第6話 鋼鉄
部屋に乱入した黒髪の女——フランシスのギラギラとした眼光が、目の前にいた山賀をじろっと捕捉した。人間なのか獣兵なのかもわからないが、とにかく味方でないことを確信した山賀は、フランシスにAK-47の銃剣を刺突した。
銃剣の先端がフランシスの腹筋に食い込んだが、それ以上は刺さらなかった。スーツの下にボディアーマーの感触はしなかった。なのに、何故かそれ以上奥へいかない。
「なに!?」
山賀のAK-47の銃身を、フランシスが叩き落とした。はずみで山賀の両肩が軽快な音を立てて脱臼した。愕然とする山賀に、フランシスは大振りのアッパーを決めた。
壁を素手で突き破る拳の威力が、そのまま山賀の顎に炸裂した。山賀は放物線を描いて背後の壁に激突し、二度と立ち上がることはなかった。山賀の頚椎は過剰に仰け反って損傷し、宙を舞っている時既に絶命していた。
(なんだこいつ!?)
獣兵や鍵原大尉と対峙した際と匹敵する、本能的危機感が雲田の中に凄まじい警鐘を鳴らした。壁を壊し、成人男性を片手一本で文字通り殴り飛ばす膂力は、人間のそれと明らかにかけ離れていた。突入してからほんの数秒の間にフランシスが披露した化け物じみたパワーは、ヒグマ型獣兵が人の皮を被っていると言った方が現実的だった。
受け入れ難いが、フランシスは人間にしか見えなかった。その化け物に、雲田はAK-47の銃口を向けた。
フランシスがAK-47の銃口を素手で握り、いとも容易く捻じ曲げた。
(暴発する!)
引き金を絞りかけていた指を、雲田は咄嗟に離した。即断でAK-47を捨て、雲田はブローニングハイパワーでフランシスを銃撃した。
装弾数十三発のうち十発を、フランシスの体にぶち込んだ。暗闇の中を硝煙が漂う。マズルフラッシュを間近で見た雲田の目は、視力の回復に一秒弱を要した。
「!?」
硝煙の向こうからフランシスの腕が伸び、雲田の首を掴んだ。重機を思わせる膂力で、フランシスは雲田を軽々と持ち上げた。
(馬鹿な……!?)
雲田は目を見張った。
弾は全弾、フランシスに命中していた。スーツに空いた穴からは血が流れ出ている。フランシスは服の下にボディアーマーを着込んでいるわけではない。
にも拘らず——フランシスは、平然と立ち続けていたのだ。むしろダメージは無いとでも言わんばかりに、五十キロ近い雲田を高々と掲げている。
「がっ……こんの……ッ!」
首を絞め上げられた雲田は、両足が完全に浮いていた。もがきながら雲田はフランシスの頭に拳銃を向けた。
発砲と同時にフランシスが首を傾げる。銃弾はフランシスのこめかみを掠った。フランシスはもう一方の手で、ブローニングハイパワーのスライドを掴んでいた。意図してのことか、薬莢が排莢口とスライドに挟まれジャムを引き起こしていた。
フランシスの膂力に抗えず、拳銃を手からもぎ取られる。フランシスは器用に片手でスライドを分解し、拳銃を床に捨てた。こめかみから流血していたが、フランシスは痛みを感じていないかのように眉一つ動かさなかった。
雲田とフランシスは、殺意を込めて互いを睨みつけた。二人は互いに、相手が獣の眼であることに気づいた。
「雲田さん!」イリスが悲愴に叫ぶ。
フランシスの常軌を逸する握力に喉を絞められながら、雲田は掠れた声を発した。
「……君は……何者だ……ッ!」
フランシスは実に機械的な、無機質な口調で言った。冷徹で、残酷な声だった。
「お前が例の少女か……天性の『獣』か、日本軍を出し抜けるわけだな」
フランシスが用いた言語は英語だった。英語は雲田が扱える言語に当然含まれていたが、だとしても、ごく一般的な常識を弁える雲田にとって、次のセリフは受け入れ難かった。
「だが残念だったな」フランシスは言った。「拳銃程度で、私を殺せると思うな」
ふわっと重力が消え、雲田は浮いたような感覚に見舞われた。
(マジか——)
フランシスの膂力は、やはり人間のそれを遥かに超越していた。
