第11話 白刃


 道東自動車道


 一台の偵察用バイクが白音トンネルを通過した。自然に溶け込む深い緑色のボディに跨っているのは、日本兵の軍服の上に黒いコートを着た華奢な人影だった。ライダーはヘルメットを着用していなかった。

 カラマン別トンネルを抜けると、反対車線に横転した高機動車が見えた。車内から生還した兵士が、バイクのエンジン音を聞きつけてこちらを振り向く。向かって来るのが軍の偵察用バイクだと気づくと、兵士は傷だらけの体を引きずり、こちらに手を振った。

 偵察用バイクは兵士を無視して通り過ぎ、あっという間にカラマントンネルへ消えた。



 96式装輪装甲車に残された、特別護衛小隊最後の隊員は、無線に呼びかけていた。

「米林隊長、応答願います! 隊長!」

 外の様子がおかしいことはイリスの目にも明白だった。座席の下に縮こまりながら、イリスは鍵原大尉と兵士の顔を覗き見た。

 鍵原は相変わらず薄気味の悪い笑みを浮かべている。が、もう一人の兵士の顔には焦燥が滲んでいた。天井ハッチから上半身を乗り出した兵士は、一度激しく悶えてから動かなくなった。ボディアーマーに染み込んだ血が赤い雫をつくり、滴り落ちようとしていた。無線に唾をかける兵士は汗だくになり、苛立たしそうに貧乏揺すりをしていた。

「くそ! 誰か応答してくれ! 誰も居ないのか!?」

 外からドアが叩かれた。大きな男の声が響いた。イリスを解放するよう求めていた。『獣兵解放軍』かと思ったが、男は『信ずる者を救う会』を名乗った。イリスの知らない者たちだった。日本軍の他に、まだわたしを狙う者たちがいたのだろうか?

 外に居る者たちがわたしを助けてくれるのでは? 絶望に追いやられていたイリスの心に、小さな希望の光が差し込んだ。

 イリスが吐き気を催すような悪寒を覚えたのは、焦る兵士から目を移し、もう一度鍵原の顔を見た時だった。おそらく、一瞬、イリスが目をやったその瞬間だけだったが——鍵原が無表情になり、細く開いた目に仄暗い光が灯ったのだった。

 鍵原から何を感じたのか、明確に形容することができなかった。正体不明の何かを恐れて、イリスは青ざめた。

「やれやれ」

 鍵原はレミントンM870を片手に、兵士に歩み寄った。9ミリ拳銃を差したホルスターのボタンを、彼女は外した。

 鍵原の気配に気づき、兵士は無線のスイッチを切って早口に言った。

「ご安心ください鍵原大尉殿、我々は必ずやお二人を無事に——」

 振り向いた兵士の目に飛び込んだのは、9ミリ拳銃の丸い銃口だった。彼は目を点にした。

「智東中佐の部下は期待外れですね。こんなにも役に立たないとは思いませんでした」

 鍵原が、兵士に拳銃を向けていたのだ。人差し指は既に、引き金にかけられていた。

「え?」

 鍵原は躊躇いなく引き金を引いた。兵士の片目を貫き、頭蓋の内部で9ミリ弾が暴れた。前のめりに倒れた兵士を躱し、鍵原はゴミを眺めるように見下ろした。

「私の部下も同伴させるべきでした。あなたたちが精鋭部隊? 笑わせますね」

 死体から89式自動小銃を剥ぎ取り、鍵原は自らの肩に負い革を掛けた。マガジンを抜いて弾薬を確認し、装填し直した。槓桿を引いて89式を背負い、レミントンM870を手に持ち、鍵原はイリスの方へ顔を向けた。

 倒れた死体を呆然と見ていたイリスは、恐る恐る鍵原の顔を見上げた。目が合うと、鍵原は口元をにっこりと歪ませた。



 車内から銃声がし、開閉装置を操作しようとしていた『信ずる者を救う会』の戦士が、手を止めた。武器を構えて緊張を高めながら、戦士たちは視線で互いに疑問を投げかけ合った。今の銃声は一体なんだ。

 出し抜けに駆動音が鳴り、油圧式ランプドアが開き始めた。カルロスたちは引き下がり、弧の形に広がった。車内からはまだ、返答らしき合図は無い。中に居る日本兵はどういうつもりなのか?

