第8話 襲撃
音別町
釧路基地を発ってからおよそ一時間。イリスを護送する96式装輪装甲車を真ん中に挟んだ計五台の戦闘車両は、白音トンネルを抜けすぐ真向かいにあるカラマン別トンネルへ突入した。先頭を行く高機動車は白音トンネルを出るとヘッドライトを一旦消し、カラマン別トンネルに入る前にまたライトを点灯した。
鍵原大尉は脚を組み、向かいに座るイリスを眺めていた。イリスはジャケットを深く被って俯いたきり、口を利かなくなった。寝ているわけでないことは、ジャケットを握る手の震えでわかった。鍵原は十分おきに、少女に話しかけた。
「退屈ではありませんか?」
イリスはうんともすんとも言わない。両隣にいる智東の部下も、ライフルを握りしめて沈黙したまま一言も発さなかった。イリスのリアクションがあまりに乏しいので、鍵原は飽きてきていた。
獣人兵には興味があるが、聞くところによればこのイリスには獣人兵としての戦闘能力は皆無だというではないか。彼女は兵器利用とは別の目的のために生み出された獣人であり、それは単なる獣人兵よりも重大な役割だと聞いていた。彼女がもし実戦投入可能な獣人兵だとしたら、鍵原は自らその腕前を試してみたかった。段々と、イリス個人への興味を鍵原は失いつつあった。あと退屈凌ぎにすることと言ったら、そこの兵士二人か操縦席の二人にちょっかいをかけるくらいだった。
道東自動車道の車通りはまばらだった。頻繁に対向車とすれ違うかと思えば、十分以上対向車が現れないこともあった。五台が連なる一団を追い越す車両は居なかったが、札幌へ向かう車線を走る車そのものが少なかった。二十分ほど前から最後尾の高機動車の後ろを走るブルーのジープが居たが、さぞかし居心地が悪いことだろう。もしこのまま札幌まで向かうとしたら、武装した戦闘車両の尻を見ながら200キロメートル以上もの道のりを行かねばならないのだから。
一団の背後に付き続ける気の毒なジープの背後に、一台のブラウンのワゴン車が追いついた。ジープ同様に、ワゴン車はそのまま戦闘車両と同じ時速80キロをキープする羽目になった。最後尾の高機動車に乗る隊員たちは、ミラー越しに二台を見て「可哀想だな」と笑いを溢していた。
ちょうど同じ頃、先頭を走る高機動車の前を、サンルーフを備えたグレーのワゴン車が走っていた。グレーのワゴン車は暫く一団の前を走っていたが、520メートルのカラマン別トンネルの後半へ差し掛かると、突如スピードを上げて一団の視界から消えた。誰も気がつかなかったが、トンネルの出口に近づくにつれて、一団の後ろにいるブルーのジープとブラウンのワゴン車は少しずつスピードを落としていた。
96式装輪装甲車の後部乗員席に居た鍵原は、イリスの関心を惹くことのできる話題とは何かを考えていた。答えは彼女自身が、既に口にしていた。鍵原は怪しい笑みを浮かべて言った。
「雲田刀子という人物を、あなたは二人知っていませんか?」
ぴくりと、イリスの頭が動いた。そろりそろりと顔を上げ、イリスは鍵原と目を合わせた。困惑した表情から、鍵原は答えがノーであると読んだ。
「なるほど、あなたが知る雲田刀子は一緒に居た彼女だけということですね」
「……?」
イリスは眉をひそめた。今絶望の淵に立つ彼女が、例えば雲田が本名を名乗っていなかったと知ったら、どう思うだろうか。雲田への信頼さえ失うだろうか。偽りの名を告げられていたことに、彼女は傷つくだろうか。
鍵原は肝心なことを思い出した。そもそも、イリスは人間ではない。彼女が覚える感情が、本当に人間のそれと同じ物差しで測れるものかは定かでなかった。果たしてイリスの心は、ひいては脳は、人寄りなのか? 獣寄りなのか?
