第7話 RISING BEAST


 一九七二年、イギリスの生物学者メイソン・エバンズはある特殊な生物の存在を発表した。

 本来意識の介在しない生理現象やホルモン分泌など、体内で自動的に行われている活動を自らの意思でコントロールできる個体を発見した。そしてそれは世界各地に散見する。エバンズの発表内容は、大まかに言うとそういった旨だった。

 エバンズの論文によれば、大日本帝国軍が開発した獣兵薬とは、動物をこのあらゆる代謝をコントロールできる状態にするものだと述べられている。ここまではまだ、多くの有識者から共感を得られた。だが、論文の後半に差し掛かると、エバンズはこの能力を生まれながらに持つ人間について言及し始めたのだった。

 曰く、この特殊な能力を持った人間は特殊部隊の兵士やスパイに最適任であり、発見され次第各国のエージェント育成機関で訓練され、人間兵器として運用されているという。界隈ではその能力を持つ人間を「獣」と呼び、彼らは共通して猛獣のような鋭い眼光を放つ虹彩を持つとされた。

 エバンズのこの発表は、荒唐無稽な作り話だと一蹴された。もし事実だとして、国がその育成機関の存在を認めるはずがなかったし、エバンズが論じたのはあくまで推論であって、証拠を用意していたわけではなかった。彼が出会った「獣」に該当する人物の事細かなデータが提示されたが、それが本物であることを証明するにはもっと多くの賛同者が必要だった。

 成長の過程で有用な機能のみを残すという「獣」の、生物進化の深淵に限り無く近い特異性についても、根拠に欠けるとして否定された。多くの理解を得るにはまだそれほど著名でなかったことと、各国が危惧するほどあまりに完璧な説を論じたがために、彼の歴史的発表は次第に風化されたのだった。

 論文発表から半月後、メイソン・エバンズは行方不明となった。のちに彼の自宅から膨大な研究資料が喪失していることが明らかとなったが、親族がそれを公表することはなかった。

 エバンズについて、世間の記憶に唯一印象深く残っている言葉がある。「獣」という人種についてメディアに熱弁した彼は、最後にこう締めくくったのだった。

「彼らは別に超人でも、モンスターでもない。彼らを神のように崇めた歴史もあったかもしれないが、決して神とも違う。悪魔でもない。では彼らは何者か? 彼らは人間なのだ。文明を築くとともに我々人類が忘却したものが、彼らなのだ」

 エバンズはその名の由来を、彼なりに解釈して述べた。

「彼らは、人間という獣なのだよ」



      ♢



 彼女は時々あるビデオを取り出しては、自室のテレビで熱心に観ていた。

 赤ん坊がはいはいしている映像だった。少しするとビデオは、安らかに眠る赤ん坊に変わる。

 それを、彼女は愛しそうに観ているのだ。

「刀子」

 私は尋ねる。

「それ、誰なんだ?」

 彼女は嬉しそうに、どこか誇らしそうに微笑んで答える。

「この子は——」



 熱いもので頭が濡れている。後頭部と背中に鈍痛がある。不要な痛みは遮断する。痛みを感じなくなった。

 床に手を突いて踏ん張ると、五体は無事だった。手足は折れていない。鼓動が急激に早まり、代謝が肌を赤く染め始めた。ひくつく血管が頭に達すると、強風に煽がれたように髪が逆立った。

 真っ赤に充血した、獣の眼を開く。

「……イ……リ……ス……」

 雲田刀子は立ち上がり、己の中に在るアクセルを踏み抜いた。



 フランシスは両腕にそれぞれ気絶したイリスとリリアを担ぎ、605号室の窓から工事の足場に出た。固定が甘かったためか、カバーの一部が剥がれて足場に雨が打ちつけられていた。冷たい雨を浴びながら、フランシスは狭い足場を歩いて階段に向かった。

「こちらラビット2。六階の足場に出た」

 咽喉マイク越しに仲間の隊員に呼びかけた。すると真下から、足場の階段を登って来る足音がした。

「こちらキャット1。そちらに向かっている。ターゲット運搬を手伝う」

「わかった。狭くて二人担いだままでは降りられない。六階で待つ」

「もうすぐ着く」

 黒い影が階段の下から顔を覗かせた。キャット1ことロジャーのヘルメットや暗視ゴーグル、マスクやボディアーマーといった黒ずくめの装備は、雨を浴びたためにシャチの体表のように黒光りしていた。

 ロジャーは階段の一番上まで来ると、構えていたMP5A5をスリングでぶら下げ、ターゲットのどちらかを渡すようジェスチャーした。

 フランシスは軽いイリスの方を渡そうとしたが、登り階段が邪魔だったので仕方なくリリアの方をロジャーに差し出した。ロジャーはリリアを肩に担ぐと、片手でMP5A5を構えて階段の下を顎で指した。

 ロジャーの後に続こうとしたその時、フランシスの背筋に寒気が走った。雨や冷たい風の所為ではない。獣兵薬を投薬して任務に臨む際、フランシスはそういった生理現象をオフにしていた。今も、彼女はどれだけ濡れても寒さを感じずに任務に集中出来ていたのだ。

