第20話 獣人兵


 大日本帝国

 札幌市南区 札幌獣兵研究所


 広大な敷地面積を擁する研究施設の中でも、最も高い標高を誇る東棟の地下五階の、医療施設のように清潔な廊下を智東ちとう中佐と相木あいき所長は、ともに部下を引き連れて歩いていた。

 智東の傍らには、側近の八神やがみ少尉がいた。色黒の八神少尉は三十代でありながら十歳ほど若く見える青年のような、幼い顔立ちをしていた。頬にある創が、辛うじて彼の貫録を保っている。腹心として長年智東をサポートしてきた八神は、最も信頼された部下の一人だった。

 相木所長の周囲には、助手である研究員が二人と、護衛の兵士が三人付き従っていた。『獣兵解放軍』の襲撃事件以来、相木は智東に無理を通して常に護衛を付けさせていた。懇意にしていた女性研究員のシンシア・コヴァルチックから悲惨な裏切りを受けて以来、相木は極度の人間不信に陥っていたのである。

「実際、中佐からのそうした申し出を待っていたのですよ、私は」

 相木は五十代後半の小柄な男だった。身長は160センチ程度で、やや小太り気味。白髪を隠すよりもむしろ全て白く染めてしまうことを選んだ彼の髪は、手洗いに行くたびに、今も白衣のポケットに収められている櫛で丁寧に整えられていた。今日も相木のオールバックは一糸乱れぬ見事な白い丘だった。

 小さな瞼の奥にある小さな目をきょろきょろと動かしながら、相木は喋る。

「例の獣人兵は既にここでは研究し尽くしていましてね。後は実戦投入のデータ採取を残すのみだったのです、ええ。残念ながら彼には種が無くてですね。交配させることはできないので。なので最悪、死んでしまっても……構わないというわけではないですがね、ええ。致し方ありません。それもまた貴重なデータとなりましょう」

 相木とオールバック仲間である智東は、ストレスが髪に現れてしまい、ここのところセットが乱れがちだった。自分の身なりにしか興味のない相木は智東の不調に気づく素振りも無かったが、表情を見てみると、確かにいつもより不機嫌そうな気もした。鈍感な所長と違い、神経質な気のある研究助手たちはこの日訪ねて来た智東を見て血の気が引く想いだった。智東は今にも人を殺しそうな、殺気立った顔をしていたのだ。

 獣兵研究所警備の失敗、夕張で獣人兵を誤射し死亡させ、ついには先月、直接指揮していた特別護衛小隊が全滅した。ここ三ヶ月溜め込んだ智東のストレスはメーターを振り切ったのだった。昇進するにつれて現場を離れる機会が増え、デスクワークに追われる日々によって丸くなったと札幌基地で専らの噂であった智東は、かつての凶暴な指揮官に返り咲こうとしつつあった。もはや彼は如何なる上官から反感を買い、キャリアに致命的な損害を被ろうとも、手段を選ぶつもりはなかった。

 イリスの護送失敗から今日までの半月間、智東は持てる限りのコネと、少々の非合法な手段を用いて、獣人奪還作戦への獣人兵投入を各機関に容認させるために奔走していた。汚名返上のためではなく、これは智東の執念だった。試作段階の獣人兵を実戦投入することに反対する声は当然少なくなかったが、当の責任者である相木所長が、その多くの者たちの予想に反して乗り気であったことが、最終的な認可の下りた要因だった。

 獣人研究の第一人者である相木は、自分の作品が戦場で如何なる成果を発揮するかを、ずっと試してみたくてしょうがなかったのだ。

 智東たちが長い廊下を歩いた末に、袋小路に差し掛かった。相木の助手が壁の一部を押すとパネルが開き、誰にも見えないようにパスワードを入力した。すると道を塞いでいた壁が上昇し、通路が現れた。

