第15話 暗雲


 大日本帝国陸軍釧路基地


 深夜零時、鍵原大尉は釧路基地に徒歩で帰還した。行方不明だった鍵原が軍服を泥だらけにして生還したのを目にした際、一生分のストレスに見舞われていた佐渡曹長はそのまま肺を吐き出してしまうのではないかというほど、大きな安堵のため息を吐いた。

「お怪我は?」

「軽傷です」

 死地を潜り抜けたとは思えぬほど、鍵原は本当に軽傷だった。複数の被弾があったものの、ボディアーマーに守られ全て打撲に済んでいた。むしろセミロングほどまで切り裂かれた髪の方が、視覚的にショッキングだった。

 休む暇も無く、鍵原は各機関に自ら生存を伝えた。いの一番に連絡を図ろうとした智東中佐は何やら立て込んでおり、夜明けを待つことになった。鍵原はシャワーで汗を洗い流し清潔な軍服に着替えると、休息をとるよう勧める佐渡曹長を退け、雲田が脱走した状況について再度検証するよう部下たちに命じた。

 現場の地下牢を鍵原は見に行った。雲田に殺害された兵士三人の死体は撤去されていた。弾痕や血溜まりは、コンクリートの壁と床に生々しく残っていた。現場にはまだ、硝煙が香った。

「山上兵長は首をへし折られていました。有明上等兵は顔を滅茶苦茶に、中堂一等兵は有明上等兵の89式でやられました」

 佐渡が発見直後の現場写真を鍵原に渡した。鍵原はそれぞれの死体の写真と、実際の血溜まりを見比べた。彼女は独自の洞察力と戦闘センスで、如何にして三つの死体が作り上げられたかを脳内でシミュレーションした。頚椎を折られているのと嘔吐の跡を見るに、山上と有明は素手で制圧されたに違いない。有明を殴り倒した後に、ライフルを奪って中堂を撃ったか。そのまま有明にトドメを刺し、服を奪って逃げた。

 彼らが丸腰の雲田一人に敗北した事実は、不思議ではない。非装備の雲田と武装した山上たちの戦闘力に差は無い。だからと言って、鍵原は雲田の脱走を予期していたわけではなかった。相応の段取りを踏み、警戒を怠りさえしなければ、彼らだけでも雲田の脱走を阻止することは充分に可能だったからだ。

 房の扉は壊されたのではなく、外から正規の鍵を使用して開錠されていた。鍵を持っていた山上が己の意思で開いたのだ。廊下には朝食のトレイが残っていた。朝食は受け渡し口から提供するので、扉を開ける必要はない。何故扉を開けた?

 房内に切り裂かれたシーツが落ちており、片割れは鉄格子に引っかかったままだった。縄状に捻じられたシーツの傍に、何かのシミが出来ていた。佐渡は雲田が着ていた囚人用のツナギを見せてくれた。失禁の跡がある。鍵原は鉄格子を注意深く観察した。

「自殺に見せかけ、房内に誘導したようです」佐渡が言った。

 鍵原は鉄格子を掴み、握力と膂力のみでよじ登った。鉄格子に引っ掛けられたシーツを鍵原は剥ぎ取った。シーツを巻かれていた鉄格子に、ごくごく細い傷が半周していた。

「……そういうことですか」

 鉄格子から軽快に着地し、鍵原は佐渡に向き直った。

「草薙曹長は起きていますか?」



「鍵原大尉、無事で何よりです」

「あなたも怪我は平気ですか? 草薙曹長」

 草薙は頭に包帯を巻いていた。こめかみを手でさすり、草薙は遺憾そうに眉をひそめた。

「ええ、なんとかね。奴がここに来た時、あたしはちょうどトイレに行っていたんです。戻って来た時に鉢合わせましてね、ガツンと一発やられましたよ。で、部屋の中を見たら、既にこういう有様だったわけです」

 草薙は幾つかの写真を鍵原に見せた。鍵原は真っ赤に染まった尋問椅子の前に、その写真をかざして現実に写した。

 写真には、尋問椅子に座らされた無残な死体が写されていた。損壊が酷く判別が困難だが、それは草薙の部下だった。彼は雲田から凄惨な拷問を受けた末、軍刀で顎から頭頂部を貫かれて死んだという。

 草薙は黒いマジックミラーと鉄扉に隔たれた隣室を指さした。

「入り口の近くに血痕があったでしょう。奴はまず、あたしの部下を一撃ぶん殴って怯ませて、こっちの部屋まで連れて来た。で、尋問椅子に座らせ、拷問した。大尉と例の少女がどこへ向かったのか、訊き出したんです。現場を見た私の予測ですが」

