第17話 アテネより


 ポーランド 首都ワルシャワ


「シンシアは私の自慢の娘だった。昔から物覚えがよくて、読み書きだって勝手に覚えたんだ。学校では常に一番の成績を修めていた。私は一度も、あの子に勉強を強制したことはない。あの子は自分から進んで机に向かう子だった。それは大学に入ってからも変わらなかったよ」

 真っ白な髪の、年老いた男は語る。

「あの子は大学で生物学を専攻した。生物学の数ある分野のなかであの子が特に関心を持ったのは、獣兵研究だった。私たちの国は日本と友好関係にあるからね、日本製の獣兵を国軍が購入し、さらに改良を加えるための研究機関もある。大学を卒業後、国内の研究所で成果を上げたシンシアは、日本からスカウトを受けた。嬉しそうに私に報告するあの子の顔を、今でも鮮やかに思い出すことができる」

 老人は長いため息を吐き、顔を手で覆って椅子の背にもたれ、天を仰いだ。

「あの時、私が止めていれば……」

 彼が口にしたのは、深い後悔だった。かぶりを振りながらこちらに向き直った彼は、長い時間をかけてようやく、再び口を開いた。

「あの子は研究に取り憑かれたのだ……まさか獣人兵などという恐ろしいものの製造に加担していたとは。獣兵は……まだいい。品種改良や改造は、何千年も前から人間が家畜に行っているのと同じ行為だ。だが、人と獣を混ぜ合わせるのは……違う。いくら日本だとしても、許されない。神を捨てた国だとしても」

 老人のしわに囲まれた瞼の奥にある小さな目に、涙が浮いていた。

「あの子は年に一度は必ず帰って来た。でも、今年のニューイヤーには帰って来なかった。代わりに手紙が届いた。そこには全てが書かれていた。シンシアが携わっていたのは獣兵研究ではなく、獣人兵の研究だった。そして生まれた獣人の子供を、救おうとしていると書かれていた。その子の写真まで、送られてきたんだ。同封されていた写真に写った子は、確かにただのヒトとは違った。だが……あの子が、救おうとする理由が、わかったよ」

 あれは人間と変わらない。ただの子供だった。老人はそう語った。目尻を拭い、小さく何度も頷きながら彼は言った。

「一度は狂気の研究に取り憑かれたあの子は……心を取り戻したんだ。自分が間違いを犯していると気づいた。獣人として生まれたあの女の子を……それだけじゃない、他の獣人も、全てを解放しようとしたんだ。『獣兵解放軍』と協力して……でも、それは失敗した。獣人の子を逃がすことはできたが、シンシアは日本軍に捕まった。獣人の子も、今はどうなっているかわからない」

 穏やかだった老人の顔が曇った。充血した瞳には、黒々とした憎悪が滲んでいた。老人は深いしわの刻まれた頬をぶるぶると震わせた。

「日本軍はまだシンシアを生かしている。それはあの子が研究者として有能だからだ。だが、不要だと判断すれば日本軍は躊躇いなくあの子を殺す。国が何度か返還を求めたが、このテの要請に日本は全く応じない。テロリストとの共謀者として、あの子は酷い尋問にかけられているかもしれない……そう思うだけで、私は……!」

 老人は激しく咳き込んだ。視界の外からスーツを着た男性が歩み寄り、老人の背をさすった。老人は男から渡されたグラスの水を、震える手で飲み干し、椅子の背に深く寄りかかった。

 長い沈黙を経て落ち着きを取り戻すと、老人はこちらを見つめて詰め寄るように懇願した。

「どうか……私の娘を、シンシアを日本から連れ戻してくれ。このままではあの子はこの家に帰ってくることはおろか……日本から出ることも、二度と陽の光を浴びることさえできない。頼む、金はいくらでも——」

 老人の動きと声がぴたっと止まった。老人とともに、背景も止まった。老人と背景は一枚の絵のように、時々点滅してぶれることがあった。

「あ~、金の話が出る前にポーズしようと思ってたのに。リモコンを押すのが遅れちゃったぜ」

 よく観察してみると、老人の衣服や座っているソファは繊細な刺繍が施され、厚みのある豪奢なブランド品だった。背景にあるインテリアやカーペットにも、見るからに金がかかっている。

 時間を止められた老人が映ったブラウン管テレビの前に、大柄な男が割り込んだ。男はテレビに載せられたビデオデッキの上にリモコンを置き、腰に手をついてくるりと振り向いた。白人の男は金髪の角刈りで、言葉の節目節目に見事な白い歯並びをニカッと露わにする、見るからに明朗快活な巨漢だった。身長は二メートル近くあり、ワンサイズ小さな白いTシャツを着て浮き出る筋肉を誇示していた。

