第13話 再会

 雲田が鍵原に飛びかかろうとしたその時、『信ずる者を救う会』の戦士たちが発砲した。反射的に雲田は立ち止まり、目の前に弾丸の雨が降り注いだ。鍵原は踵を返すと、迷わずにガードレールを越えて飛び降りた。

 銃弾の数発が鍵原の背中に当たった。ボディアーマーに阻まれ、手応えは浅い。ガードレールの下に落ちていく鍵原が振り向き、肩越しに雲田と目が合った。

 雲田はナイフを投げた。鍵原の獣の眼を狙って投げたナイフは、ガードレールを跳ね返って路上に落ちた。

『信ずる者を救う会』の戦士たちが駆けつけ、ガードレールの下の茂みを撃った。暫く闇雲に撃っていたが、やがてカルロスが制止した。

「やめなさい。姿を見失った以上、深追いすれば奴にゲリラ攻撃を許すことになる。たとえ丸腰でも、彼女は危険だ」

 彼らと並び、雲田は広大な音別町チャンベツの森を眺望した。無数に立ち並ぶ木々と、生い茂る草原のどこに鍵原が潜み、逃げおおせようとしているのかを見つけることは限りなく不可能に思えた。

 空虚の沈黙が彼らを包んだ。暫くして誰からともなく、嵐の過ぎ去った脱力感に襲われた。一人が深々とため息を吐いたのを皮切りに、場に居る者たちが次々と疲労を露わにした。

 途端に緩んだ空気を引き締めるために、一人の男が厳かに指示を放った。組織の副長であるジゼフだ。

「警戒を怠るな。トンネルの向こうにまだ生きてる兵士がいるかもしれん。仕留めてこい」

 ぴりっと緊張感を取り戻し、マスクを被った戦士たちは素早く方々へ散った。ジゼフがカルロスに近づき、肩を貸した。

「立てるか、カルロス」

「ああ、平気とはいかないがね」

 カルロスは自力で立った。キャソックはボロボロに切り裂かれ、ボディアーマーにも傷がついていた。彼は胸のあたりをさすって言った。

「胸骨と肋骨にヒビが入っているかもしれんな。イノシシ型獣兵のタックルを食らった時と似た感触がするよ」

「冗談だろ、相手は人間だぞ」

「あれが人間に見えたのか、ジゼフ?」カルロスは雲田に視線を向けた。「君はどうだね、人間に見えたかい? 彼女が」

 雲田はガードレールの下に落ちたナイフを拾い、カルロスに柄の方を差し出して返した。

「どうだかね」雲田ははぐらかした。

「私はカルロス。協力感謝する」

「こちらこそ」

「君は『獣兵解放軍』と協力していた……フクロウだね? 帝国軍に捕まったと聞いていたが?」

「外出許可をぶん奪って来ただけだよ、衣服とバイクもついでにね」

『獣兵解放軍』のごく限られた者しか知らない雲田のコードネームを知っているということは、つまり『獣兵解放軍』と『信ずる者を救う会』の協力関係、あるいは共闘契約が深くまで進んでいるということだった。雲田が檻に入っているおよそ一日の間に、勢力図がこうも激変しているとは、流石に予想外だった。カルロスを引き入れるために、『獣兵解放軍』は何を支払ったのか気になるところだった。

「そっちは『信ずる者を救う会』だな」

「ああ、そうだ」

「『獣兵解放軍』との話はどこまで進んでいる? 彼らが護送車襲撃を指示したのか?」

 ジゼフがきびきびとした口調で二人の会話に割り込んだ。

「話はここを離脱してからにしよう。ミス・フクロウ、少女はこっちの車に保護している」

「!」

 雲田は途端にカルロスのことを忘れたかのように、ジゼフが指した方角にあるワゴン車へ脇目も振らず走った。道中に倒れていた日本兵の死体から89式自動小銃を拾い、『信ずる者を救う会』の戦士と同様に臨戦態勢を保ったまま、ワゴン車に接近した。ジゼフは雲田が日本兵と間違われて誤射されないように、彼女の後を追いかけた。

 ブラウンのワゴンの車内に、イリスと戦士が一人居た。ジゼフがドアを開け、中に居る仲間に雲田が敵でないとハンドシグナルした。

 シートにもたれてうずくまっていたイリスが雲田を見上げ、目を丸くした。

「雲田さん……?」

 声を裏返らせ、イリスはまじまじと雲田を見つめた。彼女が本物であることを確かめるように、相違点を探すように、何度も目で往復し、最後にもう一度顔を見て本物だと確信を得た。

