第12話 キツネ

 これは車ではない。しかも速い。バイクだ。時速100キロは優に超えている。凄まじい速度で、まっすぐ、こちらに近づいてくる。エンジン音が、もうすぐそこに。

 カラマントンネルの闇の奥から、一台の偵察用バイクが飛び出した。トンネルを抜けた直後に、ライダーがシートから飛び降りた。メーターが時速110キロを超えていたバイクは独立したまま走行を続け、鍵原とカルロスに突っ込んでいった。

 鍵原とカルロスは、互いに後方へ身を躱した。軍刀はカルロスの首の皮だけを、浅く裂いた。バイクは二人の爪先を掠り、ランプドアを駆け上がって96式装輪装甲車の車内に激突した。

 装甲車の車体が揺れ、大破したバイクの部品が外へ転がり出た。バイクから飛び降りたライダーは数メートル路上を転がった後すぐに立ち上がり腰から軍刀を抜くと、一目散に鍵原の方へ走った。

 鍵原は向かって来る人物の姿を認めた。軍服の上に黒いコートを着た少女のシルエット。人間離れした走力に、鋭い眼光。その人物こそ、鍵原がこの場所に現れると予期しなかった存在だった。

「何故ここに……!」

 雲田刀子は充分な助走をつけて高く跳躍すると、頭上から鍵原に襲いかかった。鍵原は雲田の斬撃を軍刀で受け、背後へ受け流した。雲田は路上で一回転し、すぐさま切り返して起き上がった。

『信ずる者を救う会』の面々は、突如現れた少女が果たして敵なのか判断に迷っていた。日本兵の軍服を身に着けていたが、彼女が襲いかかったのは鍵原の方だった。彼女は味方なのか? 風貌通りであるなら、彼らは彼女を撃ち殺すことを躊躇わない。

 カルロスは瞠目し、雲田を眺めていた。雲田の登場によって、怒髪天を突いていたカルロスはクールダウンしていた。冷静な判断力を取り戻したカルロスは、雲田が何者なのかを見極めようとした。

 雲田の目が、ちらっとカルロスを一瞥した。目が合ったのはほんの一瞬だった。

 その瞬間、二人は互いが何者かを悟った。

 そして鍵原はこの後何が起きるのかを察し、腰のホルスターに手を伸ばした。

 雲田が無言で、カルロスに軍刀を投げた。カルロスは軍刀をキャッチし、雲田は背負っていた89式自動小銃を構え、両者ともに鍵原に向かって突撃した。

 合図も、アイコンタクトさえも無かった。雲田とカルロスは役目をそれぞれ理解すると、己を鍵原を殺すためのマシーンと化した。

 雲田が89式で鍵原を銃撃する。鍵原は右手に軍刀、左手に9ミリ拳銃を構えた。カルロスの方へ走りながら、鍵原は雲田に応射した。

 間合いに入り、カルロスが鍵原に軍刀を一閃する。鍵原は刃こぼれした軍刀でカルロスの斬撃を受けた。雲田の弾が肩を掠ったが、鍵原は顔色一つ変えず、正確無比な射撃を雲田に与えた。鍵原の弾は、89式のマガジンを破壊した。

 応射と並行し、鍵原はカルロスの繰り出す巧妙な斬撃の数々をいなしていた。89式を捨てた雲田が、拳銃を抜いていた。鍵原は長い脚を振り上げ、カルロスの横顔に蹴りを入れた。よろめいたカルロスが雲田の射線に割り込む。鍵原の視界から雲田が失せたが、雲田もまた鍵原を銃撃できなかった。

(まずは皮剥ぎカルロスから、仕留めますか)

 この際、雲田を再度生け捕ることは無理だろう。致し方ない、どちらも殺そう。鍵原は拳銃の残弾数を頭の中で数えた。残り三発。

 出し抜けに、カルロスが頭を下げた。すると背後から雲田が飛び込んできて、手にしていた獲物で鍵原に攻撃した。咄嗟に上体を横へ逸らして躱したが、三つ編みにした鍵原の長い髪が切られ、どさっと落ちた。着地と同時に、雲田は鍵原の背後に回り込んだ。

 軍刀はカルロスに渡し、雲田の武器は拳銃しか残っていないはずだった。あの獲物は……ククリナイフ? さっき折ったはずだ——違う、あれはそう、カルロスと接敵した際に89式に刺さった方の一本だ——そうか、あれを拾ったのか。

 カルロスに発砲しつつ、鍵原は背後の雲田に軍刀を振るった。カルロスは首を傾げて銃弾を避け、雲田はククリナイフで防御した。

 カルロスが繰り出した斬撃を、鍵原は蹴り払った。ブーツの先端に金属が仕込まれていた。鍵原は器用に左腕を折り畳み、脇の下から背後の雲田を撃った。背中に斬りかかろうとしていた雲田のククリナイフに着弾し、攻撃を未然に防ぐ。並行し、鍵原はカルロスの胴を斜めに斬った。ボディアーマーが斬撃からカルロスを守ったものの、打撃から守ることはできなかった。激しい衝撃に見舞われ、カルロスが後ずさった。

