第10話 神の遣い


「……」

 カルロスは耳を澄ます。万が一弾丸鷲を誤射しないように、兵士たちはカルロスへの銃撃を中断していた。不気味なほどの静けさが、辺り一帯を包んだ。

 カルロスに恐怖は無かった。何故ならば彼には神が付いているからだ。カルロスは死の恐怖を克服した雄々しい戦士では、決してなかった。仲間の死を致し方のない消費と断じることのできる、冷酷な指導者でもまた、決してなかった。彼は恐怖を克服せずして、迷いを完全に捨て去った稀有な戦士だった。

 彼の心を支えているのは、神への信仰に他ならない。神の意思に従うこと、神が導いてくれると信じることこそが、カルロス・ベルサーニの最大の武器だった。彼は死を恐れこそすれ、戦うことに迷いは無かった。カルロスはその目的を果たすまでに、戦いによって己が命を落とすことがあるなどとは、毛ほども思っていないからだ。

「さぁ、来なさい」

 森の中で加速した弾丸鷲は、木々の間をすり抜け、道路まで一直線に滑空した。その際、弾丸鷲は自身の最高速度を時速0.3キロ更新し、82キロへ達した。金色の瞳に、カルロスの後ろ姿が映った。白い髪を揺らし、ククリナイフを右手に持ったその背中から、頭へと弾丸鷲は狙いを定めた。鉤爪を開き、弾丸鷲は己の中に在るトリガーを絞った。

 カルロスは肌がざわめくのを感じた。遥か後方、森の木の枝が何かに触れて折れるその音が、静寂を破りカルロスの鼓膜を震わせた。

 彼は数を数えた。仲間を屠った忌々しい空の狙撃手が、背筋の凍るような気配を発してから姿を現すまでの、四回に及ぶ実例。三人もの仲間が命を賭けて残した、弾丸鷲のテンプレートをカルロスは無駄にしてはならなかった。彼らのためにも、ここでカルロスは負けてはならない。

 もしカルロスの体感が間違えていないのならば、あと一秒……。

 カルロスはククリナイフの柄を強く握りしめた。

 もしも神がカルロスの勝利を望んでいるのだとしたら、彼が敗北することはありえなかった。だからこそ今ここで、彼が決死の勝負に挑んだとして、彼が死ぬことは何があろうとありえなかった。

 例え相手が、人智を超えた獣兵だとしても。

 神の声に耳を傾ける限り、カルロスが必ず相手を凌駕した。

 弾丸鷲がガードレールの真上を超え、カルロスへ数メートルに迫る。あとコンマ数秒。

 死の弾丸と化した鉤爪が接触する、その瞬間——カルロスの首が、かくんと左へ傾いた。

 弾丸鷲の鉤爪は、カルロスの耳を後ろから抉り取り、右の頬を引き裂いてケブラーマスクを剥がした。弾丸鷲は初めて、想定したよりも遥かに軽い、空振りの感触を覚えた。

 カルロスが回避行動をとったのは、これまでの弾丸鷲のスピードからするといささかタイミングが早かった。直前に弾丸鷲が軌道を変え、カルロスの後頭部を鉤爪で穿つことは不可能でなかった。カルロスの数えた数は間違っていたが、しかしこの瞬間、弾丸鷲が自身の最高速度を更新するほどの絶好調のフライトを行ったおかげで、奇跡的にも彼は絶命を免れたのだった。

 それをカルロスが知る由は無いが、彼は確信していた。己が生き残ったのは偶然ではなく、神の意思、神の加護に他ならないと。

 マスクが剥がれたカルロスの目には、稲妻が走っていた。

 彼は神の啓示に任せるまま、右手のククリナイフを頭上へ振り上げた。速度を保ったままカルロスの上を通過しようとした弾丸鷲の腹に、ククリナイフの刃が食い込んだ。自らの推進力で腹を引き裂かれ、弾丸鷲は内臓を撒き散らしながら、空中をぐるぐると回りガードレールの向こうへ落下した。

 弾丸鷲の血が、雨のように降り注いだ。弾丸鷲が一撃のもとに散る様を、米林たち日本兵は愕然と見ていた。カルロスの仲間ですら、ここが戦場であることを忘れて脱帽していた。鍵原大尉は96式装輪装甲車の車内からカルロスを認め、ひゅうと口笛を吹いていた。

 ただ一人、この場で動揺していないのはカルロスだけだった。彼の耳は真っ二つに裂け、右の頬骨が割れて皮膚が一直線に切れていた。傷口から溢れた血が、カルロスの口を赤く濡らす。息を吐くと、赤い糸が口から垂れた。