 護衛の兵士たちを振り向いて智東は言った。

「君たちはここで待っていてくれたまえ」

 相木がちらっと八神に目をやる。智東は口を微笑ませた。

「彼は信頼できますよ、所長殿」

「ではいいでしょう。行きましょう」

 智東たちがくぐると、再び壁が降りて入り口を塞いだ。残された兵士三人は真っ白な壁を警護する暇な任務にあたった。

 外の廊下と変わらない、殺風景な景色が続いた。100メートルほど歩くと、左側の壁がガラス張りになっている道に差し掛かった。ガラスの壁の前で、相木は立ち止まった。

「中佐に是非お貸ししたいと思っているのは、彼ですよ」

 相木はガラスの向こう側を指さした。智東は指でガラスを叩き、強化ガラスだと見抜いた。期待に胸を膨らませながら、智東は目を上げた。

 ガラスの向こうにある景色は、それまでの廊下とは全く異なった。そこに広がっていたのは、ごく普通の生活風景だった。

 三十畳はある広い部屋に、テレビやソファ、ベッド、冷蔵庫。仕切りの向こうにはトイレとバスもある。壁一面の棚は書籍がびっしりと埋め、一般的水準よりもむしろ贅沢な生活環境だった。インテリアに疎い智東が知る由は無いが、部屋にある家財は全て高級品だった。

 相木は自慢げに、ガラスの向こうの部屋を指した。

「彼の名はベイル。ゴリラの遺伝子を継いだヒトとのハイブリッド獣人だ。正式名は『ショウジョウ型獣人兵零式』」

 智東は食い入るように、部屋の中に居る獣人を見つめた。

 ソファに寝転がり、分厚い本を読んでいる男がいた。こちらに足を向けており、顔はよく見えない。ソファの周りには幾つものブックタワーが築かれていた。傍にあるテーブルには、フルーツバスケットがある。

 相木が苦笑した。「近頃は読書に夢中でね。本を与えると好きなだけ読むんだ。私たちが作った獣人の中でも、特に彼は賢い」

「本を読んで……理解しているんですか?」

「そうとも。知能は人間と変わらない。むしろ、彼は人間よりも頭が良いのですよ。なんと彼は英語も読めるんです」

 智東は目を輝かせた。「素晴らしい」

 廊下の天井にある監視カメラに、相木が手を振る。別室から常時、獣人ベイルを監視している研究員が、室内のスピーカーをオンにした。

「こんにちは、ベイル。私だよ」

 それまで聞こえていなかった相木の声が、スピーカーを通してベイルに届いた。ベイルはぴくっと反応し、本を閉じて起き上がった。その姿を、完成された獣人兵の姿を——智東は目の当たりにした。

 ベイルは真っ黒な男だった。肌が褐色という意味ではない。彼の肌は本当に黒い。全身が黒い短毛に覆われているため、智東は最初、彼は長袖を着ているのかと思った。ベイルはズボンしか穿いていない。ゴリラというから巨漢を想像していた智東は、意外と細身なベイルの体躯に面食らった。しかしよく見てみると、毛皮の内側には確かに引き締まった筋肉が隠されていた。

 手足は通常の人間よりも大きい。それ以外は、ゴリラ的特徴はほとんど見受けられなかった。細身の体躯は、背丈180センチ程だろうか。

「こちらはこの前話した、智東中佐だよ。お前の上官となるお人だ」

 ベイルの茶色い瞳が、智東をじっと見た。人間的でないその眼差しは、猛獣のそれであると智東は悟った。一種、品定めするようにベイルは智東を観察した。智東が、そうしているように。

「彼はいくつですかな?」智東は相木に尋ねた。

「十五歳です」

「成人に見えるが」

「動物の血が強いですからね、成熟も早いのです。頭脳も既に成人の人間と同じレベルに発達しています」

「彼には何ができる?」

 智東が相木の方を向いた。相木は得意げににやりと微笑んだ。

「本物のゴリラほどの身体能力はありません。ですがゴリラよりも知能が高い。人間の戦術を理解し、銃器を扱うことができる。ゴリラの握力は500キロと云われていますが、ベイルの握力は250キロ近くあります。人間の五倍です。人とのミックスなので当然身体能力はゴリラに劣りますが、人間のそれとは比較になりませんよ。まさに超人です。何でもできますよ。何でもね」