「さて、ウィリアム君。本名ルーカス・テンド君。これは君ら『獣兵解放軍』と密約し、ジャパンの獣兵研究所から獣人を脱走させた女性研究員シンシア・コヴァルチックの父君が、俺たちに大事な娘さんの奪還を依頼した時の映像だ。心に沁みるだろう? こんなヨボヨボのじいさんが、泣きながら懇願してるんだぜ。娘を返してくれって」

 巨漢はテレビの正面へ歩く。テレビの前に五つの椅子が横に並べられ、それぞれに男が三人と女が二人縛り付けられていた。彼らは全員ガムテープで口を塞がれ、老人が映るテレビの視聴を強制されていた。

 彼らが居るのは暗い室内だった。空気が冷たく、光源はテレビの画面だけ。薄っすらと見える壁と床はコンクリートで、埃臭かった。「こういったこと」を行うのに選ぶ時点で、ここが外に音が漏れない地下か、防音室であることは疑うまでもなかった。

 巨漢は真ん中の椅子に座る男の口からガムテープを剥がした。一気に剥がしたため、髭がテープに貼りついたまま数十本抜けた。

「君らに関わったせいで、シンシアちゃんはパパが待つポーランドに帰れなくなったんだ! 可哀想だと思わないか!? ええ? ルーカス君! なんとか言ってみろ!」

 巨漢はルーカスと呼んだ中年の男に至近距離まで顔を近づけ、大声を出した。巨漢の声量に、他の拘束された四人がビクッと怯えた。自身の汗と巨漢の唾でびしょびしょに濡れた顔を、ルーカスは激しく横に振った。

「は、話を聞いてくれ! 俺たちは日本の研究所の襲撃に関わっていない、本当だ! 俺たちは確かに『獣兵解放軍』の一員だ! でも実働隊とは関係ない! ただの活動家だ!」

「さぁ~て本当にそうかな? 聞くところによれば君はワルシャワ支部の支部長だそうだね? シンシアの地元にある『獣兵解放軍』の支部長が、何の関係も無いと言って本当に俺たちが信じるとでも? ビデオで言っていただろう、シンシアは一年に一回実家に帰って来ていた。研究所襲撃を計画していたのは、何年も前からだろう! 彼女が君らの支部を訪れたことはなかったのか!?」

 ルーカスは必死に弁解した。喋るたびに、顎から汗がだらだらと滴り落ちた。

「嘘は言っていない! 信じてくれ! 誓って、そのシンシアという女性とは会ったことがない!」

 巨漢の白人は踵を返し、ルーカスから数歩離れた。リモコンを手に取ってビデオを巻き戻し、老人が話し始める部分からもう一度再生した。

「シンシアは私の自慢の娘だった。昔から物覚えが良くて——」

 老人が同じ内容を同じ声で語り出す。巨漢は不気味な沈黙を数秒続け、突然振り返り、ルーカスの左隣にいる若い男を思い切り殴った。

 何かが壊れる音が響く。床に、真っ二つになったリモコンが転がった。振り下ろした巨漢の手には、壊れたリモコンの片割れが握られていた。ルーカスと捕らわれている男女は、目を剥いて殴られた男と巨漢を見た。ガムテープで口を塞がれた男は悲鳴を上げることも叶わず、割れた額から血を流しながら苦悶の表情を浮かべていた。

「嘘を言うんじゃない!」

 巨漢はルーカスの隣の男の胸ぐらを掴み上げると、拳で顔面を繰り返し殴った。

「お前たちが! 彼女と何らかの密約を交わしていたことは明らかだ! 知っていることを全て吐きたまえ! 吐くんだ! 吐け! 吐くんだよぉ!」

 巨漢の巨大な拳は鉄球のように硬く、殴るたびに生々しい重みのある打撃音が鳴った。殴られた男の前歯はあっという間に折れて無くなった。巨漢の拳は鮮血で染まり、ルーカスの顔に血が飛び散った。

「や……やめろ!」ルーカスが叫ぶ。

 巨漢は殴るのをやめない。男は既に意識が朦朧としていた。

「吐け! 洗いざらい話すんだ! じゃないと! お前もこんな風になるぞ! こんな! 風に!」巨漢が剥き出す白い歯に、返り血が赤い斑点を描く。「ボコボコに! 殴って! やるからな!」