「あくまで対人兵器ということですね」鍵原は呟いた。「あの男には通じないわけです」

 皮剥ぎカルロスは、人間ではない。

 彼は神の遣い。

 そして——怪物。

 鞘からもう一本のククリナイフを抜き、カルロスは大手を広げた。銀色の十字架が太陽を反射して煌めき、彼の瞳に、人ならざる光が灯った。

「神のご加護があらんことを」

 神父のように優しく、悪魔のように凶暴な微笑みを、怪物は浮かべた。

 一歩目から常人離れした加速をし、カルロスは高機動車へ走り出した。弾丸鷲の敗戦に呆然としていた精鋭部隊は、致命的に反応が遅れてしまった。ジャンプしてボンネットに乗り、兵士たちの頭上を飛び越え背中合わせに着地したカルロスは、最も得意とする白兵戦にまんまと持ち込んだ。

「我々のターンだ」

 カルロスが怪しく光る目を、ギラリと開く。右後方に居た兵が振り向き、カルロスに89式自動小銃を向けた。体を低く傾けて89式の銃弾を躱し、カルロスは兵士の顔面にククリナイフを叩きつけた。ククリナイフは兵士の右眼孔と右頬の間に深い溝を刻み、彼をその場に崩れ落ちさせた。

 次いで、カルロスは真後ろにいる兵が振り返った瞬間に、顔面に肘打ちを見舞った。兵士は高機動車のドアに激しく頭を打ちつけたが、ヘルメットのおかげで重傷には至らなかった。三人目の兵士が、一歩退いて距離を置き、カルロスを89式で狙う。高機動車に乗っていた四人目は、走行中にカルロスが射殺していたので、彼が最後の一人だった。

 カルロスは三人目の兵士に、左手のククリナイフを投擲した。ブーメランのように回転し、地面と水平に飛んだククリナイフは89式の銃身に刺さった。弾道がカルロスを逸れて虚空を撃った。

 カルロスは二人目の兵の腹に膝蹴りを入れた。怯んだ兵士の顔面をククリナイフの柄で殴打し、片手で首を掴んだ。万力のような握力で首を絞めると、カルロスは高機動車の前部側に兵士を立たせた。ちょうどその時、96式装輪装甲車から降りてこちらを銃撃した兵士の弾が、カルロスが盾にした兵士の背中に穴を空けた。

 カルロスの背後に立つ三人目の兵士が再度彼を撃とうとした。が、カルロスから離れるために車体の陰から出た彼は、『信ずる者を救う会』の戦士の射程に入っていた。ジープのトランクに腹這いになり、M4カービンを構えたカルロスの仲間が、その兵士の首を撃ち抜いた。

 首を絞めた兵士の両目を横一線に切ると、カルロスは踵を返し、死んだ兵の89式に刺さったククリナイフを回収した。素早く高機動車の後ろを回り、カルロスは全力疾走して96式装輪装甲車の傍らを通り過ぎた。あっという間に、カルロスは96式装輪装甲車の前に停まる軽装甲機動車に辿り着いた。

 弾丸鷲の死に最もショックを受けていた米林は、戦意の復帰に最も時間を要していた。目の前に迫る男が何故生きているのか、米林は理解できなかった。米林の精神が再起するより先に、訓練を積んだ肉体の方が現実に順応した。

 米林はカルロスに89式を発砲した。カルロスは米林の眼前で腰を落とし、銃弾を避けながら89式を蹴り上げた。蹴った勢いのまま後転して起き上がると、カルロスは米林のボディアーマーの下にククリナイフを突き刺した。裂けた腹から溢れた腸が、ボディアーマーの下部から蛇のように顔を出す。

 背中合わせに立ち、カルロスは逆手に握ったククリナイフを米林の頚椎に、見向きもせず突き刺した。眼球がぐるんと上を向き、米林は大口を開けて膝を折った。

 米林の背中を蹴って押し退け、カルロスは焦げ臭い軽装甲機動車の中を一瞥した。迷わず車内に飛び込むと、カルロスは後部乗員席を駆け抜け、反対側のドアから外へ出た。

 96式装輪装甲車の前部乗員席に居た兵士は、カルロスが車両の前方まで回っていたことにまだ気づいていなかった。兵士の背後へ突撃し、カルロスは足音に振り返るその顔面を、横から切り落とした。まるで仮面が剥がれるかのように、兵士の耳より前側がパカッと開いた。

 96式装輪装甲車の運転手を務めていた兵士が、車両前方の陰に隠れてカルロスを撃った。一発の弾が左腕を被弾したが、カルロスは動じず、片側に四つあるうち前から三番目のタイヤを踏み台にして、96式装輪装甲車の上に登った。