「ええ、その予測はおそらく合っているでしょうね」頷きながら、鍵原は写真と尋問室の中を交互に見た。「拷問に使われた道具は?」

「ほとんど素手でやったみたいですね。狙いを外さなければ、キンタマを踏み潰すくらい簡単ですから」

 佐渡がじろっと草薙を睨んだ。草薙は「失礼」と肩をすくめた。

「指を折るところから始めて、キン……睾丸を潰し、目を抉り出す。なかなかのもんですよ、専門家のあたしの目から見ても。どうやって恐怖を与えたらいいか、よくわかっている。こいつとはまだ二年くらいの付き合いですけど、気の毒ですよ。まさか自分の仕事場で、自分の仕事である拷問を受けてくたばるとは」

 草薙は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、深々とため息を吐いた。彼女の眼鏡のレンズにはヒビが入っていた。鍵原は尋問椅子と周囲に飛び散った血を、じっと観察していた。

「もしトイレに行っていなかったら、こうなっていたのはあたしでしょうね。そう思うと、ぞっとしますよ」

「……」

 髪を掻き上げ、草薙は眼鏡のフレーム越しに鍵原の横顔をちらっと覗いた。

 さあ、気づくか大尉? あたしの偽装に。道東自動車道で、あろうことか雲田はあんたに追いついたそうじゃないか。まさかあのガキ、あたしのことを口走っちゃいないよな? もしこの場で拘束されたら、すぐに自決しよう。きっと、鍵原が自ら拷問のフルコースを振る舞ってくれるはずだから。ご免だぜ。

 鍵原がこちらを見た。目が合った。草薙は平静だった。心拍も至って健康的な数値を保っていた。

「わかりました」鍵原は写真を草薙に返した。「優秀な部下を亡くして残念でしょう。ゆっくり休んでください、草薙曹長」

「ええ、暫く傷心に浸りますよ。柄にも無いですけどね」

 鍵原も佐渡も、草薙を怪しんでいる様子は皆無だった。内心でほくそ笑み、草薙はさりげなく鍵原の胸元を見た。軍服の中に隠れているはずの、「KITSUNE」と刻印された認識票を夢想した。

 草薙は雲田にデジタルカメラを渡してやれば良かったと後悔した。雲田が護衛小隊に追いついた時、鍵原の顔を激写したとしたら、きっと興味深い驚愕の表情を拝むことができただろうから。



      ♢



 陸別町陸別栄町


 日本軍からイリスを奪還してから、一夜が明けた。カーテンの隙間から朝日が差し込む。ベッドに眠るイリスの顔には、昨晩のように悪夢にうなされる苦しさは無かった。小さな寝息を立てるその頬を、雲田は優しく撫でた。

『信ずる者を救う会』は臨時アジトとした民家の二階の部屋を、雲田とイリスの寝室として貸してくれた。イリスがベッドに寝て、雲田はベッドを背凭れにして床に座って寝た。雲田は二時間だけ寝て眠気を完全に吹き飛ばすと、一晩中イリスのことを見守っていた。

 カルロスたちは生半可なテロリストとは一線を画した。彼らは二十四時間家の周囲を見回りし、不測の事態に備えている。立ち姿一つを取っても、彼らの身のこなしはプロのそれだ。少なくとも技術面において、雲田は『信ずる者を救う会』に強い信頼を置きつつあった。

 部屋の外の床が軋む、微かな気配を雲田は感じた。味方とわかっていたが、雲田は反射的にレッグホルスターの9ミリ拳銃に手を伸ばした。

 外からドアがノックされた。ドア越しにジゼフが話しかけた。

「起きてるか」

 雲田はイリスを起こさないようにそっとベッドから離れて、ドアを開けた。Tシャツの袖から鍛え上げられた太い腕が覗く、モヒカンヘアの黒人が壁のように立っていた。この男がカルロスに次ぐ『信ずる者を救う会』の実力者であることは、雲田の目にも明らかだった。

