第7話 取引


 基地内に警報が鳴り響いた。

 草薙曹長と部下の兵は、録音機材やビデオデッキを新品と取り換えている最中だった。厚い壁に覆われた隣室に対し、マジックミラーを隔てたこちらの観察スペースは普通の部屋と変わらないので、廊下の音が容易に壁を貫通した。喧しい警報の音とともに、人が走る震動がここまで伝わった。

 草薙はドアを顎で指し、様子を見てくるよう促した。草薙に完全服従の身にある相方は、文句一つ言わず立ち上がり、ドアへ向かった。

 廊下に取り付けられたスピーカーが警報を発し、天井の赤いランプが点灯して回転していた。緊急事態にしか作動しないランプだ。ドアを開けると、ちょうど一人の兵が通りかかるところだった。彼はその兵を呼び止めた。

「おい」自分より階級が下だと見て取り、彼は雑な口調で尋ねた。「何事だ?」

 その兵士はくるりとこちらを振り向き、軍刀の柄を握った。軍帽の下にある獣のような瞳が、鋭く彼を捉えた。

「私が脱走した」

 そう言うと、日本兵に扮した雲田刀子は軍刀を彼の顎に突き刺した。刃先が頭頂部から角のように飛び出し、彼は白目を剥いた。

 草薙は異変を察知した。「どうした?」

 雲田は草薙の部下の体を押して尋問室に入ると、軍刀を手放しホルスターから9ミリ拳銃を抜いた。草薙の部下はどさりと倒れ、雲田は拳銃を草薙に向けながら、後ろ手にドアを閉めた。