「ショウジョウ型獣兵とどちらが強い?」

 智東がガラスの方に目を戻す。すると目の前に、林檎が一つ飛んできていた。ソファに居るベイルが、バスケットから取った林檎をこちらに投げたのだ。

「なんだ?」

 その時、反射的に八神が智東の前に割り込んだ。次の瞬間、八神の眼前で林檎が巨大な手に押し潰され、破裂した。

 大きな音が鳴り響き、強化ガラスに振動が伝わった。ガラスは割れることは無かったが、些か揺れたように智東は感じた。

 ガラスを隔てたすぐそこに、ベイルが立っていた。目の前のガラスに、ベイルの大きな手のひらが張り付いている。

 ベイルの張り手を受けた林檎は粉々になり、果汁がガラスにべっとりついていた。智東はベイルと、彼の背後にあるソファの間で目を右往左往させた。ソファからここまで、四メートルはある。

 ついさっきまで、ベイルはソファに座っていたはずだった。人間の速度では無かった。もはや、獣でさえできる芸当ではない。こんな動きをする生物など、存在しなかった。ベイルはゴリラほどの膂力を持たない代わりに、痩躯を駆使してゴリラを上回る俊敏性を獲得していたのだ。

 智東を守るように立ちはだかりながら、八神はベイルを睨みつけた。ベイルは可笑しそうに目元を緩ませていた。

「申し訳ありません、中佐」相木は微笑ましそうに言った。「ベイルは時々こうして、私たちのことをからかうんですよ。驚かせてね。ベイル、その壁は自分で拭いておくんだぞ」

 ベイルがガラスから手を離す。砕けた林檎がへばりついていた。ベイルは手のひらをべろりと舐めた。その際に、鋭く尖った牙が覗いた。

「会話はできるのか?」

 八神を押し退けてベイルの前に立ち、智東は相木に訊いた。相木は強く頷いた「もちろん」

 智東はガラスに顔が触れるぎりぎりまで、ベイルに歩み寄った。ベイルは果汁を舐めながら、智東を見つめ返した。上機嫌そうな口からはみ出した牙は、智東の胸に渦巻く破壊衝動をそそった。ああ、この獣人を思うがままに兵器として扱えたら、どんな愉快な戦術を組み立てられるのだろうか。

「初めまして、ベイル。俺は智東中佐だ」

 ベイルは返答せず智東を眺めている。構わず、智東は質問を投げかけた。

「君は君の祖よりも……ショウジョウ型獣兵よりも優れているか?」

 ベイルははあ、と一度息を吐いた。数秒の間を空けて、彼は喋った。

「ゴリラの獣兵のことか?」

 とっくに成熟した声帯から発する声は非常に低く、ゴリラが人語を発したらこうなのかもしれない、と智東は思った。ベイルは部屋の一角を指さして言った。

「この前、殺したよ。その獣兵なら」

 ベイルが指をさした方向を見てみると、壁にあらゆる動物の頭蓋骨が飾られていた。それまではベイルに気を取られて、智東も八神も気づいていなかった。一種の民族的な儀式の祭壇のようにも見えたが、それらはベイルに許された数少ない私物であり、彼にとってはトロフィーのようなものだった。頭蓋骨はどれも鋭い牙を持つ肉食獣ばかりで、そのなかにゴリラの頭蓋骨が混ざっていた。

 相木に視線を投げて、智東は説明を求めた。相木は肩をすくめた。

「人間ではもう、彼の戦闘訓練の相手にはならんのですよ」

 智東は満足げに笑顔を浮かべた。この数日の疲れが吹き飛ぶかのようだった。智東はベイルを部隊に加入させることを決心した。




CHAPTER.2 聖者の侵攻……終

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