 鍵原が背後を振り返る。独房の鉄格子を挟んで正対して以来、今二人の間にあるのは刃と銃弾だった。鍵原が突きつけた拳銃を、ククリナイフが一刀両断した。拳銃を捨てた手で、鍵原が雲田の手ごと、ククリナイフの柄を握った。無防備な左半身に、鍵原は軍刀を振り下ろす。

 カルロスが背後から、軍刀でそれを止めた。雲田が鍵原を蹴りつけて手を振り払い、カルロスとともに反撃に出た。鍵原は籠手やブーツで防御しつつ、軍刀一本で二人と渡り合った。

「……!」

 雲田とカルロスの連携が、精度を増していく。徐々に、鍵原は押され始めた。初めて顔を合わせたはずの雲田とカルロスは、長年背中を預け合った相棒のように見事な連携を披露していた。

(やはり、そうですか)

 鍵原の顔から、笑顔が消えていく。微笑が消えた顔に、パーキンの口から雲田の名が出たと聞いた時のような、凶暴な笑顔が現れ始めた。

(あなたたちは、私と同じ獣なのですね)

 ゾッ、と寒気が雲田とカルロスを襲う。

(懐かしいですね……『こっち側』の者との戦いは、実に——愉しい!)

 鍵原の眼球が左右、ぎょろりと別の方向を見た。右目がカルロスを、左目が雲田を。

 握力が増し、柄が軋んだ。雲田とカルロスが息を合わせて振るったそれぞれの刃を、鍵原は目にも留まらぬ剣術で続け様に捌いた。

 鍵原とカルロスの軍刀がともに折れ、雲田の手から弾かれたククリナイフが回転しながら宙を舞った。軍刀を捨てて宙を舞うククリナイフを掴み、鍵原はカルロスを斬った。肺を打たれ呼吸が止まり、カルロスは後方へ倒れた。ロザリオの数珠が絶たれ、十字架が空に投げ出される。

 次いで、鍵原は雲田に襲いかかった。雲田はククリナイフの刃に生じた亀裂を、見逃さなかった。その時カルロスが十字架を掴み、倒れる直前に雲田に投げた。雲田はほとんど直感でそれが武器だと見抜き、十字架の短い方を掴んで長い方を引いた。長い方が抜け、刃が現れた。鍵原は目を剥いた。

 逆手に握った十字架のナイフで、雲田はククリナイフを打った。亀裂に沿って刃が折れ、鍵原の攻撃は空振りに終わった。

 狙うは、首。今度こそ。

 雲田は鍵原の首を、ナイフで横薙ぎした。が、反射的に身を仰け反らせた鍵原はあと数センチのところで、刃を躱していた。ナイフは鍵原の軍服の襟を切り裂いた。

 外した……雲田が顔をしかめる。

 危なかった……鍵原の胸中にささやかな安堵が生まれる。

 交差する二人の視線の間に、ある物が漂っていた。日光を眩しく反射するそれは、銀色の認識票だった。

 認識票は二種類あった。一つは「KAZAMI KAGIWARA」と刻印されたもの。日本軍所属であることと、認識番号、血液型が添えられた、日本兵が支給される一般的な認識票だ。

 あともう一つの認識票は、全く違った。所属も認識番号も記載されておらず、刻印されていたのは一つだけだった。

 KITSUNE。

 雲田の脳裏に、ある記憶が蘇る——。



      ♢



 西暦一九九六年

 ロシア連邦

 某所


 彼女の部屋に見かけない写真が飾ってあるのを見つけた。私服姿の女性が五人並び、笑顔で写っている。その中には彼女も居た。

「何の写真だ?」

 私は尋ねた。その頃の彼女はまだ自分の足で歩くことができたし、ベッドから出られなくなる日が来るなんて考えられないくらい、活発だった。

「ん? ああ、それか」

 彼女は片足を引きずりながら椅子に近づき、腰を下ろした。あるいはそれが、この時微かに予期できた兆候だったのかもしれない。

「ほら、前に話したろう。私が昔所属してた日本の機密部隊『義獣隊』のメンバーと撮った写真だよ」

 私は写真を手に取り、顔ぶれを眺めた。

「こいつらが刀子と一緒に仕事してたメンバーか」

「うん。この前、色々整理してたら見つけてさ。懐かしくてね、飾ってみた」

 写真に写る女性たちは皆、どう見ても一般人と変わらず、諜報員だと言われても信じられなかった。そこに写る今より少し若い彼女も、銃を手に取るようにはとても見えない。

「私たちは秘密の諜報員だったから、軍の記録にもほとんど残ってなくてね。証明書類も全部破棄されたから」彼女は懐かしそうに瞼を伏せた。「皆で写真を撮ったのは一回だけなんだ。本当はいけなかったけど、誰かが記念に一枚欲しいって言って……それを撮ったのは確かフランスだったかな……その一回だけ撮った写真を、皆に一枚ずつ配った。私たちの絆を表す数少ない証拠の一つだった」

