第16話 香港より
中華人民共和国
香港
ある高級マンションの、最上階。光り輝く摩天楼を見下ろす広い窓はカーテンが開け放たれ、室内の照明をつけていなくとも光源には困らなかった。
ただし人工の不細工な光に比べると、時折雲の間から差し込む月光の美しさはより際立った。
あたり一帯に立ち並ぶ高層ビルやマンションに、わざわざそんな奇行に走る者は居なかったが、もし双眼鏡でこのマンションの最上階を覗いたとしたら、窓際に置いた椅子に座って向かい合う二人の男の姿を拝むことができた。が、必ずしもその男二人の立場は対等ではない。
一方の男は頭髪の薄い小太りで、肌着姿で椅子に縛り付けられていた。日本でいうところの還暦に近い年齢の男は、布の猿轡を噛まされていた。必死にもがいて手足を縛る縄から逃れようとしていたが、まるで無駄な努力だった。
「なあ、王さん。あんたに人生の楽しみってやつはあるか」
向かいに黒いスーツ姿の中年男性が座っていた。彼は王と呼ばれた男と違い自由の身で、その手にはソビエト製トカレフTT-33のコピー品である、国産の54式拳銃が握られていた。
スーツを着た男の顔の左側には、火傷の痕があった。瞼がただれて開きづらそうにしているが、左目は視力を保っているようだった。彼は気怠そうな口調で、手元にある54式拳銃を見つめながら話した。
「あんたは小児性愛者で、日常的に小さい子供を買ってはこのマンションの寝室でお楽しみしていたそうだが、あんたの人生の楽しみってのはそれか? 孫だとしてもおかしくない歳の子供の躰を撫で繰り回すことがあんたの人生で一番幸福な瞬間なのか?」
王は猿轡を噛み、息苦しそうにもがく。はずみで椅子の足が持ち上がり、床を叩いた。スーツの男は意に介さず話し続けた。
「ああ、別に否定しているわけじゃないよ。あんたの変態的趣味も、まあ別に良いんじゃないかな。あんたが幸せなら。ただまあ、あんたの慰み者にされた子供たちを気の毒だとは思うね。だってあんた、見るからに清潔じゃないし。ああ、ごめんな。馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。でもほら、客観的に見てさ」
彼らがいるマンションの室内には、鉄の臭いが漂っていた。王の視界の隅には、彼の護衛を務めていた数人の配下が死体となって倒れていた。死体は頭が破裂し、あるいは首を切り裂かれ、あるいはこぼれ出た腸を抱きしめて息絶えていた。
スーツの男の足下の床に、血がべっとりついたバタフライナイフが刺さっていた。彼は椅子に座ったまま屈んでそれを抜き取り、刃から滴り落ちる赤い雫を見惚れるように眺めた。
「でも、今はあんたのことを気の毒だと思うね。別にあんたは趣味が悪くてこうなったわけじゃない。ただ運が悪かったね。あんたが先月買った十歳の女の子はね、下校途中を人身売買業者に攫われて、すぐ後にたまたまあんたの手元に行き渡ったんだけど、実はさ……本当に気の毒なことにね、香港に居るとあるマフィアの孫だったんだ」
王が血走った目を丸く見開いた。擦れて血が滲むほど縄が手足に食い込んでいたが、やはりどうやっても王は戒めを解けなかった。
「もう言わなくてもわかるだろ。そのマフィアはたまたま俺と懇意にしてる人でね、で、あんたを見つけ出して、ぶっ殺すって仕事を俺に任せたのよ。その子、たまたま生きてお家に帰ることができたけどさ、PTSDっていうの? になっちゃってね。生物とかもう食べられないし、男を見ただけでパニックになるんだって。マフィアの人ね、娘とまともに顔を合わせることもできなくて、それはもうキレてたよ。本当は裏社会で有名な最低な拷問オタクのとこに送り込んで、あんたにその子以上の地獄を味わってもらうってプランだったんだけど、マフィアの人がさ、もう一分一秒でも早く、あんたがこの世から消えることをお望みみたいで。俺としても、その方がありがたいんだよね。拷問屋さんにあんたを送り届けるの面倒そうだし。俺も人に任せるんじゃなくて、自分で殺したいタチだからさ」
わかるかい。
彼はそう訊いた。