「雲田さん!」

 イリスが雲田に飛びついた。イリスが89式の銃身におでこをぶつけないように脇にどけて、雲田は飛び込んできた少女の体を受け止めた。

 窒息しないか心配になるほど雲田の胸に顔を埋めて、イリスは泣き出していた。ジゼフが89式を寄越すようジェスチャーしたので、雲田は申し出に甘えた。空いた手で、雲田はイリスを抱きしめた。

「遅れてごめん」

 イリスを抱きしめながら、雲田は彼女の耳を手で塞いだ。

 トンネルの向こうで、銃声が鳴った。続け様の銃声が三度鳴り、少し間が空いて四度目が鳴った。軍服に涙と鼻水をつけて、イリスがようやく雲田の胸から離れた頃、日本兵を殲滅した戦士たちが帰って来た。

「安全な場所へ送るよ」

 カルロスが指揮を執り、雲田とイリスを乗せた『信ずる者を救う会』一行は、血みどろの戦場を後にした。



      ♢



『信ずる者を救う会』は銃撃で破損した車両を本別町の森の中に捨て、待機していた仲間と合流した後、国道242号を経由して陸別町まで移動した。

 陸別町陸別栄町にある民家を、『信ずる者を救う会』は一軒丸ごと購入していた。そこは道内に潜伏するために何年も前から組織が所有している一軒家であり、普段は非戦闘員が一般人として暮らしていた。夜更けになってから、カルロスたちは一軒家のすぐ隣に増築したプレハブ車庫に車を入れ、休息をとった。

 臨時アジトとなるその家の裏手の林の奥には、かつて陸別神社と呼ばれていた神社跡地があった。日本国内の神社は稀に歴史遺産として残されることがあったが、陸別神社は多くの例に漏れず管理する者が居なかったため、社は既に倒壊し瓦礫は草木に覆われ、見る影もない。カルロスたちはその陸別神社跡地を掘り返し、マイク・デーンから購入した多数の武器を埋めて隠していた。イラク軍の特殊部隊出身でカモフラージュのプロフェッショナルである戦士が監修し、武器を隠した場所には掘り返す以前と全く同じように瓦礫が敷かれ、踏み荒らされた草原も元に戻っていた。日本兵が跡地に踏み入れたとしても、そうとわかって調べなければ武器の隠し場所は絶対にわからなかった。

 アジトに着くと、カルロスたちはまず車から仲間の死体を下ろした。この日犠牲となった九人の死体を並べ、彼らは祈りを捧げた。己の傷の治療よりも、何よりもカルロスは散った仲間のために祈ることを優先した。死体の前に跪き手を合わせる彼らを眺め、雲田はこれこそが彼らの真の武器なのだと悟った。『信ずる者を救う会』は、まさに日本軍と対局に信条を置く組織だった。

 祈りを終えると、カルロスは皮剥ぎという異名が嘘のように温和な振る舞いで雲田とイリスに話しかけた。

「風呂に入ってくるといい。今日は疲れただろう」

「私は別に……」と言いかけて、雲田は訂正した。「そうだな。行こう、イリス」

 雲田はイリスから少しも離れないようにしたかった。『信ずる者を救う会』の、少なくとも首領のカルロスは信用に足る男だったが、他の者たちはまだわからない。それに信用できるといっても、それがイリスの身の安全の保証になり得ないことは、レオの冷凍車が検問で捕まった経験で身に染みていた。

 雲田とイリスは厚意に甘え、風呂に入った。浴室は思いのほか広く、イリスを充分にリラックスさせてやることができた。家は二階建てで、周囲の民家の二倍は敷地がある。この家を買うほどの金持ちならば、車庫を増設することも、時折団体の客を招くことも近所から不審がられずに済むのだ。おかげで雲田も久々に肩まで湯に浸かることができた。二人で湯船に浸かると、お湯が贅沢に溢れていった。日常のどんな出来事も、この一日雲田たちがくぐり抜けた修羅場に比べると些細なことに見えてしまった。