「教えてあげましょうか。あなたが信じる雲田刀子が、偽りの存在であることを」
良い退屈凌ぎを思いついた。鍵原はイリスに顔を背けさせないために、その瞳に入り込むようにじっと見つめた。
先日、パーキンたちイレスト教信者が死んだことに涙したように、もう一度、この子の激情を引き出してみよう。そこにある心の動揺が、果たして人間的なのか動物的なのか、じっくり観察させてもらおうではないか。この観察はゆくゆく、獣人兵の運用に役立つかもしれなかった。
イリスは鍵原が声を発することに怯えていたが、その声を無視することもまたできない様子だった。瞳は小刻みに震えていたが、ジャケットに隠れた獣の耳は彼女の意思と関係なく、鍵原の声を聞き逃すまいとしていた。
涙の乾いたその顔が、今度はどんな形に歪むだろうか。鍵原はほくそ笑み、話し出した。
「雲田刀子は彼女の本当の名ではありません。彼女は別の人間の名を騙り、あなたに近づいたのです」
車内にいる二人の兵は何の話をしているのかわからなかった。聞こえないふりをすることは難しかったが、聞き流すことは容易だった。変わらず、二人は無言のプレッシャーでイリスを縛り続けた。
「どういうこと……?」
イリスがぽつりと言った。やはり雲田の話題は無視できないか。何せ、いの一番に尋ねてきたことがそれだったものな。鍵原はイリスの心の踏みにじり方を思案し、言葉を慎重に選んだ。
「彼女は雲田刀子ではありません。本来雲田の名を持つ人間とあなたに如何なる関係があるかは定かでありませんが……雲田を騙る彼女がどこの誰であるかは、想像に難くありません。おそらくあなたも知らないことでしょう」鍵原は言葉を区切り、イリスが内容を理解する時間を設けた。数秒待ちイリスの耳に余裕を持たせてから、鍵原は続けた。「これはあくまで私の予測ですが、雲田刀子を名乗る彼女はおそらく——」
先頭の高機動車がカラマン別トンネルを抜けた。途端に日光が降り注ぎ、フロントガラスは一瞬、真っ白な光に包まれた。抗いようのない生理現象で、乗員たちは顔をしかめて瞼を細めた。
左右を広大な緑に囲まれた一直線の道路。両端に伸びるガードレールは途中からコンクリート塀に変わり、250メートル先にはカラマントンネルが控えている。
トンネルの出口で目が眩み、一秒ほどかけて視力を回復した兵士たちがまず見たのは、そのいずれの景色でもなかった。彼らの目に飛び込んだのは、60メートル先を走るグレーのワゴン車のサンルーフから身を乗り出した男が、携帯式対戦車擲弾発射器——RPG-7をこちらに向かって構えている姿だった。
彼らが気づいた時には、男はトリガーを引いていた。発射機が白い後方噴射を放ち、擲弾を発射した。
運転手は目を見張ると、咄嗟にハンドルを右へ切った。高機動車は急カーブを試みたが、ワゴン車からまっすぐ飛んだ擲弾が狙っていたのは車両そのものではなく、路面だった。カーブした高機動車の傍らのアスファルトに着弾し、擲弾は炸裂した。
爆風を横っ腹に浴びた高機動車はその場でひっくり返った。空中で半回転した車両は真っ逆さまに道路に叩きつけられ、窓ガラスが木端微塵になった。
二両目の軽装甲機動車の乗員、そしてその後ろに続く三台の乗員たちも異常事態を察知した。路面を揺るがす震動が体感に、爆発音が聴覚に、すぐさま兵士たちの生存本能を呼び覚ました。
軽装甲機動車の乗員はすぐさま、無線で残りの三両に状況を報せた。
「緊急事態! 攻撃を受けた! RPGによる爆撃、一号車が走行不能!」
天井ハッチを開けて隊員が外に身を乗り出し、訓練された素早い動きでミニミ軽機関銃の発砲準備を整えた。
「前方を走るワゴン車からの攻撃、ワゴン車に乗っているのは……」軽装甲機動車の隊員たちは、ワゴン車からRPG-7を撃った男の風貌を視認していた。見紛うはずのないその装いは、日本兵の脳裏に仇敵として刷り込まれていた。「『信ずる者を救う会』!」
RPG-7の発射機を抱えたまま車内に身を引っ込めた男は、黒い十字架を描いたケブラーマスクを被っていた。間違いない。あれは反日組織『信ずる者を救う会』のトレードマークだった。
