第18話 ロシアより
アポロは電動ドリルを拾い、ルーカスの前を通り過ぎてその右隣にいる男の前まで歩いた。男は何度も首を横に振り、何かを喋ろうとガムテープを膨らませたり吸い込んだりしていたが、声は声にならなかった。アポロは男の顔をじっと見た後、その隣の女の前に移動した。
泣き腫らした顔で許しを乞う女の表情を観察してから、アポロは顎で女を指した。
「こいつだオリオン。この女は何も知らない」
女の背後に回ったオリオンが、頭に麻袋を被せた。恐怖にもがく女の首にチョークスリーパーをかけ、オリオンが動きを封じた。
「いいか、ミスター・ルーカス。あんたが話してくれないなら、俺はこっちの男に話を聞く。支部長のあんたに尋ねた方が確実だから今まで我慢していたが、どうしても応じてくれないなら仕方ない。だがあんたのことは、殺すだけでは済ましてやらないからな」
アポロはドリルを空回しした。刃についた血が飛び散った。
「今から、あんたが話してくれなかった時、あんたの妻と息子たちと、あんたが律儀に毎月仕送りしてる両親にやるのと同じことをしてやる」
麻袋を被せた女の頭に、アポロは電動ドリルで穴を空け始めた。女が人間の声とは思えない、凄まじい悲鳴を上げた。ゴリゴリゴリゴリ、と骨に穴を空ける音がし、やがて刃は柔らかい脳をほじくり始めた。
強い覚悟を固めていたルーカスの顔から、段々と勇ましさが消えていく。彼がその決意を保つことができたのは、ほんの数十秒だった。アポロが見せつける暴力は、ルーカスが想像できる壮絶さを軽く超越していた。
ドリルは女の左脳を深く穿っていたが、彼女はまだ生きていた。脳を直接掻き回された女はビクビクと震え、出し抜けに大声を発した。ロボトミー手術を受けた患者に見られるのと似た症状を発症していた。
ゴリゴリゴリ。ゴリゴリゴリ。
「ミスター・ルーカス。俺は無駄なことは嫌いだよ。だがね、行動する価値があるのなら、俺は残業だって厭わないよ。残念だけどねぇ、あんたの家族が住んでる家も、両親が住んでる実家も、全部とっくに押さえてるんだよ」
やがてアポロはドリルを止めたが、その頃には女は麻袋の中で息絶えていた。
血まみれのグロテスクなガスマスクが、ルーカスを振り向く。ルーカスは家族がドリルで脳を貫かれる様を想像したに違いなかった。アポロはルーカスに息子が複数居ることと、両親に仕送りしていることまで知っていた。全て事実だった。ルーカスはようやく、アポロたちがただの人攫いやヤクザの類でないことに気がついたが、とっくに遅かった。彼らの命運は既に、アポロの指先一つで簡単に左右できた。
「言ったよな? ミスター・ルーカス」
後ろから、オリオンがルーカスの肩に手を置いた。吐き気を催す悪寒を覚えながら、ルーカスは恐る恐るオリオンを見上げた。オリオンは白い歯を覗かせ、快活な笑みを浮かべていた。アポロは言った。
「俺たちは手段を選ばない。依頼を果たすためなら、何だってするのさ」
窮屈な階段を上がり、アポロが地下室から出できた。後ろ手にドアを閉じて廊下を進み、玄関の前を通ってリビングに入った。そこは何の変哲もない民家だった。住人が現在旅行中であり、たまたまアポロたちに拷問部屋として占拠されていること以外は、何の変哲もない。
「お疲れ、アポロ」
リビングには一人の若い女がいた。セミロングの髪を血のように赤く染めた女は、少女と言っても差し支えないほど若い。耳にギラギラとした銀色のピアスを幾つも付け、手にはスカルの指輪。ピアスは舌にも及んでいた。彼女が身に着けた黒い革ジャンの下にあるホルスターには、グロック17が収められている。
女が食卓テーブルに設置したテレビには、こことは別のとある家のリビングが映っていた。そこには一人の中年女性と、三人の少年たちが居る。彼らはリビングで昼食を摂っているところだった。
「ルーカスが口を割った」
アポロは手袋とエプロンを脱ぎ捨て、靴を履き替えた。ガスマスクは装着したまま、タオルで返り血を拭った。
「『獣兵解放軍』のスパイは、札幌獣兵研究所の警備を担当していた第11歩兵連隊に属している。コードネームはナイル。三十代の男だ」
「ありゃ、意外とあっさり喋ったね。じゃあこれはもう要らないかな」これ、と言った時に女はテレビの方を一瞥した。
「要らん。ルーカスもそいつらも用済みだ。コレー、お前も支度をしろ。さっさとずらかるぞ」