片手で掴んだ雲田を、フランシスは無造作に、まるでボールを扱うかのように背後へ放り投げたのだった。
フランシスが空けた壁の穴を通り、雲田は隣室を滑空した。雲田が叩きつけられた対面の壁が深く凹み、頭部にあたる場所には血の痕が残った。
雲田は床に崩れ落ちた。意識が彼方へと消えた。
ピーターは射殺した『信ずる者を救う会』の戦士の死体を、屋上のドアの脇に座らせておいた。ここなら離脱する際、ドアの開閉に支障をきたさないだろう。
イヤホンにフランシスの声が聞こえた。
「獣人二体を確保した」
バレットM82の狙撃位置に戻りながら、ピーターは拳を握った。
「よし、ナイスだ」
ホテルからはまだ銃声が止まなかったが、仲間の隊員が敵を撃破した報告が次々と上がってくる。グリーンベレーは着実にホテルを制圧しつつあった。
「こちらキャット3、ドッグ2から応答が無い」
スコープを覗きながらピーターは応じた。「こちらからもドッグ2の姿は確認できない」
「了解した。五階へ向かう」
サニーは死んだかもしれないな、とピーターは内心で舌打ちした。狂信者どもめ、やってくれる。せめてあの足場のカバーが無ければ、窓から屋内を狙い撃てるというのに。
「ラビット1」
「何かしら?」
フランシスが畏まった語気で、無線越しにマーガレットに問いかけた。
「本当にこの場ですぐ獣人を殺さなくていいのですか?」
会話は全隊員に聞こえるチャンネルで交わされていた。隊長であるマーガレットの方針に、命知らずにも異を唱えるとは。フランシスはどういうつもりだ? 狙撃目標を探す現状よりも、ピーターは無線の会話の方に緊張してしまった。
「ダメよ、ラビット2」マーガレットは毅然とした態度で言った。時々声が途切れるのは、彼女が今まさに銃撃戦の真っ最中だからだ。「その子たちが影武者である可能性は捨て切れないわ。獣人であると確証が持てない限り、手を出してはダメよ」
「そこまで確認が必要ですか。私たちはずっとこの獣人を追いかけていました」
フランシスは食い下がった。馬鹿野郎、とピーターは声に出さず罵った。
「二度は言わないわラビット2。確証を持たずに今すぐ手にかければ、それは無差別殺人と変わらないわ」マーガレットは鋭い声で部下を諭した。「もし確証が要らないのなら、私たちは彼女たちをこのホテルごと爆破することだってできた。それをせずにこの作戦を決行しているのは何故かわかる? 獣兵や獣人兵を否定する我々は、日本軍と同じ手段を取ってはならないのよ」
マーガレットはとことん規則に従う軍人だった。アメリカ軍の軍規を全文そらで言える人間を、ピーターは彼女以外に知らない。規則に従わない部下は容赦なく切り捨て、それが例え上官であったとしても糾弾することを躊躇わない女だ。
マーガレットはアメリカ合衆国の意志を体現する模範的な軍人マシーンだった。彼女はアメリカ軍人として、決して間違うことがなかった。だからこそピーターたちは彼女に全幅の信頼を置き、彼女に認められることが国に認められることだと妄信し、彼女に従ってこの東の島国まで付いて来たのだ。
「よく聞きなさいラビット2」マーガレットは冷ややかに言った。「もしそれをしたら、あなたはあなたが憎む『義獣隊』と同じになるわよ」
一秒、間が空いた。それ以上沈黙が続くようなら、ピーターはマーガレットに加勢するつもりでいたが、その必要は無かった。フランシスはいつもの無感情な口調に戻っていた。
「了解しました。獣人二体を外へ運びます」
「任せたわよ。こっちはカルロスを抑えておくわ」
ピーターは腕時計を一瞥した。同じように時計を見たと思われるマーガレットが、全隊員に向けて告げた。
「作戦終了まで残り二分三十秒」
グレネードの爆発を受けて壁紙が焼け焦げ、息苦しい煙が充満する606号室からカルロスたちは脱出していた。閉鎖的空間で再びグレネードを投げ込まれては堪らなかった。
