第4話 フクロウ

 尋問の方向ががらりと変わった。鍵原は既に『獣兵解放軍』と、並びにイリスへの興味を失ってしまったかのように、雲田自身に対して強い関心を向け始めた。

「……どういう意味だ」

 落ち着きを取り戻しながら雲田は問い返した。愉快そうに鍵原は笑い声をこぼす。

「ふふふ、知らないふりはしなくていいですよ。昨日、あなたがトラックの荷台から出てきたのは、私がもう一つの名を呼んだからでしょう?」

「……」

 初めて、おそらく先ほど怒りを露わにした時よりも、雲田は微かな動揺を見せていた。その動揺の名は困惑だった。鍵原がそこに踏み込んでくることを、雲田は想定していなかったのだ。先ほどまでと違い、対抗できる手札が無い。対して鍵原がどれだけ手札を隠しているかが、全くわからなかった。誤魔化せばそれが逆に返答になることもまた、雲田が不利である要因だった。

 鍵原大尉が一筋縄でいかない人物であることは、一目見た時からわかっていた。武力だけでなく、頭脳においてもこの将校が計り知れないことに、雲田は気づき始めた。

 雲田の目が背後のマジックミラーを向くと、鍵原が諭すように言った。

「あちらの部屋には誰も居ませんよ。録音もしていません。この話を聞いているのは我々だけです」

「……」

 雲田は音程と声量を落とし、口を開いた。

「……何故、フクロウの呼び名を知っている? パーキンには雲田刀子の方しか教えていなかったはずだ。誰から聞いた?」

「誰からも」鍵原は組んだ脚の膝に、両手を重ねて置いた。「私がフクロウの名を承知しているのは、雲田刀子を知っているからです」

 鍵原は朗読のような語り口調で続けた。

「パーキンが雲田刀子の名を口にしたという報告を受けた時、私はある人物を思い浮かべました。しかしホテル百人館で私の部下と交戦した者は、若い女であるという報告を受けていました。私が考える雲田刀子の年齢は、私とさほど変わりません」

 鍵原はその美貌も相まって若く見られることが多いが、今年で四十歳を迎える。

「獣人とともにいる傭兵が、果たして雲田刀子本人なのか、それとも同姓同名の他人なのか……昨日トラックであなたを見た時に、私は確信しました」

 キツネのように細い目が微かに開き、獣の瞳が雲田を覗いた。悪寒の走る視線で雲田を串刺しにし、鍵原は断言した。

「あなたは雲田刀子ではない」一拍区切り、鍵原は息継ぎした。「しかし、私が知る雲田刀子の関係者だと。私は確証を得ています。証拠は何一つありませんがね、敢えて言うならばあなたこそが証拠です。私たちが思い浮かべる雲田刀子は、同一人物です」

「……」

 雲田は如何に切り返すべきか、得策が思いつかなかった。鍵原が何をもって一連の発言をしているのかはまるでわからなかったが、それがおよそ的外れでなく、それどころか鍵原の方が雲田より深くまで情報を握っている可能性が極めて高い。このやり取りに関しては、実際の立場と等しく鍵原の圧倒的有利にあった。

 雲田が頭を回転させる沈黙の数秒間を、鍵原は惜しんだ。雲田よりも結論を急いでいたのは、鍵原自身だった。逸る気持ちを抑えながら、鍵原はゆったりとした口調で話し出した。

「一つずつ、照らし合わせてみましょうか」

「?」

「あなたの雲田刀子と、私の雲田刀子を」

 鍵原は口元をにやりと歪ませた。雲田に寒気が走る。

「私が知る雲田刀子は……身長168センチの女性で、足のサイズは24センチ、茶髪の日本人で、瞳は黒く、右利きで、もし整形をしていないのなら右耳の縁が鈍角に曲がる特徴があり、左手の小指が欠け、酒豪。好きな酒はウォッカ、乗り物はバイクを好み、趣味は天体観測で星空の知識に富み、遠距離射撃が得意でした。髪は生まれつき癖が強く、よく一つに縛って邪魔にならないようにしていました」