「何のつもりだ?」草薙が敵意を露わにした。雲田が軍帽を取りその正体を見ると、驚くというより感心したように眉を上げた。「ほう、やるね。昨日の今日で脱獄とは」

 死体を跨いで草薙に近づき、雲田は間近で銃口を突きつけた。草薙は両手を気怠そうに挙げ、思いのほか余裕の態度で話した。

「待て待て、落ち着きなよ。抵抗する気は無いって、どうせ勝てないし」肩をすくめる。「ていうかどうやって逃げたの?」

「今度身体検査する時は肛門だけじゃなく胃の中まで調べるんだな」

「ああなるほど、参考にするわ」

 草薙は床に寝そべった死体を一瞥し、ため息を吐いた。

「折角育てた部下なんだけどなぁ。あたし色に染まって来たところだったのに」

「どんな色だ?」雲田はグリップで草薙の頭を殴りつけた。「血は赤いんだな。もっと汚い色をしてると思ったぞ。獣兵の糞みてぇにな」

「獣兵の糞が汚ぇのは人間を食ってるからさ。だとしたらある意味、あたしらの血とあいつらの出すもんは同じ色なのかもな」

 草薙の眼鏡が、テレビとビデオデッキを置いたテーブルの上に転がった。流血したこめかみを手で拭い、草薙は痛みよりも視界の悪さに顔をしかめた。

「おい、見えねぇだろうが」

「おかしな行動をしたら殺すぞ」

「あたしらが映画のキャストなら、そいつは三下のセリフだぜ、傭兵ちゃん」

 雲田は草薙の腹に膝蹴りをくれてやった。みぞおちを押さえて天井を仰ぎ、深く息を吐いて草薙は親し気に頷きかけた。

「わかった、わかったわかった。話を聞こうじゃない。ただちょっと眼鏡だけかけさせてくれ。視界が悪いと調子が狂う」

 両手をひらひら振って敵意が無いことを示し、雲田の顔色を窺いながら草薙は眼鏡を拾い、かけ直した。

「ふぅ……」だらりと足を伸ばしてパイプ椅子の背にもたれ、雲田の顔を見上げた。「一服してもいいかい?」

 草薙が白衣のポケットから煙草とライターを取り出した。雲田は煙草とライターを奪い取り、テーブルの足下にあるごみ箱に躊躇いなく捨てた。

「あーあ」

「質問に答えろ」雲田は草薙の顔のすぐ前に銃口を据えた。「あの子はどこだ」

 草薙は武器を所持していなかった。もし仮に武器があったとしても、雲田に敵わないことを草薙は承知していた。彼女自身、抵抗する気などさらさらなかった。

「獣人のことかい? もうここには居ないよ。ついさっき出発したところさ」

 雲田は舌打ちした。イリスは既に札幌獣兵研究所に移送されてしまったようだ。遅かった。昨夜のうちに動くべきだったか。

 自責の念と日本軍への怒りが雲田の胸中に沸々と湧いた。同時に、あることが雲田の中で得心した。雲田の草薙への殺意が、一ランク上がった。

「パーキンを拷問したのは君か」

「そうだよ」けろっと言う。「あんたの名前も聞き出したよ、雲田刀子」

「君もそこの椅子に座らせて拷問にかけてやろうか?」

 マジックミラーの向こうにある尋問椅子を顎で指し、雲田は草薙の胸ぐらを掴み上げた。

「君はあの椅子の座り心地を知らないだろ? 教えてやるよ」雲田が草薙の襟を引いて立ち上がらせた。「あの子の行き先について、洗いざらい吐いてもらうぞ」

 パイプ椅子が倒れてガシャンと鳴った。雲田が隣室へ連行しようとした時、草薙が声を張って言った。

「獣人イリスは北海道横断自動車道を経由して札幌に向かった。護送を担当しているのは札幌獣兵研究所の警備を仕切っていた智東中佐の部隊だ。数は二十人。96式装輪装甲車を使っている。フル武装の精鋭だ」

「……!」

「鍵原大尉も同伴している」

 草薙は限られた人間しか知らない重大な機密を、ぺらぺらと喋った。鉄扉の前で振り返らせ、雲田は草薙と正対し銃を向けた。草薙は鉄扉に背を付けて寄りかかり、腕を組んだ。

「あんたにとって有益な情報はこれくらいだと思うけどね? 追いかけるなら今のうちだよ。そうだな、使うなら偵察用バイクが良い。車庫にある」

 雲田は疑惑の目で草薙を見た。

「私がそれを信じる根拠は?」

「信じてとしか言いようが無いね。嘘は言ってないし。確証が欲しいなら他の兵士にも訊いてみなよ。そこの死体には訊いても無駄だぞ、何も知らないから」

「何故そうも簡単に口を割る? 君も軍人だろう」

「ああ、軍人だよ。君が今あたしに対して抱いている印象よりも、ずっと軍人さ。でなきゃ仕事で来る日も来る日も拷問なんてしない。あたしは別にサディストじゃないんでね、人を痛めつけてオナるような変態とは違って、これでもまともな感性を持ち合わせてるつもりだよ」

 手のひらをべろっと舐め、こめかみの傷に唾液を塗りたくった。先ほどから、草薙は雲田の脅しにも銃にも怯えていなかった。おかしいのはそれだけではない。雲田が雲田だと気づいてから、草薙は一切敵意を向けて来ない。

「あたしが簡単に口を割るのはシンプルな理由さ。拷問を受けたくないからだよ。鍵原大尉の下で、何年も拷問を担当してきた。どれだけの苦痛かは誰よりも理解している。正直言うが、あんたみたいに我慢強くはない。そうするとあたしはどうするか、やることは決まってる。拷問されるくらいなら命を絶つさ」

 草薙は口を開け、口内を指でさした。

「奥歯を噛み潰せば、毒が出てあたしは死ぬ。他にもいつでも自決できる仕掛けを体に施してある。軍人の鑑だろう、傭兵ちゃん。敵に情報をやるくらいなら、あたしは自殺を選ぶ高貴な兵士なのさ」

「その高貴な兵士とやらが、あの子の行き先と部隊編成までよくもまぁぺらぺらと喋るな」

「そこはほら、合理的に考えてるだけだよ。あたしが吐かずに自決したとして、あんたは別の奴からこの情報を訊き出すだろう、最終的に。だとしたら、あたしがここで自決するのは、無駄死にだ」

 雲田は引き金を微かに絞り、言った。

「情報を訊き出したうえで私が君を殺すとは考えなかったか?」

「もちろん。だから、交渉をしたい」

 露骨に眉をひそめ、雲田は口をへの字に曲げた。「はぁ?」

「獣人の行き先を教えてやったのは、交渉に持ち込むための前払いさ。サービスってやつ。ここからは取引だ」

 どう考えても怪しい。胡散臭いにもほどがある。戯言で時間を稼いでいるのかもしれない。雲田はこれから基地を脱出する方法も考えなくてはならない。こいつに付き合っている余裕はないのだ。