隣室の605号室から破砕音と銃声が鳴っていた。そちらに加勢に行きたかったが、どうにもあのマーガレットとかいう女はカルロスたちを見逃してはくれないらしい。カルロスたちはフロアの端にある非常階段まで追い詰められていた。カルロスたちとマーガレットは、肝心の605号室を挟んで撃ち合っていた。
「カルロス、フクロウから応答が無い!」
FNP90の弾薬が尽き、カルロスは壁の角から体を引っ込めた。マガジンはあと一つ。カルロスは険しい顔でリロードし、ジゼフに言った。
「他の者をフクロウの元に向かわせられないか?」
「ハンクスもアランも応答しない」
壁から半身を出そうとしたカルロスの目と鼻の先を、弾丸が掠った。一旦壁に隠れ、カルロスは反撃のタイミングを図った。
(まさかフクロウがやられたのか? 彼女がそう簡単に死ぬとは思えない……一緒に居た山賀は? 状況が掴めない……まずはこの廊下を突破しなければ)
非常階段の踊り場から、仲間の戦士が大声を上げた。
「カルロス! 下の階から敵が上がって来たぞ! 一人……いや二人だ!」
仲間が発砲し、マズルフラッシュが暗闇の非常階段に明滅した。カルロスは唇を噛んだ。状況は悪くなる一方だった。
605号室。リリアはイリスと繋いでいる方の手を離さず、もう一方の手を挙げた。目の見えない顔でフランシスを見上げ、リリアは言った。
「殺すの?」
無線は英語でやり取りしていたため、リリアはマーガレットとの会話の内容を知らないはずだったが、フランシスはあの会話を踏まえてそう問われたような気分になった。眉間にしわを寄せ、フランシスは侮蔑の眼差しで二人を見た。
「今はな」日本語でそう突き放し、フランシスは歩み寄った。
「雲田さん!」
イリスがリリアの手を振り払い、雲田の方へ走った。
「イリスだめ!」
壁の穴をくぐろうとしたイリスの襟首を掴むと、フランシスは腕力で床に押さえつけた。リリアがフランシスの背中に掴みかかる。
「やめて、その子を離して!」
「雲田さん! ねえ、雲田さん死なないで!」
「暴れるな」フランシスは髪を掴んで一旦上を向かせ、イリスの頭を床に叩きつけた。
意識を失う直前、イリスの目に倒れたままぴくりとも動かない雲田が映った。額に鈍い痛みが走ると、イリスの視界にも暗闇が落ちた。
フランシスは掴みかかったリリアを容易く振り解き、背後の壁に放り投げた。壁に叩きつけられたリリアは少し呻いた後、山賀の死体をまさぐって何かを取り出した。
「お前も気絶したいようだな」
リリアを捕らえようとフランシスが伸ばした手が、銀色の光に切り裂かれた。窓から差す街灯の明かりを反射し、暗闇の中に刃が浮かび上がった。
リリアは山賀のダガーナイフを逆手に構え、フランシスと対峙した。
「出て行って。出来れば殺したくない」
コウモリ型獣人兵は、暗闇で任務を遂行するゲリラを目標として生産された。試作品として誕生したリリアは、幼少よりエコーロケーションをもとにした戦術を幾つも仕込まれていた。ナイフを用いた近接戦闘もまた、リリアが訓練で身に着けたスキルの一つだった。
「……」フランシスは切られた手のひらを見つめた。滴る血を握りしめた彼女の顔には青筋が浮いていた。
「図に乗るなよ、獣人が」
フランシスが接近すると、リリアは盲目とは思えない俊敏さでナイフを突いた。フランシスは右手で刃を正面から受けた。刃を手の甲まで貫通させながら、フランシスは柄を握ってナイフを封じた。
もう一方の拳で、フランシスはリリアの腹を殴った。拳がみぞおちに深く沈み、内臓が縮み上がる。フランシスの強烈なパンチは砲撃のそれを連想させ、リリアは嗚咽とともに崩れ落ちた。
「任務が終わったら、お前も、そこのガキも殺してやる。獣人ども」
右手からダガーナイフを抜き捨て、フランシスはリリアとイリスを担いで窓に向かった。一度だけ、隣室で倒れる雲田に目をやった。彼女は動かないままだった。
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