第5話 前夜


「いやぁ本当に助かったよ鍵原大尉! 流石は俺の見込んだ将校だ! 実に素晴らしい!」

 約300キロメートル離れた札幌から、電波に乗って飛び込んでくる智東ちとう中佐の喧しい声から逃れるために、鍵原大尉は受話器を耳から離した。

 五月蠅い声に混ざって拍手が聞こえた。この男、受話器を握りながらどうやって拍手しているのだろう。

「君に頼んで正解だったよ、鍵原大尉。早速獣人のうち一体を取り返してくれるなんてね」

 智東の興奮が落ち着いたので、鍵原は受話器を耳に戻した。

「お褒め頂き光栄です。我が基地にいる情報分析官の努力の賜物です」

「良い部下を持ったな、優秀な分析官だ」

 ターゲットが『獣兵解放軍』だと判明してからの捜査はさほど困難ではなかった。『獣兵解放軍』は一般人を多く取り込んだ組織である。彼らを見つけ出すならば、むしろ全く怪しくない人物に的を絞るのが得策だった。巧妙に仕組まれた自然さは、疑惑の目でなければ見逃すような不自然さを孕んでいる。ごく小さな不自然さを見つけ、その人物の情報を芋ずる式に暴き出す作業のために、情報分析科の者たちは奔走した。青山廉次に辿り着くまでに、釧路基地の情報分析官たちは何百人というハズレのプライバシーを調べ上げていた。

 数撃てば当たる。獲物を捕らえるために多くの罠を仕掛けるように、情報分析とは理論と弾数の両立を得てようやく成立するのである。

「俺の部下たちはよく働いているかね」

「ええ、二十四時間体制で彼女の警護を行ってくれていますよ。洗練された動きに惚れ惚れします」

「獣兵研究者の護衛任務等にあたる専用の部隊だよ。俺の自慢の部下たちさ」

 表向きには上官の部隊を持ち上げつつ、鍵原は自分の部下たちに比べれば大差無いな、と思っていた。護衛に関してはプロだが、純粋な戦闘技能ならどっこいどっこいか、あるいは鍵原の部下たちの方が優れているかもしれない。

 智東が安堵のため息を吐くのが聞こえた。

「俺がそっちに行く必要はとりあえず無さそうだな。明日出発するんだったな?」

「はい。中佐の部隊とともに、彼女を連れて札幌へ向かいます」

「獣人を研究所に取り戻せるのはもちろんだが、久しぶりに君に会えるのも楽しみだな、大尉」

「ええ、私もです」

 智東の部隊がイリスを護送することになるが、そこに鍵原も同伴する予定だ。

 本来なら鍵原が同伴する必要は無かったが、今回ばかりは特別だった。鍵原がしっかりとイリスを送り届けることで、獣兵研究所に恩を売る狙いがあった。そのためにも、札幌を訪れた際は必ず研究所の責任者と顔合わせをしたかった。智東中佐との面会は、正直どうでもいい。

「道中は心配しなくていい」智東は自信満々に言った。「96式装輪装甲車と言ってな、獣人兵の輸送用に無理を言ってうちに配備させたんだ。こんなに早く使うことになるとは思っていなかったがね。小銃程度ならへっちゃらなタフな装甲のうえ、40mm自動擲弾銃を装備している。イカしてるだろう?」

「ええ、中佐の部隊が到着した際に拝見しましたよ。素晴らしいマシーンです、感服致します」

 護送時にはイリスとともに鍵原も96式装輪装甲車に搭乗する予定だった。一九九八年に部隊配備されたばかりの最新装甲車なので、鍵原も少し高揚していた。新しい兵器や獣兵は、鍵原の軍人の血を滾らせてくれる。

「まだあと二体の獣人を捕まえなくてはならないが、とにかく一体目を取り戻せて良かった。こっちに到着したら、改めて礼をさせてもらうよ」

「我々は当然の職務をこなしたまでですよ。お力になれて何よりです」

「移送については一切うちの連中に任せて良いからな。大尉は装甲車の席で、こっちに着くまで獣人の話し相手にでもなってやっておくれよ。獣人と話す機会は、君にとっても珍しいだろうから」