 青ざめる観衆の前で、巨漢は盛大なアッパーを披露した。椅子ごとひっくり返り、男は仰向けに倒れた。巨漢は倒れた男に跨り執拗に殴りつけた。ガムテープ越しにくぐもった悲鳴を上げていた男は、程なくして一切動かなくなった。

「なにぃ!? もう死んだのか! この意気地なしめ!」

 巨漢はテレビが放つ明かりの前に戻って来た。拳に刺さった歯を抜き、ズボンのポケットから取り出したハンカチで血を拭った。ルーカスたちは目を血走らせて、倒れた男のことを見ていた。

「ルーカス君、これはしょうがないことなんだ。ルーカス君が話してくれないと、みんなが困るんだよ。わかってくれるかな」

 巨漢は椅子に縛り付けた『獣兵解放軍』の構成員を見回す。陳列物を品定めするように、じっと視線で舐め回した。

「待てオリオン」

 室内に別の声が響いた。テレビの明かりが届かない暗闇から、一人の男が歩いてくる。

 不気味な風貌の男だった。ツナギの作業服の上に白いエプロンをかけ、ゴム手袋に長靴という完全防備。キャップ帽を逆向きに被った男は、さらにガスマスクを装着していた。

「ビデオを見せるだけでいいと言っただろう。勝手に拷問するな。お前は下手なんだから」

 ガスマスクの男は舞台のスポットライトの下に立つように、テレビの前で立ち止まった。巨漢とガスマスクのシルエットが、倒れた男の死体に伸びた。

「違うんだアポロ、こいつが根性無しなんだよ。ちょっと殴っただけで死んじまったんだ」

 オリオンと呼ばれた巨漢は大仰に肩をすくめた。オリオンがアポロと呼んだガスマスクの男は、顔が変形して別人になった男の死体に目を落とした。

「お前は加減を覚えろ」

 アポロがルーカスの方を向いた。ガスマスクの黒いレンズに、ルーカスの引きつった顔が映り込んだ。アポロはルーカスを見据えたまま再び暗闇に消え、すぐに戻ってきた。彼が歩くと、長靴が独特の足音を鳴らした。

 光の下に戻って来た彼の手には、電動ドリルが握られていた。彼はルーカスの前を素通りし、殴り殺された男のその隣の椅子に縛られた女の前に立った。依然、彼はルーカスと目を合わせていた。

「ミスター・ルーカス」キャニスターを通し、アポロの籠もった声が語りかけた。「俺たちは人質奪還のプロフェッショナルだ。俺もこいつもギリシャ人でね、普段はアテネを拠点にしているんだが、どんなツテを伝ってか、この親父さんは」テレビに映る老人を親指でさす。「娘の救助を俺たちに依頼した。アテネから遥々、ポーランドまで来たわけだ。まあ、たとえ地球の反対側に居ようと、報酬さえあれば俺たちは飛んで行くがね。誘拐された人間がどこにいようと、必ず助け出して依頼主のもとに送り届ける。それが俺たちの仕事だ」

 アポロがトリガーを引き、電動ドリルを空回しした。電動ドリルの電源ケーブルは、アポロが歩いてきた闇の方へ蛇のように伸びて繋がっていた。アポロの前に居る女が椅子に縛られたままビクッと跳ねた。彼女は目を剥いてアポロを見上げた。

「俺たちの目的は日本軍が幽閉中のシンシア・コヴァルチックの救出だ。国軍の手中にある人間を奪還するなど不可能に思えるだろう? だが俺たちはやる。相手がテロリストだろうと、大国だろうと、俺たちは必ず依頼を遂行する。そして手段は選ばない」

 アポロがゆっくりと振り向き、女を見た。女は青ざめた。アポロはドリルの刃の先端を、椅子の脚に縛りつけられた女の腿に垂直に突き立てた。

「むー! むー!」

 女が剥き出した目を激しく泳がせ、ルーカスの方を見た。懇願するようにルーカスに訴えかける女の目から、涙がぼろぼろと溢れた。

 トリガーに指をかけ、アポロは言った。

「もし人質一人を助けるために罪の無い人間を百人殺さないといけないとしても、俺たちはそうする。何故ならこれはビジネスだからだ」

 ルーカスが叫んだ。「やめろ!」

 トリガーを引く。電動ドリルが駆動し、女の腿に穴を空け始めた。金属用ドリルはズボンの布に渦を巻かせた。渦の中心から鮮血が噴き出し、ドリルは順調に女の肉を掘り進む。

「んんんんっ! んんんんんんっ!」

 ガムテープに塞がれた口の中で、女は悲鳴を爆発させた。椅子の上で女が暴れ狂ったが、全く抵抗にならなかった。アポロは金属加工に勤しむような手つきで、ドリルを動かし続けた。

