第19話 義指


 釧路市立病院


 井平早恵の病室を訪れた草薙曹長は、主治医にほぼ無理矢理提出させたカルテを片手に、井平の容態を自ら診断した。カルテは概ね間違っておらず、唯一異なるのは井平一等兵の回復速度だった。井平が負った傷は、常識離れした速さで回復に向かっていた。

「素晴らしい代謝だね。まだあれから半月しか経っていないというのに。ナースから聞いたよ、トレーニングしたくてうずうずしてるんだって?」

 大人しくベッドにいられず、窓際に立ち外を眺める井平の顔つきは以前と大きく変わっていた。窓ガラスに反射して窺える井平の目は、草薙がかつて見た未熟な兵士の幼さを忘却し、機械的な冷たさを宿していた。

 草薙は井平の証言をもとに主治医が書き記したメモに目を落とした。

「全ての感覚が、異様に鋭くなっているんだって? 臭いや音に敏感になったり?」

「はい」井平はこちらを振り返った。患者服であっても軍人は軍人、上官である草薙を前に井平はぴしっと姿勢を正した。

「とても不思議な感覚です。まるで自分のことを細部まで、完全にコントロールできているかのような……心拍を落ち着かせようと思ったら、思った通りにできるんです。逆に速めようと思ったら、鼓動を強くできる……。まるで手足が増えたみたいに、操作できる器官が増えたように感じるんです」

「……なるほど」

 草薙は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。こちらとじっと見る井平の眼は、雲田や鍵原大尉とよく似ていた。人間離れした獣の眼。

 草薙は医者のカルテをゴミのように、サイドテーブルの上に放った。草薙は椅子を引っ張ってくると、ベッドの前に置いて腰を下ろした。

「君に限った話じゃない。臨死体験をした人間が蘇った際に、それまでは有していなかった特別な才能に目覚めるというのは、珍しい話じゃない。平凡な男が数学の才に目覚めたり、昏睡状態から目覚めた女がいきなり知るはずのない国の言語で話し始めたりね……君のそれも、その一種だろう」

 井平の肉体に起きた変化の興味深さに、草薙は喜色を抑えられなかった。不完全とはいえ、井平が目覚めたのは「兵士」として最も有用な才能だった。メンタルトレーニングを介さず臓器の運動をコントロールできるということは、つまり過酷な状況に身を置く兵士にとって重要な、冷静な判断力を損なわず、常に脳をクールに保てるということだからだ。

 そう、まさに雲田と鍵原のように。

(獣の眼……こんな偶発的に覚醒することもあるのか。学会に持っていったら大騒ぎになるだろうな)

 医者としての好奇心はさておき、草薙が今日、病室を訪れたのは別の用件のためだった。草薙はベッドテーブルに置いていた紙袋に、手を伸ばした。

「頼まれていた物を持って来たよ。最新の軽量型だ」

 井平がぴくっと強い関心を示す。草薙の目の前まで、井平は素早く歩いてきた。草薙は取り出した物を、井平に見せてやった。

「獣兵師用の義指だ。調教の段階で、獣兵師が獣兵に指を噛み切られる事故は絶えないからね。軍と日本義肢協会が協力してね、こういった物が開発されている」

 気泡緩衝材を剥がすと、現れたのは金属製の小指と薬指だった。軽量化のために中は空洞で、装着した手の筋と連動して関節が可動する仕組みになっている。関節の数は生身の指より一つ多く、グリップ力を補強してある。

「手を出せ」

 井平をベッドに座らせ、草薙は義指を装着した。井平の右手は小指が根元から、薬指が第二関節から欠損していた。事前に撮った手の写真と計測したサイズをもとに、業者に井平の義指をオーダーメイドさせていた。計算通り、義指は井平の手にぴったり合った。

「今日からそれの訓練を行ってもらう。まずは日常生活からだ。指三本の生活にそろそろ慣れた頃だと思うが、こっちの方に直してもらうぞ。普通に生活できるようになったら、ナイフや銃器の扱いに移る」

 井平は手を掲げ、義指をまじまじと眺めた。手を握ると、まだ筋と馴染んでいない義指は痙攣するだけで動かない。何度か繰り返すと、微かに関節が曲がった。

「君は狙撃の名手だそうだな、井平一等兵。早くライフルを握れるようにならんとな。早い者で、三ヶ月もあれば生身の手のように動かせるようになる」

「ひと月で」

「あ?」

 井平は義指から草薙に視線を移した。強い意志を固めたように、彼女は言った。「ひと月でものにします」

「……あっそうかい」草薙は肩をすくめた。「精々頑張りたまえ。傷の治療と並行だからな。無理なリハビリで傷が開くような真似はするなよ? その義指、安くないんだからな」