「ええ、そうさせて頂きます」

 イリスの護送に関して、鍵原は自分の部下を同伴させるかを直前まで悩んでいた。智東中佐の部隊に期待していないわけではないが、鍵原が信用を置く兵を護衛に参加させることで、イリスの安全性は格段に向上した。だがここは、智東中佐の顔を立てることにした。側近の佐渡曹長も、今回だけは釧路でお留守番だ。

「ではまた明日な、大尉」

 智東の声は以前より遥かにリラックスしていた。札幌獣兵研究所警備の責任者であった彼は、五体もの獣人を奪われたことでかなりのプレッシャーを上からかけられていたに違いない。

 プレッシャーそのものや、出世が難しくなることは彼にとってストレスになり得ないが、弁明や謝罪などの事務的な作業に時間をとられて現場を離れることは、彼にとって耐え難い苦痛であっただろう。智東が大袈裟なほど鍵原に述べた感謝は、本音だったのかもしれない。

「こちらの名産をお持ちしますよ」

 鍵原は冷気の漂う冷凍庫内で、雲田と初対面した時のことを思い出していた。

「魚などは如何でしょう?」




 釧路市 某山奥


 深夜、ジェイク・パーキンが神父として運営していた秘密教会を隠したロッジは軍の摘発が入る以前よりも鬱蒼とした空気に包まれていた。軍が撤退したロッジの入り口には規制線が張られ、入り口の前はトラックのタイヤの跡に踏み荒らされていた。

 森の暗闇の中から、数人の男たちが静かに、影そのものが歩いているかのように姿を現した。彼らは一様に、墨汁で十字架を描いた白いケブラーマスクを被っていた。マスクを被った一団は、ライフルやサブマシンガンで武装していた。

 男たちは素早くロッジを取り囲み、森の中やロッジの中に日本兵が居ないことを確かめた。全員がクリアの合図を送ると、一人の男が進み出て入り口の規制線をククリナイフで切断した。

 迷彩服や作業服を着た男たちの中で、一人だけキャソックに身を包んだ白髪の男がいた。男はキャソックの前に、特異なフォルムのサブマシンガンFNP90を提げていた。彼はロッジに入ると、迷わずキッチンに向かい地下への入り口を見つけた。規制線をバツの形に張られた地下への入り口からは、仄かに鉄っぽい悪臭が漂った。

 男はカルロス・ベルサーニ。反日組織『信ずる者を救う会』の首領である。

 ともに居る男たちはカルロスの仲間だった。カルロスと同じくこの国に絶望し、カルロスとともに戦うことを誓った者たちだ。なかでも組織のナンバー2を務める黒人のジゼフは、カルロスが最も信頼を置く右腕だった。

 二人に見張りを命じ、残りの部下を引き連れてジゼフがキッチンまで来た。カルロスはバツの中心で規制線を切り、階段を降りて行った。

 カルロスが最後にここを訪れたのは三年前だった。パーキンは敬虔なイレスト教徒だった。彼から娘の訃報が届いた二年前、カルロスは北海道を離れていた。もっと早くここに来ていれば、軍に摘発される前に彼らを救えたのではないか……そんな想いがカルロスの胸を締め付けた。

 暗闇に包まれた階段を、カルロスは見えているかのように軽快に降りた。最後の一段を踏み外すことなく地下の秘密教会に辿り着くと、彼は背後のジゼフに言った。

「ジゼフ、灯りを」

 教会は電気が止められていた。ジゼフはガスランプに火を灯した。仲間たちもそれぞれランプを灯した。オレンジ色の光に照らされた礼拝堂が露わになった。

 荒らされた礼拝椅子や、崩れたカーペットはそのままだった。違法布教の証拠品となるステンドグラスを模したポスターや、祭壇のイレスト像は撤去されていた。カルロスは記憶にある礼拝堂の景色と現状を比べ、あまりの凄惨さに言葉を失った。