 ぞわり、と雲田は鳥肌が立った気がした。

 鍵原が述べる情報の羅列は、あまりに——雲田の記憶に在る人物と、あまりに正確に合致する。

 次のセリフを聞き、雲田はさらに大きく目を見開くこととなった。

「そして、彼女……雲田刀子は、かつて我が帝国軍の兵士だった。二十年前に発足し、約五年間各国で諜報活動を行った機密部隊……中央の上層部には『義獣隊ぎじゅうたい』と呼ばれる精鋭の一員だった」

 雲田刀子が……本物の雲田刀子が、かつて雲田に語って聞かせた彼女の経歴を、鍵原はありのままに語ったのだった。雲田は渇いて充血するほど瞠目し、鍵原の顔にまじまじと見入った。

「選抜試験を通過した兵のうち、成績上位者六名から抜擢された『義獣隊』のメンバーは、偶然にも全員が女性でした。知力と体力、戦闘技能、諜報員としてのスキル全てが秀でた兵たち。彼女たちは互いに実名を知らず、それぞれが獣の名をコードネームとして呼び合った。『ヒグマ』、『イノシシ』、『キツネ』、『ヤマネコ』、『シャチ』……そして雲田刀子のコードネームは、『フクロウ』」

 とっくに、雲田は鍵原が語る人物が自分の知る雲田刀子と相違ないことを確信していた。鍵原もまた、雲田が同じ確信へ至ったことを悟っていた。

 最後に、駄目押しのように鍵原は決定的な一言を告げた。

「彼女にはある口癖がありました。人を殺めるたびに、よく彼女はこう言ったものです」

 雲田が心中で呟いた声と、鍵原の声と、双方が思い浮かべる人物の声が重なる。


「獣は還らない」


 雲田は強烈な殺意を燃やした瞳を、鍵原に向けた。その顔は今にも首元に噛みつこうとするかのように厳しく、獰猛だった。険しい声で雲田は言った。

「何故、君が刀子を知っている?」

「私も訊きたいですね」鍵原は前髪を掻き上げた。顔に刻まれた創がよく見えた。「あなたが雲田刀子の何なのかを」

 雲田の獣の如き眼光を受け止める鍵原もまた、獣の眼をしていた。彼女たちは雲田刀子という共通項を有することとはまた別に、互いが限りなく同種の存在であると理解しつつあった。

 人だが、人ではない。獣ではないが、獣に他ならない。

 君からは、あなたからは——

「鍵原大尉……君は、何者だ」

 ケダモノの香りがする。

 鍵原は尖った歯を覗かせ、上等な獲物を見つけた獣のように、凶悪な笑みを浮かべていた。



 西暦一九九四年

 ロシア連邦 某所


 血と、硝煙の香りは感覚が麻痺するほど嗅ぎ過ぎて、ちっとも気にならなくなっていた。

 手に馴染んだカラシニコフの熱を持った銃口から煙が立ち昇る。手に握ったナイフに付いた血は、どろっとしていて、まだ温度を残していた。

 太陽を遮るように、彼女は私の前に立った。逆光で見えないその顔が、彼女が近づくと鮮明になった。

 茶髪の日本人。彼女は構えていた銃を下ろすと、代わりに私に手を差し伸べた。

「私は雲田刀子。君の名前は?」

 その女が自分と同種だと、私は気がついた。でも、何かが違った。私とよく似ていると思った彼女の獣の眼は、しかし、寂しそうに霞んでいたのだった。



       ♢



 西暦二〇〇〇年

 大日本帝国陸軍釧路基地


 釧路基地内にある留置所の独房に、雲田は入れられた。昨日とは違う房だった。脱獄などの備えをさせない狙いがあるためだ。雲田が全く怪しい素振りを見せなかったとしても、彼女が出た後に房内は鍵原の部下によって入念に、隅から隅まで調べ上げられることだろう。

 雲田が独房に入れられ、鉄格子の扉が閉じられるのを鍵原は見届けた。太い鉄格子は当然、人の力でどうこうできるものではなく、錠には鉄格子の隙間から手を伸ばしても届かないように、溶接された鉄板のカバーがぐるりと一周していた。

 兵士の動きを見るに、錠前は最低でも二つあった。独房の外には、鍵原の他に兵士が三人居た。全員89式自動小銃を肩に提げ、厳しい警戒の眼差しを雲田に向けていた。

 房に入ってから、鉄格子越しに腕を伸ばして、雲田は手錠を外された。鉄格子から離れるように命じられると、兵の一人が食事の搬入に用いる受け渡し口に囚人用のツナギを入れ、独房にいる雲田に差し出した。