「なんだ?」雲田はぶっきらぼうに言った。

「休めたか?」

「うん、おかげさまで。ベッドはイリスに譲ったけど、地下牢のベッドに比べればここの床はずっと清潔だったよ」

「二段ベッドがある部屋に替えようか?」

「別にいいよ。どうせ使わない」

「そうか。あの子は寝ているか?」

「ぐっすりだよ。だから話はできるだけ早く済ませたいね」

「そうだな、手短に済ませよう」

 イリスの方をちらっと見る。すやすや寝ており、起きる様子はまだ無い。ジゼフは言われた通り、すぐに本題を切り出した。

「欲しい物はあるか?」

「欲しい物? というと、食事とか? 後でイリスに好物を訊いておくよ」

「それもある。服も当然用意するが、あとは君の装備とかだな」

「銃を貸してくれるの? 気前が良いね」

「カルロスの指示だ。君と我々はいわば同盟だ。それに、君の実力は実際に目にしているからな。出来る限りの支援はしよう」

「ありがたいね、じゃあ遠慮なく。AK-47はあるかい?」

「ある。ライフルはAKが好みか?」

「一番手に馴染んでる。拳銃は何でも良いかな。今はこれがあるけど」

 雲田は日本軍の9ミリ拳銃をホルスターから抜いて、ジゼフに見せた。ジゼフは鼻の頭を指で掻いて、言った。

「俺たちは日本兵から武器を鹵獲しないことにしている。獣たちが触れた穢れた武器だからだ。戦闘中にやむなく使用することはあるがね」

「なるほど、君ららしいな」

 ジゼフは尻のポケットから拳銃を取り出し、雲田に差し出した。

「ブローニングハイパワーだ。同じ9ミリ。装弾数は十三発」

 雲田はブローニングハイパワーのマガジンを取り出し、スライドを引いて一連の動作をチェックした。薬室から排出した弾薬を宙でキャッチしてマガジンに戻し、再装填してセーフティをかける。

「良いね。じゃあこっちは処分してもらおうかな」

「ああ。予備のマガジンは後で支給しよう」ジゼフが9ミリ拳銃を受け取る。「他に欲しい物は?」

「あとは別に……ああ、ナイフが欲しいかな。本当はもっと大きい刃物が欲しいんだけど。持ってた刀は、捕まった時に没収されてね」

「昨日死んだ仲間が持っていたマチェットがある。それで構わないか?」

「貰っていいのかい」

「使ってくれた方が、彼も喜ぶ」

「そう、じゃあありがたく」

 ブローニングハイパワーをレッグホルスターに収めようとして、雲田はふと思いついて尋ねた。

「サイレンサーある?」

「マガジンと一緒に渡そう」

「助かるよ」

 ジゼフは、というより彼だけでなくカルロスも、他の者たちも雲田の素性や獣人であるイリスについて、深く追及しようとはしなかった。雲田が何者であろうと、イリスが普通の人間でなかろうと、彼らにとって重要な問題ではないのだ。彼らにとって最も重要なのは日本兵を倒すことで、その過程に雲田とイリスはたまたま関わっただけであり、カルロスに言わせれば「些細なこと」なのだろう。ひたすら目的に邁進する在り方は、『獣兵解放軍』と似通っていた。確たる信条を持った者には、清々しいほどに迷いが無い。

 逆に言い換えるなら、目的のために狭まった彼らの視野に他のモノは映っていないのだ。

「数日間、ここに滞在する予定だ。日本軍の動向を見ながら、北見に移動する」

「わかった。後でカルロスと打ち合わせさせてくれ」

「伝えておこう」

 立ち去りかけて、ジゼフは部屋の方を振り向き、ベッドにいるイリスに視線をやった。イリスを眺めたまま、彼は言った。

「あの子の警護は君に任せる。カルロスがそうしろと」

 雲田は腕を組み、ドア枠に肩で寄りかかった。

「言われなくてもそのつもりだ」

「決して離れるな」

「当然」

「……これからあの子には、さらに厳しい現実が待っている」

 ジゼフが低い声で発した言葉は、声音通りの重みを持っていた。彼が言わんとすることを、雲田はずっと昔から理解していた。雲田は鋭い眼差しで、ジゼフを見た。ジゼフはそれに負けない眼力で、雲田を見つめ返した。

「獣人の存在に気づいているのは、我々だけではない。あちこちの国から、勘づいた者たちがあの子や、他の獣人を狙ってこの国に集まってくる。その全てから、我々はあの子を守らないといけない」

 世界中が敵になり得る、とジゼフは言った。誇大表現に思えるそのセリフは、悲しいことに的を射ていた。雲田は自分の腕を強く握った。

「わかってるよ」

 たかだか一つや二つ、嵐を乗り越えただけ。さらにどす黒く、恐ろしい雷鳴を轟かせながら空を塞ぐ暗雲が、逃がすまいと雲田たちに近づこうとしていた。見えないところから、着実に。

「全部、覚悟の上さ」

 カーテンの隙間から差していた朝日が消え、イリスの顔が薄闇に沈んだ。暗い何かが、太陽を塞いだ。




 その頃、ジゼフの言った通り、世界各地からけだものたちがこの北の地に集まろうとしていた——。


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