 疑る雲田をよそに、草薙はマイペースに話を進めていた。殺されるかもしれないということに、草薙は恐怖を感じていない様子だった。彼女にとっては拷問を受けることの方がよっぽど恐ろしいのだ。

「あたしは殺さないでもらいたいだけだ。ここで見逃してくれさえすりゃ何も要らない。代わりにあたしが提示するものは二つある」

 草薙は火薬の黒い粉末がそばかすのように皮膚の内側に散った顔に、うっすらと笑みを浮かべていた。真意はともかく、雲田は草薙の瞳の中に高度な知性を感じた。

「まずはこの基地の脱出方法だ。ここを出るのは容易じゃないよ。見張りは人間だけじゃない。イヌ型獣兵とタカ型獣兵が外を見張ってる。ぐるりとね。でもあたしなら良い抜け道を知ってる。見逃してくれるなら教えてあげるよ」

「……」

 罠である可能性が高い。が、もし仮に草薙が本当に抜け道を知っているとしたら、大幅な時間短縮になった。今はとにかく、早くイリスに追いつかなければならなかった。

 雲田は草薙の提案に乗る価値があるかどうか、精査し始めていた。依然として引き金に重みをかけつつ、雲田は訊いた。

「もう一つは?」

 雲田が微かに乗り気になったとみて、草薙は嬉しそうに微笑んだ。その顔を見て雲田は、草薙は嘘つきだと見抜いた。

 嘘は嘘でも、嘘をついている箇所が違う。こいつが軍人? まともな人間だと? 絶対に違う。こいつは自分のことしか考えていない。この部屋に入った時から、草薙に感じていた違和感の正体はそれだった。雲田に殺された部下を目にしても、草薙は一切感動を覚えていなかった。彼女は生き物でさえ、部下でさえ物を見るようにしか見ていなかった。

 雲田に嘘をついている方がまだまともだ。軍人の立場でありながら、雲田に本気で取引を持ちかけているからこそ、この女は異常だった。

 鍵原への忠誠さえ、彼女には無い。次のセリフが、それを如実に物語った。

「鍵原風美に関する情報……あたしが知るあの女のことを全て教えるよ、フクロウ」

「!」

 雲田は目を丸くした。フクロウの名を知っているのは、鍵原だけのはずだった。白衣のポケットに手を忍ばせると、草薙は取り出したある物をテーブルに放り投げた。雲田は横目に、テーブルに載った物体を確認した。イヤホンとコードを巻いた、手のひらサイズの四角形の装置だった。

「獣は還らない」草薙は言った。「面白い言葉だ、気に入った。あたしたちの合言葉にしよう、雲田の名を騙る誰かさん」

 雲田の予想は的中した。草薙は昨日、雲田と鍵原がこの場で交わした会話の内容を知っている。彼女が持っていた装置は、盗聴器の受信機だ。ここは草薙の尋問室だ。部屋のどこか、例えば尋問椅子そのものに盗聴器を仕掛けることくらい容易かった。

「あんたは鍵原風美の正体を知りたいだろう? あたしも知りたいんだよ。あの女が、いったい何者なのか。あの化け物の皮の下にどんな本性があるのか」

 雲田刀子の名を耳にした時、初めて微笑の仮面を崩した鍵原の、あのおぞましいまでの凶暴な貌を、草薙は忘れることができない。雲田は鍵原が内に秘める何かに限りなく近い人物であるはずだった。鍵原が草薙にさえ見せて来なかった本性を暴くカギを、雲田が握っているのだ。

 雲田刀子、あんたならもう一度、鍵原の仮面を剥がすことができるのではないか?

 その時、鍵原のすぐ傍で、正体が露わとなる瞬間を目撃するのは草薙であるべきだった。雲田はカギに他ならなかったが、鍵原の正体そのものに一番近い所にいるのは、この草薙だった。

「さぁ、どうする? あたしをここで殺して、タイムロスするかい? それともあたしと協定を結ぶかい? どれがお互いにとって得かな? あんたにとって都合が良いことはどんなことだ? わかってるぞ、あんたのしたいことは。どの道を選ぶことが、あの獣人を助けることに繋がるかな?」

 草薙は雲田に歩み寄ると、拳銃の銃口を握り、自分の喉に押し付けた。主導権を握る雲田を凌ぎ、草薙は余裕を得ていた。死活のその瞬間を、草薙は楽しんでいた。

「あたしたちは互いを微塵も信用していない。これほど信用に足ることはないだろう?」


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