 カルロスはケブラーマスクを取った。祭壇の前に血まみれの椅子が倒れていた。祭壇に向かおうとしたカルロスは、通路の中心で足を止めた。足下に、尋常でない量の血のシミが広がっていた。

 明らかに一人の血の量ではない。日本軍の中でも特に、釧路に拠点を置く第27歩兵連隊の、宗教家に対する許し難い蛮行をカルロスは把握していた。これは摘発後、即その場でイレスト教徒たちが処刑された痕跡に他ならなかった。

 カルロスは血の跡を踏まないように一歩引き、その場に跪いた。首に提げたロザリオを握り、カルロスは強く瞼を閉じて祈りを捧げた。仲間たちはカルロスの背後に並び、胸の前で十字を切った。それから礼拝堂を見て回り、日本兵が見逃したイレスト教の物品が無いかを探した。

「安らかに眠りなさい」

 長い祈りを捧げて目を開けたカルロスは、ある方向から別の血の跡が、祭壇の前まで伸びていることに気がついた。カルロスは近くを通った仲間に、血の跡を指さして言った。

「向こうを照らしてくれ」

 仲間がランプをそちらに向けると、何かを引きずったような血の跡が礼拝堂の右横にある談話室へ続いていた。さっと立ち上がり、カルロスは導かれるように速足で談話室に行った。

 突き飛ばすように扉を開けた。

 談話室の中も、略奪に遭ったかのように滅茶苦茶だった。倒された棚の中身は全て回収されていた。割れたガラスが散乱している床に目を落とし、カルロスは目を見張った。

 カルロスは棚を蹴ってどかした。床に血の跡があった。だが礼拝堂の血痕とは異なり、一度に大量の血が流れたのではなく、血飛沫が飛んだような痕跡だった。壁に目をやると、あちこちに赤い斑点が残っていた。

「……」

 なんだ?

 礼拝堂とは別の血痕。誰かがここで処刑された跡。何故だ? 何故礼拝堂とは別に、ここで処刑が行われた? わざわざこんな狭い場所で処刑を?

 カルロスは跪き、血のシミを手でなぞった。床が不自然に凹んでいた。ガラス片をよけ、他に痕跡が無いかをカルロスは探した。何かが指に当たった。それを指でつまみ、光源にあてて彼は確認した。

「……」

 次の瞬間、カルロスは床に拳を叩きつけた。

「! カルロス?」仲間が驚く。

 カルロスは真顔で、何度も何度も床を殴りつけた。血の染みた床板に穴が空き、木っ端が飛んだ。カルロスの顔に表情は無かったが、額に青筋が浮き徐々に紅潮し始めていた。

 いきなり立ち上がると、カルロスは棚を蹴り飛ばした。棚は真っ二つに割れた。野球のピッチャーのように振りかぶり、壁を思い切り殴った。カルロスの拳は、壁に深々と突き刺さった。

 二十年前に投獄され正気を失って以来、カルロスは怒りの感情をコントロールすることが難しくなっていた。著しい怒りを覚えた時、彼はそれを暴力として発散しなければ耐えることができなかった。

 音を聞きつけ、ジゼフが談話室まで駆けつけた。暴れるカルロスを灯りで照らし、ジゼフが「どうした?」と尋ねた。

 ジゼフの声を聞くと、カルロスはぴたりと止まった。壁から拳を引き抜き、ジゼフの方を振り返った時には、カルロスは平常になっていた。顔色は何事も無かったかのように元通りになり、その平静さは不気味なほどだった。

「群れの中の子牛を狙うが如き醜悪さ」カルロスは言った。

「?」

「この地の兵もまた、我々が地獄へ堕とさなくてはならないようだぞ、ジゼフ」

 カルロスはジゼフに歩み寄ると、その手を取って何かを握らせた。肩に手を置いてすれ違い、「そろそろ撤収しよう」と告げて談話室から出て行った。

「……?」

 ジゼフはカルロスに渡された物を見た。彼は顔を強張らせ、唇を噛んだ。

 手のひらに載っていたのは、小さな歯だった。子供の、砕けた乳歯だった。


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