 車上を前方へ駆け抜けた際、開いた天井ハッチから、カルロスは車内で縮こまる少女の姿を視認した。あの子がイリスだ、と彼は悟った。同時に、何か、寒気がするような何かが、車内に潜んでいるのを感じた。

 カルロスが96式装輪装甲車の上を駆けて来る。兵士は車上を89式で狙い、神経を研ぎ澄ませた。来い、顔を出した瞬間に撃ち殺してやる。

 突如、96式装輪装甲車に装備された擲弾銃が火を噴いた。連射された擲弾が、前にある軽装甲機動車を滅茶苦茶に破壊した。爆風を近距離で浴びた兵士は吹き飛び、96式装輪装甲車の車体に体をぶつけた。擲弾と軽装甲機動車の破片が、兵士の体じゅうに刺さっていた。

「くそ……!」

 周囲は煙に包まれていた。兵士は呻きながら立ち上がる。89式が無事であることを悟ると、彼の戦意はまだ失せなかった。顔をしかめて煙の中を見回し、所構わず発砲した。

「うおおお!」

 背後でカラン、と音がした。素早く振り向き、銃弾を浴びせた。フルオートで引き金を絞ったまま、兵士は前進した。カルロスはどこにいる? 何かを踏んだ。

 風が吹いて煙が晴れ、視界が明らかになった。兵士が踏んでいたのは、一本のククリナイフだった。嘘だ、俺はこれを撃っていたのか? カルロスはどこに……。

 兵士はいつの間にかガードレールの間近まで歩いていた。前を向くと森が見えた。背中を突き飛ばされ、兵士はガードレールから身を乗り出した。危うく落ちそうになる。背後から誰かがヘルメットを掴んで、兵士に下を向かせた。

 じたばた暴れる兵士の首に、カルロスはククリナイフを一閃した。後ろ側から傷がゆっくり口を開け、兵士の首が眼下の茂みに落ちていった。

「……はぁ」カルロスはため息を吐いた。束の間の沈黙に訪れた疲労は、彼に年齢を感じさせた。袖で額の汗を拭い、カルロスは路上に落としたククリナイフを拾うと、付着した獣たちの血を払い落とした。

 軽装甲機動車が白煙を上げ、後輪が外れかけている。道路には硝煙の香りが漂っていた。周囲に敵が残っていないか、カルロスは神経を尖らせた。彼の鋭敏な聴覚は、銃器の立てる独特な音色や、背後に近づく足音を聞き逃さない。彼の神経系は、可及的速やかに彼の命を狙う脅威は無いと、判断していた。

「さて……」

 仲間たちが各戦闘車両内に日本兵が残っていないかを確かめながら集まり、96式装輪装甲車を包囲した。残る敵はこの装甲車の中だけだ。

「カルロス」仲間が回収したFNP90をカルロスに渡した。

「ありがとう。さあ、彼女を迎えよう。新手に気をつけて慎重に行くぞ」

 カルロスは仲間の戦士を伴い、96式装輪装甲車の背面にある油圧式ランプドアの前に立った。ランプドアは外から開くこともできたが、中に居る兵士がそれを防ぐことは容易だった。ランプドアには手動扉も取り付けられており、内部に居る日本兵がランプドアを操作して開かないようにした場合、これをこじ開ける必要がある。

 ジゼフが歩み出て、銃床でドアを叩いた。仲間が用意した拡声器を受け取り、カルロスは装甲車に向かって話しかけた。

「日本兵よ、獣たちよ、聞け。我々は『信ずる者を救う会』」

 豊かな自然に囲まれた道東自動車道に、電子音で拡大されたカルロスの声が響いた。

「この車両は包囲した。中に居る少女を解放しなさい。我々の要件はこの一つのみだ。貴様らに選択の余地は無い」

 日本兵に投げかける言葉に、カルロスは決して嘘を混ぜなかった。

「少女を解放すれば残る貴様らは楽に死なせてやろう」カルロスの思考に、日本兵を見逃すという選択肢は存在しなかった。「従わなければ、貴様ら全員を拷問する。想像を絶する苦痛を味わうことになるぞ。貴様らが罪の無い人々にしてきたのと、同じことをする。獣の群れに従軍したことを後悔することになるぞ」

 ジゼフがもう一度、ドアを叩いた。『信ずる者を救う会』は一分、車内の音に耳を澄ませて待った。カルロスは真顔でドアを見つめたまま、拡声器を隣の仲間に渡し、FNP90を構えた。

 カルロスが正面に立ち、右隣にジゼフが立つ。トップ2を含む屈強な戦士五人が、ドアの前に布陣した。

 カルロスが顎でドアを指す。仲間の一人が接近し、油圧式ランプドアの開閉装置を操作しようとした。

 その時だった。車内で、一発の銃声が鳴った。


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