「はい。ありがとうございます、曹長」

 草薙は義指のメンテナンス方法を井平に指南した。取り扱いを一通り説明し終えると、草薙は腰を上げた。井平の体の変化についてもっと詳しく調べたかったが、その前にもっと前例の資料を掻き集めたい。出来ることなら似た症状を持つ鍵原にもインタビューしたいところだが、イリスの捜索に追われている彼女を捕まえるのは難しそうだ。

 お暇しようとした草薙に、井平が出し抜けに尋ねた。

「曹長は雲田刀子と会ったんですか?」

 ドアの前で、草薙は立ち止まった。振り返ると、井平は真顔でこちらを見ていた。雲田が釧路基地に一度は拘束されたものの、すぐに脱獄したことは井平にも知らされていた。その際に、雲田の名も聞かされていたようだ。

 草薙はその一言から、井平が雲田に執着を抱いていると察した。逡巡し、言葉を選びながら草薙は口を開いた。

「ああ、会ったよ。もっとも、彼女はあたしをあたしと認識していないだろうがね。拘束具を付ける時以外は、マジックミラー越しに一方的に見ただけだし、その後は出会い頭にぶん殴られただけだしね」

 草薙は雲田が釧路基地から脱出する手助けをした張本人であったが、それを勘付く者は誰一人として居なかった。例え鋭敏な五感を手にしたとしても、井平が顔を合わせただけでそのことを見抜くのは不可能だった。事実、井平の目に疑いの色は無い。

「何か話しましたか?」

 草薙は平然と首を振った。「いいや、何も」

「そうですか。近くで彼女を見てもいない?」

「一瞬だけ、尋問椅子に拘束した時に近づいたが、それがどうしたね?」

 井平は言った。

「雲田刀子から、匂いを感じましたか?」

「匂い?」

「はい」

 井平は微動だにせず、口だけを動かした。ここまで完璧に静止した人間を見るのは、二度目だった。一度目は鍵原大尉だ。井平は瞬きすらしていなかった。乾いた眼球が充血し、赤くなり始めた。

「彼女からは匂いを感じなかったんです。まるで透明人間のように、気配が薄かった。それは鍵原大尉からも感じたことだと、後から気づきました。鍵原大尉も匂いがないんです」

 微かに、草薙は寒気を覚えた。この事例に関して予備知識を持たないはずの井平が、雲田と鍵原に共通点があると見抜いていたことに驚いていた。故に、草薙は井平も雲田たちと同じ存在になりつつあるのだと、確信を持った。理論ではない、本能で井平は雲田と鍵原の正体に気づいたのだ。

「色んなものが見えて、体のあちこちに感覚が行き渡る……この体になって、わかりました。雲田と鍵原大尉に匂いがしない理由。私が今出来るようになったことを、彼女たちは初めから出来たんです」

 その昔、学生時代に草薙が読んだ、海外のある論文と同じことを井平は口にした。

「彼女たちは汗を発さない。匂いや気配となるものを体から発さないように制御していた。ホルモンの分泌や発熱まで、本来意識の介在しない部分まで神経が通っているんです。雲田はあらゆる身体機能を、自在に操ることができる」

 肉体の完璧なコントロール。死線を越えて初めて、井平が覚醒した能力だった。

「鍵原大尉も同じでした。匂いが無い。大尉も臓器の一つ一つ、血流まで思いのままなんです。そして、私も同じものを手に入れた。雲田と鍵原大尉と、同じ側に立つことができたんです」

 井平の涙腺から微量の涙が溢れ、乾いた眼球を潤した。彼女は今、それを自らの意思で行った。草薙はごくりと唾を呑み込んだ。俄かに湧いた井平への恐怖心と、ささやかな期待が草薙の胸を躍らせた。

——面白い。

 ざわり、井平の髪が、無風の室内でざわめいた。

 目覚めた井平の獣の眼は獰猛に輝いていた。しかし雲田や鍵原とは違い、井平の獣の眼は濁っていた。彼女は瞬きするたびに、それに目覚めたが故に決して忘れることのできない、自らの手で殺した子供たちの血みどろの姿を瞼の裏に拝んでいたのだから。

「今の私なら、雲田を殺せるはずだ」全ての始まりとなるあの夜、イリスを撃ち損ねた夜の景色が井平の脳にフラッシュバックした。「そして、あの少女も。今度こそ」

 右手に装着した義指が、その殺意と意思に従って駆動し、固い拳を握っていた。


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