 フランシスが感じた寒気は、外からではなく内から感じたものだった。フランシスの脳が、一時的に獣に目覚めた本能が、肉体に危機を報せていたのだ。

 ほぼ考えず、直感的にフランシスは腰を屈めた。瞬間、頭上すれすれを何かが通過して、目の前に居たロジャーの顔を直撃した。

 背後から飛んできたフォールディングナイフは、ゴーグルを貫いてロジャーの眉間に深く食い込んでいた。ロジャーはリリアを担いだまま、階段にどさっと座り込んだ。

 フランシスは目を見張って振り向いた。今しがた通った605号室の窓の外に、あの少女が立っていた。

「……生きていたのか」

 フランシスを追いかけて窓から出て来たらしい。その少女の、雲田の様子は明らかに先ほどと違った。

 雲田の顔が真っ赤になっていた。頭部の流血もあるが、肌そのものが紅潮している。髪が威嚇する獣のように逆立ち、こちらを睨む獣の眼は炎のように赤く染まっていた。

(……なんだあれは?)

 雲田が一歩、踏み出した。金属の足場がミシッと軋んだ。

 急速なスタートダッシュを切り、雲田は瞬く間にフランシスの眼前に迫った。フランシスはイリスを抱いていない方の手で、咄嗟にガードしようとした。間に合わない。

 雲田の赤い眼差しとフランシスの視線が交差した。獣のように歯を剥き、雲田は言った。

Отпустите девушкуその子を放せ

(ロシア語——!?)

 鋭く強烈な雲田の蹴りが、フランシスの側頭部に炸裂した。頭蓋の中で脳が揺れる。フランシスは脳震盪の症状に見舞われ、視界がぶれ足もふらついた。が、常軌を逸する回復力ですぐさま視界を正常に戻すと、ベレッタM9を雲田に向けて構えた。

 雲田はフランシスの手からベレッタM9を蹴り飛ばした。一発だけ発砲した弾が、上階の足場に当たって甲高い音を鳴らした。ベレッタM9はホテルの壁面に衝突し、足場の隙間から遥か下へ落ちていった。

「……!」

 雲田は再び蹴りを打つモーションに入っていた。動きが素早い。フランシスは咄嗟にイリスを降ろし、雲田に殴りかかった。雲田は蹴りを中断してバク転し、フランシスの拳を躱した。

「……」

「……フゥゥゥ」雲田は嘶きのような息を吐いていた。

 フランシスの左側頭部は、雲田の蹴りを受けて皮膚が裂けていた。左手の指が、拳銃を蹴飛ばされた際に折れ曲がっていた。フランシスは左手の指を力づくでもとに戻した。鈍い痛みがあったが、支障は無い。余分な痛覚は遮断した。

 三メートルほどの間隔を空けて再び正対し、雲田を観察した。暗闇の中でさえ、雲田の肌が赤く染まっていることはよくわかった。フランシスは側頭部から流れる血を、手の甲で拭った。

(……どういうことだ)

 見るからに、雲田の代謝は異常に上昇していた。

 フランシスは特製の獣兵薬を投与することで、メイソン・エバンズが世間に公表を試みた「獣」の肉体を一度につき十分間得ることができた。これまであらゆる困難な任務を、獣兵薬がもたらす優れた感覚と身体能力によって潜り抜けてきた。だが、どんな状況に陥ろうともフランシスは一度も、今の雲田のような状態になったことはなかった。

 雲田の身体能力は常人のそれでない。今のやり取りでフランシスは実感していた。反射速度も膂力も、雲田は先ほどとは様変わりしていた。まるで別人……いや、別の生き物のように。代謝の加速が、雲田の身体能力をフランシスと渡り合うまでに底上げしていたのだ。

「……獣人の護衛が、獣の少女とはな」

 フランシスはイリスを通路の脇に置いたまま、雲田の方へ歩き出した。深く息を吐き、首をゴキリと鳴らした。

 あの燃えるような代謝の加速は、雲田の肉体特有の現象なのか、それとも——人工的に造り出す獣と、天性の獣の差とでも言うのだろうか。

「ふん」フランシスは鼻で一蹴した。

 面白い。試してやろうじゃないか。

 実物の獣と相対するのは初めてだ。

 人工の獣と、生まれながらの獣。果たしてどちらが優れているか。命を以て決する他無い。

 そうでなくとも、今ここで対峙した時点で既に、生き残るのはどちらか一方と決まっている。

 固い拳を握りしめ、フランシスは雲田に迫る。対する雲田は構えず、棒立ちのままフランシスを待ち受けた。

「殺しに来い、グリーンベレー」猛獣の眼光を放ち、雲田は言った。「狩ってやる」

 雲田と、フランシスは——二匹の獣は、真っ赤な怒りと、黒い憎悪に染まった殺意を交わした。冷たい雨に濡れた眼差しは、炎のように燃え盛っていた。

 絶え間なく降り続ける雨だけが、彼女たちの間に割り入ることを許された。だがじきに、その雨さえも踏み入る余地を失うだろう。雲田の間合いに、フランシスは堂々と踏み入れた。

 空に瞬いた雷光が、二人を照らした。数拍遅れ、雷鳴が轟く。

 マーガレットの声が、イヤホンに告げた。

「作戦終了まで、あと一分」


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