コレーと呼ばれた女がテレビのチャンネルボタンをいじると、画面が別のリビングを映した。ソファに並んで座り、呑気に過ごす老夫婦が映った。もう一度チャンネルをいじると、先ほどの親子に戻った。
「オリオンは?」
「処理中だ」
「おっけ」
コレーは携帯電話を手に取ると、ある番号をプッシュして発信した。数秒すると、テレビに映る親子が何かに反応して家の中をきょろきょろと見回した。途端、画面が砂嵐になった。チャンネルを操作し老夫婦の方を映すと、そちらも砂嵐になっていた。
この時、『獣兵解放軍』ワルシャワ支部のコードネーム・ウィリアム、本名ルーカス・テンドの妻と子供が暮らすクラクフの家と、ラドムにある両親が住む彼の生家は遠隔操作爆弾によって木端微塵に吹き飛んだのだった。同時刻、オリオンの巨大な足に頚椎を踏み潰されていたルーカスは、それを知ることなく生涯を終えた。
オリオンがガソリンを撒いてから地下室を出てくる頃になると、アポロとコレーは退却の準備を済ませていた。リュックサックを背負って家の裏口に向かうアポロに、オリオンは尋ねた。
「このビデオはどうするね?」
それはシンシアの父親の依頼映像の録画だった。アポロは顎で地下室を指し、「捨てろ」と言った。
オリオンは地下室にビデオを放り捨てた。アポロの後を追ってオリオンが家を出て行く。さらにその後に続いたコレーは、地下室の前を通りかかった時に、強烈なガソリンの臭いを漂わせる暗闇に向かって手のひらサイズの丸い装置を投げた。
階段をバウンドして地下室に落ちた装置は、ガソリンで濡れたコンクリートの床を滑って横たわる何かに当たって止まった。横たわっていたのは、首が180度回転したうえ、頚椎がぺちゃんこに潰れたルーカスの死体だった。その隣には、顔を剥がされた男の死体が寝ていた。虚空を見つめるルーカスの頬に当たった装置には、大きなダイアルが付いていた。ダイアルはカチカチと鳴りながら、赤い矢印に向かって刻々と回転していた。
家の裏手に停めたワゴン車に、アポロたちは乗り込んだ。オリオンは筋肉に覆われた巨体を器用にくねらせて運転席に乗り込み、助手席にコレーが乗った。後部座席に乗ったアポロは、そこでもやはりガスマスクを外さなかった。自分たちの姿が何者にも見咎められていないことを確かめると、アポロはオリオンの肩を叩いて発車の合図をした。
「さあ、行こうか。日本へ」
「イエッサァッ!」
「お寿司食べたいなー」
ギリシャの首都アテネを拠点に活動する人質奪還屋、通称『クロック兄弟』は国内外に名の知れた犯罪グループだった。過去には国の要請を受けてテロリストに拘束された政府高官を救出した功績を持つ一方で、収監されたマフィアのボスを脱獄させるという事件も起こしている。報酬さえ払えば救出する者を選ばない、各国の犯罪組織ブラックリストに名前が載る無法者たちだった。
『クロック兄弟』という名がそれほど世界的に広まってなお、彼らの活動に支障が生まれないのは、誰一人として彼らの顔や素性を突き止めることができていないからだった。『クロック兄弟』はメンバーの入れ替わりが激しいグループであることはその理由の一つであったが、創設当初から唯一残り続けているアポロは、ただの一度の逮捕歴もなく、どの機関からもマークされたことがない。一部では、彼は透明人間と云われていた。
『クロック兄弟』を乗せたバンは、人知れず民家の裏から発進して一般自動車道に紛れ込んだ。
バンが家を離れてから五分後、地下室に落ちた装置のダイアルは赤い矢印に達した。カチンッと作動音が鳴り、装置にある金属部品の穴から火花が噴出した。大気中を漂っていたガソリンにすぐさま引火すると、地下室は炎に包まれた。
瞳孔の開き切ったルーカスの目が、炎を映して紅蓮に染まった。怪物のようにうねりながら炎が階段を駆け上がり、熱風がドアを吹き飛ばした。炎はルーカスと証拠の一切が真っ黒な炭になるまで、全てを焼き尽くした。
♢
ロシア連邦 某所
一九九八年にロシア対外情報庁内に創設されたザスローン部隊は、スペツナズと呼ばれる特殊部隊の一つだった。ロシア国内で最も機密性が高く、その任務の一切が明らかとされていない。ザスローン部隊は存在が公表されている点を除き、日本軍がかつて組織した『義獣隊』と酷似する体質を持った部隊だった。