 ある深さまで達すると一旦ドリルを止め、アポロは逆回転で刃を抜いた。刃が再び肉を抉って抜ける感触は、激痛となって女を襲った。ズボンに引っかかったドリルをアポロは力づくで外した。刃は真っ赤に濡れ、小さな肉片が付着していた。

「ふー、ふー、ふー」

 荒い呼吸をする女の顔は涙と鼻水と汗でびしょびしょだった。女は失禁していたが、自分でそのことに気づく余裕も無かった。腿に空いた穴から、血が噴水のように溢れていた。

 アポロのエプロンには返り血が散っていた。彼は平然とした口調で話した。

「ルーカス、俺たちが訊きたいことをお前は理解しているはずだ」

 いつの間にか姿を消していたオリオンが、あるポリタンクを手にアポロのもとへ向かう。アポロは電動ドリルを床に置くと、オリオンからポリタンクを受け取った。

「あんたらが謳う『獣兵解放軍』の信条と、今まさにここで危機に晒されているこの女の命……ミスター・ルーカス、あんたはどっちが大事だ?」

 胸を上下させ、鼻で必死に酸素を吸う女の腿に空いた穴に、アポロが漏斗を突き刺した。ドリルが穿った穴に、漏斗の先端が深く潜り込んだ。女は仰け反り、再び悲鳴を上げた。

 アポロはポリタンクの蓋を開くと、女にではなく、ルーカスの方を向いて言った。

「濃硫酸だ」

 耳を疑うルーカスと、その横に居るもう二人の男女。そして激しくかぶりを振る女の目に焼き付けるように、ゆっくりと、アポロは漏斗に濃硫酸を注いだ。

 漏斗に硫酸が落ちてから、数秒間女は沈黙した。恐怖の時が迫る、地獄のような数秒間。漏斗を通して肉に触れた硫酸が反応を始めると、女は狂乱してもがき出した。

「んぐんんんんんッ! んんッ、んッ、んんんんんぐぐんんんッ!」

 漏斗が硫酸でいっぱいになると、アポロはタンクの傾きを水平に直した。腿の肉を溶かしながら染み込んでいく硫酸が水位を下げるまでの間、アポロはルーカスに尋問した。

「こいつの脚の中身が空っぽになるのとあんたが口を割るの、どっちが先かな。ミスター」

 女は痙攣し、白目と黒目を繰り返していた。アポロは漏斗に硫酸を注ぎ足した。

「ただの研究員と共謀しただけで、研究所襲撃を実現できたとは思えない。日本軍の内部に、あんたらの協力者がいたはずだ。つまりスパイだ」

 女の血走った目がルーカスを睨みつけた。ルーカスは自分が拷問を受けているかのように、大粒の汗をかいていた。

「日本軍の内部に居るスパイについて教えろ。シンシア・コヴァルチックを救出する最短の糸口があるとしたら、そいつに他ならない。周到なお前たちのことだ、まだ正体をバレずに潜伏しているスパイがいるだろう」

 ルーカスがぎゅっと瞼を閉じて、歯を食いしばった。長い逡巡の末に目を開き、アポロに鋭い眼差しを向けたルーカスは強い語気で告げた。

「知らない。……俺たちは、そんなスパイのことなんて知らない。シンシアという研究員とも、会ったことがない!」

 硫酸にもがき苦しむ女が、悲愴に目を剥く。他の『獣兵解放軍』のメンバーも、驚愕の表情でルーカスを見た。ルーカスの決意は固かった。彼は険しい顔で、アポロとオリオンを睨んでいた。

「……そうか」肩を落として落胆し、アポロは女に向き直った。「ミスター・ルーカス、一つ教えておこう」

 女の顔に、大きな影が落ちる。女が見上げると、口を開けたポリタンクが頭上に掲げられていた。透明な液体が丸い口から流れ出て眼前に落ちる、その瞬間が彼女の眼球が最後に捉えた映像となった。

 アポロは女に頭から硫酸を浴びせた。皮膚が焼ける音が鳴り、女は気化した硫酸に包まれた。女が一際激しく暴れ狂う。空になったポリタンクを、アポロは床に放り投げた。

「俺はこの脳筋野郎よりも、気が短いぞ。余計な手間は省きたいタチなんだ。仕事のうえで一番いけないのは時間を無駄にすることだ。そう思わないかミスター・ルーカス。時は金なりという言葉を知っているか?」アポロは冷酷に言った。「まだ自分の立場がわかっていねぇようだから教えてやる」

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