 カルロスたちはいつ、誰でも撃てる状態でドアが降りるのを待った。車両を両サイドから監視する戦士が一番早く車内を見ることができたはずだったが、彼らはまだ反応を示さなかった。乗員は車内の奥に居るようだ。

 ランプドアがアスファルトに降り、完全に開いた。『信ずる者を救う会』の戦士たちはそれぞれが素早く96式装輪装甲車の車内を見回し、そして、目を剥いた。

 十二歳ほどの少女が、座席に挟まれた通路に立っていた。銃を構えたケブラーマスクの男たちを前に、少女は怯え、酷く震えていた。カルロスは仲間たちに怒鳴った。

「撃つな!」

 反射的に、戦士たちは少女から銃口を逸らす。ふと、カルロスは少女が居る後部乗員席の照明が消されていることに気づいた。車内に目を凝らす。

 カルロスと仲間の数人が、少女の背後に身を隠すようにしゃがんだ影があることを認めた。暗闇の中に蠢く獣のように、二つの眼が少女の背後で輝いた。

 イリスの脇下からショットガンの銃口が飛び出し、火を噴いた。カルロスの左隣に居た仲間が散弾を浴び、血の霧を噴いて倒れた。

 鍵原大尉がレミントンM870のハンドグリップをスライドさせ、排莢口から薬莢が飛び出す。カルロスたちは鍵原を銃で狙ったが、彼女は俊敏にイリスの背後へ隠れた。

「撃ってはならん!」カルロスが再び叫ぶ。

 イリスは体がすくみ、とても自ら鍵原の前を避けられるような状態では無い。カルロスは歯ぎしりした。

 突如、イリスの体が浮いた。鍵原がイリスの股下から腕を回し、持ち上げたのだ。イリスを盾にして、鍵原は正面へ駆け出した。イリスに誤射する可能性が頭を過ぎると、カルロスたちは容易に発砲できなかった。それを見越し、鍵原は正面突破するつもりだった。

 全開したランプドアまで辿り着くと、鍵原はイリスをカルロスに向かって放り投げた。十二歳もの少女を、鍵原はボールでも投げるように軽く放ってみせたのである。カルロスは咄嗟に銃を手放し、イリスを抱き留めた。

 鍵原はイリスを放り投げてすぐ、右方に居る戦士をレミントンM870で撃ち殺した。もう一人、ランプドアの開閉装置を操作する役目をしていた戦士が傍に居たが、彼もまた散弾の餌食となり、構えていたM4カービンから手を放してしまった。

 ジゼフとその隣に居る戦士が、鍵原を狙った。鍵原は正面へ飛び込んだ。ジゼフと戦士は照準で鍵原を追った。が、射線にカルロスとイリスが重なるように、鍵原は逃げていた。

「待て!」

 ジゼフは仲間のM4カービンを、自身のAK-47で叩いた。発砲した弾は、危うくカルロスとイリスに当たるところで、アスファルトを跳ねた。

 カルロスとイリスを盾にしつつ、鍵原は先ほど負傷させた戦士を撃った。無事な方の手で拳銃を構えようとしていた戦士の胸と首が真っ赤になり、倒れた。

 素早くハンドグリップをスライドし、鍵原は片膝をついて上半身を傾け、96式装輪装甲車の左側面に展開していた戦士を銃撃した。手前の戦士が死に、その向こうにもう一人居る。迷わずレミントンM870を捨て、鍵原は89式自動小銃に持ち替えて奥の戦士を射殺した。鍵原の射撃は、見事に戦士の頭を撃ち抜いた。

 抱き留めたイリスを優しく地面に降ろすと、カルロスは鬼の形相になりながらククリナイフを抜刀し、振り向き様に鍵原に斬りかかった。

 鍵原は後ろに目が付いているかのように、逡巡無く89式の銃身でククリナイフを防いだ。銃身に刃が深くめり込む。鍵原は89式を手放して負い革からぬるりと抜け出すと、足下のレミントンM870を蹴り上げてキャッチし、カルロスに発砲した。

 カルロスは上体を仰け反らせた。散弾が顎先を掠ったが、無傷だった。しかし上下逆さになった彼の視界には、彼が躱した散弾を浴びる仲間の姿が映った。カルロスの代わりに犠牲となったのは、ジゼフの隣に居た戦士だった。

 ジゼフはイリスを抱き上げ、96式装輪装甲車の陰へ退避した。

(それでいい、ジゼフ)