「『信ずる者を救う会』! 『信ずる者を救う会』の攻撃だ!」
陥没したアスファルトを跨いで、横転した高機動車を素通りし、一団はカラマントンネルに向かって走行を続けた。先頭の軽装甲機動車の天井ハッチから身を出した隊員は、ミニミ軽機関銃でワゴン車に銃撃を開始した。
カラマン別トンネルを抜けたジープとワゴン車は、急激に速度を上げて一団に追いついた。ジープが高機動車の背後にぴったりくっつき、ブラウンのワゴン車が対向車線に踊り出て、後ろから二両目の軽装甲機動車の隣に並んだ。
ブラウンのワゴン車のドアがスライドして開く。シートを取り外した車内には、ブローニングM2重機関銃が設置されていた。十字架を描いたケブラーマスクを被った男が、ベルトリンクを垂らした重機関銃の狙いを定め、トリガーに指をかけていた。
軽装甲機動車の車窓から過激派イレスト教信者の姿を認めた乗員は、背筋が凍った。
「まずい!」誰かが叫ぶ。
仲間と等しく十字架のマスクを被った運転手がアクセルを踏み、ワゴン車が加速した。後部にいる男がブローニングM2重機関銃の銃撃を始め、秒速880メートル、毎分600発の銃弾が軽装甲機動車を薙ぎ払った。
軽装甲機動車の装甲は、軽いと呼ばれるだけあり、ライフルの銃撃は防げるものの大口径には対応していない。ブローニングM2重機関銃が放った12.7x99mm弾は装甲を貫き、車内に居る隊員たちをバラバラにした。天井ハッチにいた隊員がミニミ軽機関銃で応射しようとしたが、ワゴンの助手席の窓から『信ずる者を救う会』の戦士が突き出したM4カービンにより、発砲前に射殺された。
96式装輪装甲車の後部乗員席では、隊員がイリスに身を屈ませ、もう一人の隊員が天井ハッチから外に出て、96式40mm自動擲弾銃を構えた。操縦席では無線越しに怒号のやり取りが交わされ、瞬く間に混乱が起こっていた。鍵原は一人平静に、車内に保管されていたレミントンM870を手に取ると、淡々と弾を込めた。
予備弾薬を軍服のポケットに忍ばせながら、鍵原は車窓から外にいるワゴン車を確認した。
「『信ずる者を救う会』……また厄介な連中に目を付けられましたね」一人合点がいったように、鍵原はぼやいた。「『獣兵解放軍』と繋がっていましたか。狙いは言うまでもなく……」
鍵原は座席の下にうずくまるイリスに視線をやった。鍵原たちを乗せた車両がここを走っていることは、釧路から尾行していれば容易にわかることだった。しかし『信ずる者を救う会』による無差別な日本兵襲撃の場に、偶然にも獣人が居合わせていたというのは無理がある。
我々の知らぬところで、『獣兵解放軍』と『信ずる者を救う会』が協力関係を結んでいた……そう考えるのが一番自然だった。この本来相容れない組織が繋がったのは、三ヶ月前の夕張の戦いで『獣兵解放軍』の主力部隊が壊滅したことが大きな要因だろう。確かに『信ずる者を救う会』ならば、即戦力として申し分無い。そして何より、彼らは日本軍と戦うことに恐ろしいまでに意欲的である。
「ということは、彼も来ているわけですか」
鍵原はハンドグリップをスライドした。
『信ずる者を救う会』と日本軍の戦闘車両は、並走しながらカラマントンネルに入った。
96式装輪装甲車の後ろを走る軽装甲機動車は、ブローニングM2重機関銃の掃射に蹂躙され、穴だらけになっていた。軽装甲機動車は対向車線に飛び出し、トンネルの壁に激突した。乗員は既に全員死亡していたため、軽装甲機動車は壁に鼻面を押し付けたままタイヤを空転させ、白い煙を上げた。
最後尾の高機動車にぴったり張り付くジープの助手席に、ケブラーマスクとキャソックを身に着けたカルロス・ベルサーニが乗っていた。カルロスはトランシーバーを口元に寄せ、仲間たちに告げた。
「真ん中の車両には例の少女が居る。傷を付けずに止めろ」次の指令を下すことを、カルロスは全く躊躇わなかった。「他は皆殺しだ」
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