そのうえ、フランシスは外見に反し、高密度の筋繊維を搭載するがために80キロ近い体重があった。相手が持つそれらのアドバンテージの一切を無視し、雲田はフランシスを担ぎ上げ、足場に向かって真っ逆さまに叩きつけたのだった。

 フランシスの頭が直撃したのは、足場の連結部分だった。老朽化による錆びと衝突のダメージが相乗し、連結部のフックがネジごと破損した。足場の一方が落下し、滑り台のように激しく傾斜した。二人はそのまま五階の足場に落ちていった。

 イリスが居る方の足場は無事だった。雲田は即座に立ち上がり、ロジャーの死体が座る階段に後ずさった。

「……」

 フランシスは頭部からおびただしい出血を起こしていた。頭から足場に叩きつけられた彼女は、しかし不死身のように立ち上がった。額から滴った血が目に入ったが、彼女はまばたきすら惜しんだ。

 ファイティングポーズを取り、フランシスは再度雲田に仕掛ける。雲田が紙一重で避けると、フランシスのパンチは豪風を起こした。蹴りは掠っただけで、雲田の頬を裂いた。

 フランシスの攻撃は一発たりとも受けてはならない。605号室の攻防で雲田は重々承知していた。一撃で成人男性を殴り殺す威力のパンチ、壁をぶち抜く蹴り。俊敏さもある。だが、フランシスの真の恐ろしさはそこではない。

 圧倒的なタフネスこそフランシスの真骨頂だった。9ミリ拳銃弾程度では通さない、鋼のような筋肉の鎧。頭にクリーンヒットを二度も食らったにも拘わらず一切怯まない頑強さと無鉄砲さ。真の意味で、フランシスは人の形をした獣と認識して挑むべき相手だった。

 階段から跳び、雲田はフランシスの顔面に膝蹴りを入れた。まるで鉄を蹴りつけたような感触がした。頭上で身を翻し、雲田はフランシスの背後に着地した。すると、フランシスは傍らの筋交いを握り、足場のパイプから力づくでもぎ取った。

「!」

 フランシスは中央で連結している筋交いを一本に束ね銅器のように扱い、殴りかかった。雲田に躱され、空振りした筋交いは足場に叩きつけられて反り返った。

 狭い足場の中で、フランシスは筋交いを縦横無尽に振るった。足場のあちこちにあたるたびに激しい金属音が鳴り、フランシスの膂力の壮絶さを物語った。

(滅茶苦茶だな……!)

 フランシスは片手で筋交いを振りかぶると、出し抜けに雲田に向かって投擲した。

 心拍の上昇が体内時計を加速し、極度の集中状態に没入していた雲田には、世界の動きが遅く見えた。投げられた筋交いの軌道を見切り、雲田は身を躱すとともに筋交いをキャッチした。前方に目を戻すと、フランシスがまっすぐ突進して来ている。

 足場に何度も叩きつけられた筋交いは凸凹になり、二本を繋ぐピンが緩んでいた。雲田は膝に叩きつけてピンを外し、筋交いを二本に分解した。

 弾丸すら通さないフランシスの腹筋に、筋交いが刺さるはずがない。だがフランシスがどんなに頑丈だとしても、如何なる動物にも弱所は存在する。雲田は充血した眼を素早く動かし、フランシスの肢体を見回した。接敵まであと二歩。

 フランシスが左の拳を放つ。雲田の眼は、精密な捕捉装置のようにフランシスの目と喉を捉えた。

 眼前に迫った拳に、雲田は真上から筋交いを突き刺した。筋交いは手の甲を貫通し、フランシスの左手を足場に張り付けた。次いで、走行が止まったフランシスの顔面目掛け、雲田は筋交いの片割れを突きかかった。

 フランシスは人間離れした反射神経で、向かい来る筋交いを掴んだ。が、手のひらに付いた血が潤滑油となり、筋交いを止め切れなかった。

「!?」

 605号室にてナイフを刺された右手は、フランシスの人間離れした回復力で出血が止まっていたものの、未だ多量の血が付着していた。フランシスの万力のような握力を逃れ、筋交いは血に染まりながらぬるりと推進した。

 筋交いの先端は、フランシスの右眼球に突き刺さった。

 その奥にある脳まで貫きたかったが、筋交いはそれ以上進まなかった。雲田は筋交いを手放し、フランシスの喉に蹴りを入れた。フランシスは天を仰ぎ、筋交いが眼孔から抜けた。

「……ッッ!」

 さらに懐に踏み込み、雲田は強烈な掌底をフランシスの左耳に叩き込んだ。脳を揺らすとともに、その威力は鼓膜を破壊し三半規管にまでダメージをもたらした。

 視界がぐらりと歪む。フランシスは堪らず片膝を落とした。

「か……が……」

 潰れかけた喉から、必死に息を吸い込む。右の視界は完全にブラックアウトしていた。左側の音が聞こえず、頭がクラクラした。

 歪んだ視界に、雲田の足が映った。フランシスは酸素を求める口から涎を垂らし、雲田を見上げた。

「目と喉と耳、ついでに舌と皮膚。人間は五感を司る器官を鍛えることはできない。どんなにタフでも、そこだけは弱い」

 雲田は捕食者が獲物を眺めるような、冷たい眼差しでフランシスを見下ろした。

「人の形さえしているなら、どんなに獣じみていようが、人を殺すのと同じやり方で殺せる」

 天性の獣であり、且つフランシスが薬物投与によって一時的に獣の能力を手にしていることを知らない雲田は、ずっと違和感を覚えていた。その違和感を、フランシスの敗因を彼女は告げた。

「お前、身体に脳が追いついてないよ」

 いきなり立ち上がり、フランシスは殴りかかった。視界がぶれ、遠近感覚を損なったフランシスの拳は派手に空振りした。雲田は全力のストレートパンチを、フランシスの顔面に炸裂させた。

「あ……っ」

 鼻骨が折れ曲がり、鼻血が噴き出す。側頭部にハイキックを食らうと、フランシスはまた膝を折った。雲田がフランシスの頭頂部に肘鉄を五回に渡って振り下ろした。肘鉄を食らうたびに頭の高度が下がり、とうとうフランシスは足場に両膝を突いた。

 雲田はフランシスの側面に回り背を向けて立つと、うなじに強烈な回し蹴りを放った。

 フランシスはうつ伏せに倒れた。頚椎を折るつもりだったが、フランシスは生まれ持った頑丈さでなんとか耐え抜いていた。それでもまだ、ぐらつく視界と麻痺した平衡感覚は取り戻すことができなかった。

「……あ……ぁぁ……」

 這いつくばるフランシスの隣に立ち、雲田は片足を振り上げた。今度こそ、その首をへし折ってやる。

「ア……」

 獣の眼を持つ雲田には、狩人として唯一致命的な欠陥があった。

「……アヴィー……」

 フランシスが、誰かの名を呼んだ。

 それを耳にした時、雲田の中に、ほんの微かな躊躇いが生まれた。コンマ数秒程度の、ほんの微かな殺意と実行のラグ。

 その躊躇いが、この戦いの決着を運命づけた。


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