 カルロスは腹筋で上体を起こし、89式に刺さったククリナイフを捨て、もう一本を鞘から抜いた。

 次弾を撃とうとしていたレミントンM870の銃身を、カルロスは切断した。ハンドグリップを握っていた鍵原の左の手のひらが浅く切れた。

 顔に創のある女の兵士と、憤怒に顔を歪ませる聖者の、ともに人ならざる眼差しが交差した。

 カルロスは鍵原に獲物を振り下ろした。鍵原は軍刀を抜き、ククリナイフを打ち返した。甲高い金属音が鳴り響き、激突した刃の間に、火花が散った。

 鍵原の目が、微かに横へ動く。イリスを抱き上げたジゼフが、カルロスの背後を走り去って行った。やはり彼らの狙いは獣人か。今はいい。彼らを全員始末した後で、イリスはまた奪い返せばいいのだ。鍵原の獣の如き瞳は、再びカルロスを捉えた。

 灼熱の怒りに燃えるカルロスの目は、一瞬たりとも鍵原から離れていなかった。

「カァッ!」

 咆哮とともに、カルロスは鍵原に斬りかかった。体重をかけた一撃を、鍵原はあっさりと打ち払った。刃を通じて伝わる振動は、カルロスの手を痺れさせた。

(なんという力……!)

 カルロスはヒグマのような、大型の獣兵と立ち会っているかのような錯覚を味わっていた。でなければ、岩にでも斬りかかっているような。

 しかし鍵原は、獣兵よりも知恵に長け、岩よりも速かった。

 鍵原が繰り出す刺突が、カルロスの右肩を貫いた。鍵原の構えは剣道ではなく、どちらかと言えば西洋の、フェンシングに近かった。刃は骨を避け、筋繊維に沿うように肩を貫通していた。

 カルロスは右手からククリナイフを落とし、左手で拾った。鍵原が軍刀を抜き、刀身から滴る血で空に赤い弧を描きながら、カルロスの頭上に振り下ろした。

 額の上にククリナイフを横一文字に構え、カルロスは軍刀を受け止めた。片手で振り下ろしたとは思えない重量が圧し掛かり、カルロスは膝を折りかけてしまった。右肩の痛みを堪え、カルロスは両手で鍵原の軍刀を押さえた。

 刃同士が擦れ、不快音が鳴り響く。96式装輪装甲車を囲んでいた『信ずる者を救う会』の戦士たちが集まろうとしていたが、カルロスへの誤射を恐れ、迂闊に手出しできずにいた。

「こんにちは。皮剥ぎカルロス。本物に出会えるとは光栄です」

 鍵原は悠長に話しかけた。食いしばった歯から蒸気のように息を吐き、カルロスは十字に結ぶ刃越しに鍵原を睨んだ。

「よくも子供を盾になどできるな、日本兵め」

 絞り出すように、カルロスは怨嗟を吐き出した。鍵原は愉快そうな口調で返した。

「ちゃんと撃ちませんでしたね。助かりましたよ、あれは我が軍の貴重な検体ですので」

「恥を知らぬ獣どもめ」

「誇りだの名誉だのと下らない御託を捨ててこそ、我らが帝国はここまで成長したのですよ」

 両手で抗ってなお、鍵原の膂力はカルロスを凌いでいた。押し負けまいと、カルロスは青筋を浮かせて踏ん張った。張った太腿が痙攣し、腰が悲鳴を上げた。

「よくもまあこうも我が軍の邪魔をしてくれるものです。『獣兵解放軍』ならばまだしも、あなた方の介入は予期していませんでした。精鋭部隊をものの数分で全滅とは、見上げたものですよ、本当に。傭兵業でも営んだ方が儲かるのではないですか?」

「黙れ下郎。貴様ら獣を滅することこそ我らが使命だ」

「ならばあなたのような狂信者を殺すことが、私の使命ですね」

 カルロスの仲間が、鍵原を銃で狙い始めた。鍵原はカルロスの腹を蹴りつけ、拮抗を破った。カルロスと斬り合っている限り的になることはない。カルロスを殺せば、そのまま盾にも使える。

 鍵原がカルロスの腹に突きを放つ。カルロスは身を翻し、正面の衝突を免れた。軍刀はキャソックを裂き、中に着たボディアーマーの表面に横一直線の創をつけた。刺突が脇腹の上を駆ける重みを感じながら、カルロスは鍵原の顔目掛けてククリナイフを振りかぶった。鍵原は左前腕で、ククリナイフを受けた。

 人体から生じるはずのない、無機質な金属音が発する。充分に四肢を落とせるパワーで振り下ろしたククリナイフは、鍵原の腕にあたって止まっていた。

(籠手か……!?)