彼の左手の甲には、イタチを模したデザインの刺青が彫られていた。彼の人差し指は、我慢し切れないとでも言うかのように、54式拳銃の引き金に触れたり離れたりしていた。何かを堪えるようにため息を吐いて、彼は続けた。
「こうしてあんたを縛って生かしてるのは、あんたがマフィアの孫の写真とか、ビデオとかを隠してないかを調べるためだったけど、どうやらそういうのは残さない趣味だったみたいだね。もし見つけたらさ、コピーは無いかとかそういうの全部訊き出さないといけないから。俺が直接拷問してさ」
雲が風に流され、窓から月光が差す。ナイフの刃を反射した月光が、彼の瞳の中心に明かりを灯した。はあ、と彼はまた溜息を吐いた。
「あんたの人生の楽しみってやつは、子供に乱暴することなんだろ」ナイフから王へと、スーツの男が目を移す。人ならざる、獣の眼光が王を見据えた。「俺の人生の楽しみはね、人を殺すことなんだよ」
彼の名は
「俺は殺人中毒だ」
鼬瓏は言った。汗だくだった王の顔が青ざめ、全身に鳥肌が立った。鼬瓏は口をにやりとさせたが、顔の左側が動かないため、不気味な微笑になった。
忙しく動いていた右手の人差し指が、引き金にかかった状態でぴたっと止まった。
「人を殺すのは楽しい。ガキの頃から誰かしらを殺して生活してた。煙草や酒と一緒なんだと思う。生活に一部になっちまうとな、いつからそれが癖になったのかも思い出せないんだよ。俺はいつから人を殺すのがやめられなくなったのかなぁ。王さん、あんたはいつからだった? いつから子供に乱暴しないと生きられないようになった?」
突然、
「人を不幸にしてでも人生を楽しみたい、あんたなら俺の気持ち、わかるよな?」
鼬瓏は拳銃を王の顔に向けた。引き金を引く指に力を入れることに、彼は生涯躊躇いを覚えたことはなかった。
「俺は今、まさにこの瞬間、あんたを殺すこの時を、心から楽しんでいるんだよ」
銃声が轟く。王の白い肌着の腹と胸に、赤い穴が空いた。王が悲鳴を上げる。鼬瓏は王の出っ張った腹と、胸や肩に、即死しない程度に銃弾を浴びせた。一発の弾が王の顔に当たり、下顎が割けた。辛うじて、王はまだ生きていた。真っ赤に充血した目が、涙をこぼしながらぎょろぎょろと泳いでいた。
最後に、王の額を撃ち抜いた。天井を仰いだ王の額の穴から、噴水のように血が溢れ出た。薬莢が床を転がる軽快な音が、余韻のように銃声を追いかける。ホールドオープンし、硝煙を吐き出す拳銃を下ろして、鼬瓏は両手を肘掛けに置いた。
全身血まみれのオブジェのようになった王を、鼬瓏は鑑賞した。そうやって殺した相手を眺めることで、殺している最中の楽しい記憶を呼び覚ますのだ。もう一度、王を殺している最中、引き金を引いている時の快感に浸り、鼬瓏は満足げに顔の右側を微笑ませた。
彼は真っ赤な死体から、窓一面に広がる摩天楼に顔を向けた。素晴らしい景色だった。この景色よりも寝室の狭いベッドでしか見られない世界に生き甲斐を見出した王の哀れな精神構造を、鼬瓏は否定しない。鼬瓏もこの景色を一望するよりも、狭い部屋の中で人を殺している時の方が愉快になれたからだ。
「眩しい光だ」
肘掛けの上で頬杖を突き、鼬瓏は呟いた。月光と違って目に障るギラギラとした照明の数々は、街という巨大なクリスマスツリーの飾りつけのようだった。不揃いかと思いきや、そこはかとなく規則性を感じさせる不格好な電飾。コンセントからプラグを抜くように、どこかの変電所でも壊せば、この摩天楼の輝きもぷっつりと消えるのだろうか。
「血がよく映える」
鼬瓏の携帯電話が鳴った。ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出し、死体の前に座ったまま鼬瓏は応答した。
「もしもし。鼬瓏です」
聞き慣れた男の声がした。「俺だ、鼬瓏」
「ああ、
「今どこにいる?」
「例のヘンタイロリコン野郎のマンションですよ。今終わったところです」
「そうか。これで野蛮人どもに貸しも作れたな」
鼬瓏が
「ちょうど掃除人を手配しようと思ってたんですよ」