 私が歩み寄ると、彼女が手を差し出したので写真を渡した。彼女は写真を見て顔を綻ばせた。

「五人だ」

「え?」

 私は言った。「一人居ない。『義獣隊』は六人居たんだろう?」

 彼女の顔が微かに曇った。彼女は写真に並んだメンバーの、誰も居ない空白を指で撫でた。そこにもう一人の隊員が入るはずだったのだろう。

「……一人だけ、ね。機密部隊なのに写真を撮るなんて非常識だって言って、映らなかった子が居たんだよ。言うことはごもっともだし、本当は写って欲しかったけど……頑なにね、彼女は写真に入るのを嫌った。だからあの子だけは、写真に居ない」

 彼女が顔を曇らせる理由が、写真にその一人が写らなかったことだけではないことは明白だった。憂いを帯びたその目を再び細く閉じて、彼女は小さなため息を吐いた。

「私はずっと……彼女とわかり合いたかった。今でも後悔しているんだ。もっと彼女の話を聞いておけばよかったのか、彼女のことを知ろうとしておけばよかったのか……どうしたらよかったんだろう」

 椅子の背にもたれ、彼女の首に提げた銀色の認識票がカチャリと鳴った。

「私は最後まで、彼女のことをわかってあげられなかった。彼女の中に何があるのかを、彼女が本当に何を想っていたのかを、理解してあげることができなかった」

 認識票には、「FUKUROU」と刻印されていた。私は彼女にそんな後悔をさせる相手がどんな人間なのか、好奇心で尋ねた。

「そいつの名前は?」

「……本名は、知らない。私たちは互いにコードネームしか知らなかったから」

 認識票を握りしめた彼女が、一瞬だけ唇を噛んだのを私は見ていたが、それを指摘はしなかった。それはきっと、彼女の中に在る深淵に通じる領域で、決して安易に踏み入れてはいけなかった。

 静かに口を開く、その瞼の裏に彼女はきっと過去の景色を見ていた。

「彼女のコードネームは、キツネ。『義獣隊』で一番若い隊員だった。私たちは彼女のことを、妹のように想っていたよ」



       ♢



 西暦二〇〇〇年

 大日本帝国

 道東自動車道


 宙を浮いていた認識票が、重力に引かれて鍵原の胸に落ちた。カチャリと鳴った認識票に刻印された「KITSUNE」の字を、雲田はじっと見つめていた。

「……キツネ……」

 雲田の脳裏を、かつて本当の雲田刀子と交わした会話が駆け巡った。あの写真に写らなかった最後の隊員、彼女が指で撫でた空白に、鍵原の姿が重なった。

「そうか」

 雲田は瞼を閉じた。長い瞬きだった。ほんの一瞬の暗闇の中で、雲田はあらゆる感情が渦巻き、湧いては消えるのを感じた。最も強く溢れ出た感情に、雲田は身を任せた。

「君が……キツネか」

 その感情は、殺意だった。十字架のナイフを、雲田は強く握った。

 鍵原は雲田が認識票の意味を理解していると、悟った。彼女は動揺しなかった。彼女が雲田刀子と通じており、『義獣隊』の存在を知っている時点で、こうなることは予見していた。

「そういうあなたは、いったいどこで育てられた獣なんですかね? 南アメリカ? 中東? ロシア? それとも中国ですか?」

 口で時間を稼ぎながら、鍵原は戦況を見定めていた。手持ちの武器はもう無い。雲田の武器はナイフだけだが、充分に脅威だ。カルロスも手負いとはいえ、素手でも充分強敵になりうる。

 加えてフル武装した『信ずる者を救う会』の戦士たちが、まだ数人残っている。丸腰でこのメンツを制圧するのは、鍵原でもいささか厳しそうである。

「君の弾で、刀子は死んだ」

 鍵原の問いを無視し、雲田は言った。鍵原は眉をひそめた。

「はい?」

「君の撃った弾の後遺症で、刀子は死んだ」

「……」鍵原は普段の不敵な微笑を取り戻した。「でしょうね。生きていたとしても、あれは重傷だったでしょうから。それを聞いて安心しましたよ」

 雲田の髪が、ざわりと揺らめいた。鍵原は視界の隅にいる『信ずる者を救う会』の戦士たちが、自分に狙いを定めているのを見て取った。鍵原は脳内に道路を俯瞰した図を描き、それぞれの位置と距離を測った。

「そうですか、フクロウは死にましたか」

 雲田を煽るために鍵原はそのセリフを口にしたが、しかしそれは彼女の本心でもあった。

 心からの。彼女の本懐だった。もしかしたら、獣人を無事に護送するこの任務よりも。

「ちゃんと殺せて良かったですよ。十五年越しに、私の任務が全うできたと知れて。あなたから彼女の居場所を聞き出して、殺しに行く手間が省けました」

——彼女のことをわかろうとした。

 かつて「雲田刀子」が口にした言葉が思考を過ぎり、そして、消えた。

「こいつをわかってやる必要なんて無いよ、刀子」

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