 破けた軍服の袖から、ククリナイフの接触を受けて凹んだ金属製のアーマーが覗いた。日本兵の標準装備では、見かけたことがない。この女が私的に身に着けているものか。

 鍵原はカルロスの獲物を握った方の手首を素早く掴んで引き寄せ、胴に膝蹴りを入れた。軍刀の柄でカルロスの側頭部を一撃し、流れるような剣捌きで、その首を斬り落とそうとする。

「ウオオッ!」カルロスは目の前に迫る軍刀を、ククリナイフで打ち返した。火花が散る。両手でククリナイフを握り、カルロスは鍵原と鍔競り合った。

 戦況を見守りながら、鍵原を狙撃するタイミングを窺っていた『信ずる者を救う会』の戦士たちは戦慄していた。カルロスが他者に圧倒される光景を、彼らは見たことがなかった。こと近接戦闘において、カルロスが引けを取ることなどありえなかった。あの女は一体何者だというのだ。

 カルロスが勝てないということは、つまり『信ずる者を救う会』の戦士全員があの女に敵わないということを意味していた。

「貴様がこの隊の隊長か?」

 びくともしない鍵原の軍刀を、せめてこちら側に来させないように押し返しながらカルロスは言った。

「いいえ、私はちょっとしたゲストでしてね。格好を見たらわかると思いますが」

「釧路基地の人間か?」

「ええ。それが何か?」

 カルロスの目が充血し、眼差しで殺そうとでもいうかのように、鍵原を凝視した。荒い呼吸を溢し、カルロスは問うた。

「釧路市内の山奥にあるロッジに隠された、ジェイク・パーキンの秘密教会に押し入ったのは貴様の部隊か?」

 鍵原は眉を吊り上げ、そういうことかと納得した。笑いを堪えるかのように、鍵原の口元が歪んだ。

「そうですか……あの教会に行ったのですね、皮剥ぎカルロス。あなた好みに模様替えされていたでしょう?」

「……ッ」カルロスの目と鼻孔が大きく開き、鳥肌が立った。産毛がざわっと逆立った。

「初めまして皮剥ぎカルロス、復讐の化身。私は第27歩兵連隊第一中隊中隊長、鍵原大尉と申します。あの教会に居た全ての信者の処刑を命じたのは、この私です」

 カルロスの顔が紅潮し始めた。全身の筋肉が隆起し、キャソックが内側のボディアーマーごと盛り上がった。

「談話室……」歯を剥いた口から涎を垂らし、彼は言った。「談話室に子供の乳歯が残っていた……あそこで子供を殺したのか? その子たちの処刑を命じたのも、貴様か?」

 にっこり。鍵原は可笑しそうに微笑んだ。

「ええ、そうですよ」鍵原は井平一等兵に処刑を命じた際に浮かべたのと同じ笑顔を、カルロスに見せてやった。「あの甲高く喧しい悲鳴を、今でも思い出すことができます。教えて差し上げましょうか、イレスト教信者。あの子たちはね、聖書で殴り殺させたんですよ。私の部下にね」

 カルロスの脳内で、ブチッと何かが弾けた。言語にならない咆哮を上げ、カルロスは軍刀を押し退けた。

「獣どもめぇぇぇッッ!」

 カルロスと鍵原は同時に刃を振り抜いた。閃光が斜めに交差し、キンッ、と高い破砕音が鳴り響いた。

 カルロスと、彼を見守る仲間たちの目に、それはスローモーションで映った。火花とともに散る細かな金属片。宙に浮いていたのは、折れたククリナイフの刀身だった。刃こぼれを生じながらも、鍵原の軍刀は健在だった。

 鍵原がカルロスの懐に深く踏み込み、軍刀を水平に振りかぶった。カルロスもまた斬りかかろうとしていたが、折れたククリナイフの刃長は致命的に遠かった。折れた刃が、鍵原の眼前を素通りした。

「さよなら皮剥ぎカルロス」

 鍵原の軍刀がカルロスの首を刎ねようとしたその時——二人の鋭い聴覚は、一つのエンジン音が近づいているのを感じた。

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