「雲田さん」

「なに」

「肩から血出てる」

 イリスが心配そうに雲田の右肩を指さす。独房を抜ける際に銃弾が掠った傷だった。まだ縫合もしていなかったので、気休めに巻いたタオルが真っ赤になっていた。

「大したことないよ。お風呂上がったら包帯を借りるよ」

「酷いことされたの?」

「いや、別に……」雲田は釧路基地の尋問室を思い出した。あそこで草薙と交わした密約も、同時に脳裏を過ぎった。草薙のことはイリスにはもちろん、カルロスたちにも教えるつもりは無かった。「何もされなかったよ。君こそ無事だったかい?」

「うん、わたしは何もされなかったよ」

「……」

 パーキンたちが処刑された事実を、イリスは鍵原から告げられていたはずだった。雲田はそれに言及しようとして、やめた。イリスが自ら切り出すまで、敢えて触れずにおいた方がいい。

「そっか。良かったよ」

 何も良くはない。一昨日、検問で捕らえられてしまったことは雲田の失態だった。釧路基地の兵たちを舐め過ぎていた。『信ずる者を救う会』の協力を得てイリスを無事に取り戻せたことは奇跡に等しい。実のところ、雲田は現場に着くまでは単独で特別護衛小隊を倒す気でいた。彼らの武装を顧みても、かなり無謀な賭けだったことは確かだ。

 こんな幸運はそう続かない。もう二度と、雲田はイリスの傍を離れてはいけなかった。雲田はそう自らに誓った。雲田の目的は『信ずる者を救う会』のように日本兵を抹殺することでも、ましてや『獣兵解放軍』のように獣人を救出することでもないのだ。

 イリスを守ることが雲田の役目だ。他の誰でもない、どの獣人でもない。イリスだけが雲田にとって重要だった。

 湯船の中で、雲田は密かに拳を握りしめた。雲田の体には無数の古傷があったが、湯気のおかげでイリスにはほとんど気づかれることはなかった。

「……イリス」雲田は約束を新たにした。「今度こそ私は君を守り抜くよ。もう二度と、奴らの手には渡さない」

 もし日本軍に捕まり札幌獣兵研究所に連れ戻された後、イリスが何に使われるかを雲田は知っていた。絶対にそんなことはさせない。雲田は別に、全ての動物が平等に扱われるべきだなんていう獣兵解放思想は持ち合わせていない。だが、『獣兵解放軍』の理念には賛成できる。

 この世に生まれた全ての生き物は、自由に生きる権利がある。イリスもそうであるべきだ。そうでなくてはならない。

 湯気の向こうに、お湯の熱さで火照ったイリスの顔があった。濡れた耳の羽毛が頬に張り付いていた。カルロスたちはイリスが獣人であることを知っていたから、ここでは気を遣う必要は無かった。

「雲田さん」イリスが出し抜けに尋ねた。「雲田さんの本当の名前は……雲田さんじゃないって本当?」

 雲田は一瞬、硬直した。誰がイリスに吹き込んだのかは想像に難くない。あのキツネ目の陰湿大尉だ。あの性悪め、余計なことを。

 雲田は真実を告げるか否か、答えるまでの数秒間に思案した。その真実をイリスに告げることが、果たして彼女のためになるのか、雲田にはまだ判断できなかった。パーキンたちの死を知る必要が無かったように、全ての事実を知らなければならないことなど無いのだ。

 雲田が胸に秘める真実は、もしかしたらイリスにとって不要なことなのかもしれない。だから今は伏せておいた方がいい。

「デタラメだよ」

 雲田はかぶりを振った。

「私は雲田刀子だ」

 イリスがほっと安堵の表情を浮かべた。どこか罪悪感に似たものが芽生え、雲田は嘘の中に真実を織り交ぜることを我慢できなくなった。

「君を……」

「え?」

 雲田は言った。

「君を救う人間の名は、雲田刀子であるべきだ」

 イリスは小首を傾げた。雲田は瞼の裏に、彼女が知る本当の「雲田刀子」の顔を描いた。瞼を開け、目の前にいるイリスの顔と、雲田刀子の顔を重ねた。肩に巻いたタオルの下から、赤い筋がこぼれ落ちた。次に瞼を閉じると、浮かんだのは鍵原の顔だった。

 鍵原風美。「雲田刀子」を殺した、張本人——。

「上がろうか」

 雲田は湯船から立ち上がった。

 イリスの華奢な手を取り、立ち上がらせた。少しゆっくりし過ぎたようだ。イリスはのぼせそうになっていた。


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