王の死体と、ボディガードたちの死体を鼬瓏は一瞥した。少々飛び散った血が多い。これを一人で片付けるのは骨が折れる作業だ。ボディガードを始末するのに部屋を汚してしまった際に、鼬瓏は王を殺す時は派手にやってしまおうと開き直っていた。どうせ、鼬瓏が属する『朱龍医院』の証拠隠滅部門が、塵一つ残さずこの部屋を隅々まで掃除してくれる。
「いいだろう、俺が派遣してやろう」受話器の向こうで、青竜が誰かに話しかける声がした。青竜はすぐに電話口に戻ってきた。「五分もあれば着く」
「ありがとうございます。それで、用件はなんですか? 急ぎのようですが」
「ああ、そうだ。頼みたい仕事がある」
「これからですか? どちらに?」
「いや、今すぐではない。だが、出来るだけ早く準備に取り掛かってもらいたい」
「ほう。何やら意味深な物言いですね」
鼬瓏はジャケットの中に隠したホルスターに54式拳銃を収め、椅子から立った。巨大な窓の前に立ち、鼬瓏は携帯電話を耳に当てながら摩天楼の輝きを浴びた。
「鼬瓏、少し前に日本軍の獣人兵の話をしたのを覚えてるか?」
「獣人兵……あのファンタジックな噂話ですね? うろ覚えですが」
「獣兵と人間のハイブリッドだ。北海道で製造していると噂があった」
「ああ、思い出しましたよ。ありましたねぇ」
鼬瓏は手のひらに血が付いているのに気がついた。乾きから見るに、王の血だ。鼬瓏は窓ガラスに、血を塗りたくった。赤い筋が摩天楼を斜めに裂いた。
「『獣兵解放軍』という奴らが、北海道の札幌獣兵研究所からその獣人兵を奪い去ったという情報が入った」
青竜の低い声には、平常時にも怒っているような凄みがあった。きっと受話器に話しかける彼の顔は、実際に殺人鬼のような目をしているに違いない。実際は、青竜の殺人経験など片手で数える程度で、鼬瓏に比べればずっと可愛いものだったが。
「ほう、『獣兵解放軍』。あれだ、あの国境なき動物保護団体。そういえば北京にも支部がありましたね。やるじゃないですか、日本軍を出し抜くなんて」
「情報ではどうやら、『獣兵解放軍』は日本軍の反撃に遭い、まだ国内に留まっているらしい。三体の獣人兵を隠して潜伏しているんだ」
「それでそれで?」
鼬瓏は依頼内容をとっくに予期しているだろうとわかったうえで、青竜は自ら答えを口にした。それは青竜が、凶暴な鼬瓏を手下として従える事実を示すうえで、重要なことだった。
「日本に入国し、獣人兵を捕獲してこい。生死は問わん。新鮮な五体が揃っていればいい」
「ほう……」鼬瓏の目元が緩み、口の端がにっと上がった。
矮躯をものともしない屈強な日本兵と、面と向かって銃を向け合う情景を空想し、鼬瓏の心拍は跳ね上がった。なんて楽しそうなんだ。彼に陰茎が残っていたなら、きっと勃起していたに違いない。残念ながら、彼の男性器は十代の頃に受けた拷問で切除されていた。
「良いんですか? 獣人兵に手を出しちゃって?」鼬瓏は笑顔を堪えられず、歯を剥いていた。「医院長のところに情報が来るってことは、国もとっくに掴んでるでしょ? 国も動いてるんじゃないんですか?」
「いいや、国は動かんよ」青竜は落ち着き払った口調で言った。「政府はいずれ獣人兵の技術を盗むつもりだが、それは今ではない。日本が獣人兵の安定的な生産を実現するまで待ち、輸入品の獣人兵を国内でコピーする。それが政府の方針だ。下手な真似をしてみろ、やっとこぎつけた停戦条約が台無しになる。国は出来るだけ、もう日本を敵に回したくないのさ。日本の真似をして中途半端に獣兵薬の開発に金をかけた所為で、アメリカみたいに核開発も進んでいない。少なくとも日本軍と同等以上の戦力を得るまで、国は荒事を避けるだろう。つまり現状存在する、試作段階の獣人兵に関してはスルーするつもりなのさ」
「あ、そうなんですか」鼬瓏は政治事情にはあまりに関心が薄かった。
青竜の低い声がいかにも悪そうな笑い声を溢した。
「『獣兵解放軍』は虫の息だ。日本軍に奪い返される前に、獣人兵を掻っ攫え。人手が要るだろう、お前が好きな奴を好きな人数連れて行け。道具も揃えてやる」
玄関から物音がした。振り向くと、白い防護服にゴーグルとマスクを身に着けた集団が、続々と入室して来た。『朱龍医院』の掃除人だ。彼らはモップから電動カッターに至るまで、あらゆる清掃道具を所持していた。