ザスローン部隊の隊員に選ばれるのは過酷な試練をクリアした、ハイスペックな兵士だけだった。ただしただ優秀なだけでは入隊は許されない。入隊の条件には、努力次第で乗り越えることのできない才能という壁が存在する。
隊員に求められる才能とは、強固たる精神性だった。国への忠誠心を持つ兵士は一般の部隊にも多数いる。ロシアのために命を投げ打つ覚悟を持つ者は、決して少なくないだろう。だが、ザスローン部隊が求めたのは忠誠心という社会性とは異なった、生物としての根幹にある部分だった。要はどれだけ人間を辞め、己を兵器と化すことができるか。冷酷且つ残忍な獣となることができるか。むしろその才能には、国を裏切ることさえ厭わない無感情さが必要だった。
七年前からザスローン部隊が秘密裏に入隊を受け入れたゼブラという少女は、その最たる才覚者だった。当時別のスペツナズが摘発した民間の暗殺者育成施設には、殺人マシーンに仕立て上げられた子供たちが何十人も居た。その子供たちのなかで、彼女は特に優れた殺人能力と精神性を兼ね備えていた。齢十二にして、彼女は既に暗殺者として完成されていたのである。
殺人や拷問といった非日常的な行為に幼少期から慣れ親しんでいた彼女の精神性は、人間性を致命的に損なう代わりにザスローン部隊が求める兵士としての在り方のモデルとして、完璧だった。熟練の兵士を上回るスキルを持った彼女を、活用しない手は無かった。当然ながら非公表だったが、彼女は十五歳という若さからザスローン部隊の任務に従事していた。
ロシア対外情報庁内で度々議論されるのは、ゼブラは果たして本当に人間なのかという議題だった。肉体的にも精神的にも、ゼブラの強靭さと狂気さはあまりに人間離れしていた。脳の構造に関しては、サイコパシー傾向が強いことが既に判明していた。しかしそれだけで説明がつくほど彼女の非凡さは容易ではなく、情報庁内でしばしば彼女は「人の形をした獣」と表現された。
ゼブラが属するザスローン部隊α班にその任務が課されたのは、『獣兵解放軍』が札幌獣兵研究所を襲撃した、まさにその日だった。招集を受けた時、ゼブラはトレーニングの真っ最中だった。
訓練所の敷地にある肌寒い森を、ボブカットヘアの白い頭が猛獣のようなスピードで駆け抜けていた。
ゼブラの髪に色素が一切残っていない点について、彼女を診断した専門家は幼少期から繰り返された訓練の末に、彼女の肉体が必要性を切り捨てたからだと、一般人には理解のできない説明をした。曰く、ゼブラは要らないと断じた体の機能を捨てることができるのだという。実際に、彼女の生殖機能は十九歳となった今でなお発達していなかった。
左右で色の違う瞳は生来のものだった。ゼブラは右目が黒く、左目が黄色だった。迷彩柄のタンクトップから露出した上腕と前腕はしなやか且つ発達した筋肉に包まれており、女性にしては広背筋が大きい。
彼女の体には無数の大きな
革のブーツが枯れ枝を踏み折り、木々の間をすり抜けるように走る。片耳に付けたイヤホンに通信が入ると、彼女は進路を変えて高く伸びた大木に直進した。ゼブラは走力を利用して木の表面を3メートルほど駆け上がると、虚空に向かって蹴りを放ち、宙返りして着地した。
彼女が着地してすぐ、地面にリスの死体が落ちた。鉄芯を入れたブーツの爪先の直撃を受けたリスの体は、半円を描くように捻じ曲がっていた。
全力疾走していたゼブラは、しかし息切れ一つ起こしていなかった。首に巻いたマイクのスイッチをオンにし、彼女は応答した。
「ハァイ。こちらゼブラ。何か? ……集合? ミーティングルームでいい? オッケー」
ゼブラはマイクを切ると、再び獣のような走りで基地へ取って返した。
彼女の黄色の瞳は猛獣に限りなく近い眼光を帯びており、その光はバイクの尾灯のように長い尾を引いた。彼女がトレーニングをしに訪れるようになってから、この森の肉食動物は一匹残らず消え失せたという。
この日、ロシア連邦はザスローン部隊にある極秘任務を課した。獣人兵のサンプルの採取と、獣人兵研究に深く関わっていたとされるポーランド人、シンシア・コヴァルチックの拉致だった。
指令を受けた二十四時間後、ゼブラ擁するザスローン部隊α班は大日本帝国北海道に秘密裏に到着していた。
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