「ありがたいですねぇ、メンツについては後でリストを送りますよ」
掃除人の一人が鼬瓏に近づき、服を脱ぐようジェスチャーした。掃除人は鼬瓏が脱いだスーツをビニール袋に入れ、代わりの衣服を渡した。
色気のないジャージに袖を通しつつ、鼬瓏は肩と耳に電話を挟んで通話を続けた。
「でも、じゃあなんで国が見送るような獣人兵の試作品を、うちらが奪りに行くんですか?」
「なんでもクソもねぇだろ。売るんだよ」
「獣人兵を?」
掃除人たちはてきぱきと死体を片付け、部屋の掃除を始めた。散らかった室内が面白いくらいに手際よく片付けられていく。先ほどの掃除人が、消毒を終えた54式拳銃を鼬瓏に返してくれた。職人たちの熟達した仕事を見る一方で、耳元では青竜の淡々とした声が喋っている。
「俺たちがいつもやってる仕事と同じだ。獣人兵をバラして、腕でも脚でも臓器でも、物好きの狂った金持ちどもに売りつける。オークションにかけりゃ、億は下らんだろうよ。アルビノを欲しがるような連中は、間違いなく食いつくだろう。普段から人体を切り刻んで飾ってるようなクズどもだ。獣人兵を一体丸ごと剥製にして売ってやったっていい」
掃除人の一人が鼬瓏の方へ来たかと思うと、彼を素通りして、窓ガラスに塗られた血を拭い取った。泡をスプレーして、念入りにガラスを擦る。ガラスについた水滴のフィルターを通すと、外の景色が水没したかのように見えた。
水中に沈んでなお輝く都市。飾ることに必死で生きることを忘れ、溺れゆく者たち。なんと滑稽な景色か。息ができないことにようやく気づいて、必死に泳いで水面に上がって来た者たちを、鼬瓏はここから撃ち殺すのだ。きっと楽しいに決まっている。
鼬瓏はまたにっと笑みを浮かべた。その顔がガラスに映るのを見て、掃除人は寒気を覚えた。
「なるほど。あくまでやることはいつもと変わらないわけですね。ちょっと海を越えて、獣人兵とやらを誘拐しに行くだけだ。途中、日本兵や『獣兵解放軍』とやり合わなきゃならないかもしれないところが、スリリングでちょっと面白いってだけで」
「そうだ。お前はいつも通りの仕事をすればいい」
鼬瓏が身を置く『
だが、『朱龍医院』の実態とは、国内外に違法に売買されている臓器の「生産工場」であった。
『朱龍医院』は重傷患者や脳死患者の臓器を、本人や遺族に無断で摘出し、商品としている。臓器は健康状態に関わらず商品となり、粗悪な物は安価でスラムに流される。商品となる臓器の持ち主のうち、四割が来院者だった。
鼬瓏の仕事は、残りの六割。安価品となる貧困層、あるいは健康状態が良く良品となる富裕層からドナーを誘拐することだった。中国国内では、特に貧困層からは人間という資源は無限に湧いて出た。
町中を新鮮な状態で生きる豊富な「在庫」と、設備の整った「工場」により、『朱龍医院』はいつ如何なる奇怪な症状にも、見合った「商品」を提供することができた。裏社会でみるみる名を挙げ、『朱龍医院』は戦後五十年かけて現在の巨大な組織まで成長したのだった。
青竜は医院長としての表の顔を持つ一方で、裏の仕事の指揮も自ら率先していた。彼は生来、人を助ける仕事よりも他者を利用し搾取することに優れた才能を持つ人物だった。
近年では単純な臓器移植のみでなく、青竜が言ったような特殊な性癖を持った人種に人体を販売する事業も増加していた。そんな『朱龍医院』が、獣人兵という新たな種族とも言うべき者たちの肢体に、商品価値を見出さないはずはなかった。
「やってくれるな? 急いで準備しろ。出発は三日後だ」
青竜は鼬瓏の返答をわかり切った態度で言った。電話口で、彼は鼬瓏が期待通りの応えを口にすることを待った。
窓ガラスの水滴が消え、都市は地上に戻っていた。鼬瓏がまばたきを繰り返すと、街の光はマズルフラッシュのようにチカチカと明滅した。彼はそこに、銃器を構えた日本兵を重ねた。日本兵と銃を撃ち合う様を想像し、彼は恍惚とした表情で青竜に言った。
「もちろん。お受けしましょう。久しぶりの日本だ。楽しみですね」
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