「あの子も似たような部屋にいるのか?」

 雲田は鉄格子越しに鍵原に訊いた。それ以外の兵はまるで眼中に無いように、雲田は一度も目を合わせなかった。

「いいえ、彼女はVIP待遇ですのでね。もっと良い部屋に招待していますよ」

 雲田にあてがわれた独房は全面をコンクリートに囲まれ、光源は廊下の蛍光灯と、天井から吊るされた裸電球一つだった。電球にスイッチは無く、オンオフの権は看守にあった。寝心地の悪そうなベッドと、和式トイレが一つあるだけ。あとは何も無い部屋だった。半地下であるため、窓さえ無い。湿気が強く、シミのある壁は不清潔で、寒冷地であるため流石にゴキブリまではいないものの、ネズミくらいなら平気で湧きそうな空気があった。

「見回りや食事を運ぶ際も、必ず三人以上で行うよう徹底して下さい。何度も言いますが、彼女は単独で八島軍曹と山狩りオオカミを屠っています」

「は」部下たちが力強く頷く。

 鍵原は部下に念入りに言いつけた。成人前の幼い容姿に騙され、油断することを防ぐためだった。ホテルの一件で今藤上等兵を殺害し、井平一等兵に重傷を負わせた事実を知る釧路基地の兵士たちは雲田を強く警戒していたが、それでもなおまだ彼らの認識が甘いと鍵原は考えていた。雲田は部下たちが想定する脅威の倍は凶暴な危険人物だ。

 雲田に視線を戻すと、鍵原は柔和な笑みを浮かべて話しかけた。

「では、私はこれで失礼しますよ。本当はもっとあなたと話していたいのですが、私も少々忙しいのです。今はあの子の処理が最優先ですのでね」

「あの子をどうするつもりだ」

「安心して下さい。少なくとも、あなたよりは丁重に扱いますよ。傷一つ付けないようにとも言われていますしね」

 雲田は鍵原を睨みつつ、房内に飛び出した受け渡し口の浅い箱からツナギを拾った。所々ほつれ、埃っぽかった。これもまた、先日着たものと異なった。

「それが終われば、あなたからたっぷりと話を聞く時間があります。ここでゆっくり待っていて下さい。退屈なら、本くらいなら貸し出して上げますよ」

 ではまた、と言い残し、鍵原は部下たちとともに廊下を引き返して行った。少し経ってから、かなり離れた場所で重い扉が閉まる音が響き渡った。廊下の灯りが消え、独房の電球が点灯した。

「……」

 ツナギを着ると、雲田はベッドのシーツを剥がして中をチェックした。やはり、檻を抜けるのに使えそうな部品は無かった。木製のベッドには釘一つ付いておらず、凹凸を嚙み合わせるだけで簡単に組み立てられる構造だった。試しに分解してみたが、これといって用途は思いつかなかった。組み直してシーツを敷き、雲田はベッドの上に寝転がった。

 スカスカのベッドの寝心地は最悪だったが、地べたよりはずっとマシだった。独房のカビ臭さも、雲田にとっては気にならなかった。仰向けに寝ると、独房の中では眩しく感じる電球が目に映った。天井が高く、壁を使って跳んでも電球にはギリギリ届かなさそうだった。

 雲田の思慮は、一旦房を抜ける手段からイリスのことへと移った。イリスの身の安全が確保されていることは、確かだと言っていいだろう。イリスは帝国軍にとって貴重な獣人の検体だ。酷い扱いをされることはない。しかし心はどうだろう?

 パーキンの秘密教会に居た者たちが全員死んだことをイリスは知ってしまった。どれほどの悲しみが彼女を襲ったというのか。あんなに純粋な子供を、どれだけの絶望に叩き落とした?

 雲田刀子に関する情報を聞き出すまで、鍵原は雲田の処分は先送りにするはずだった。その点では一応、雲田にはまだ猶予がある。だが、イリスには時間がない。

 この後、彼女はどうなる? 鍵原の口振りからして、間もなく札幌獣兵研究所に送り返されると思われた。そのために鍵原は雲田に構えなくなるのだ。

 鍵原が雲田から少しでも離れるこのタイミングでしか、脱獄は難しいだろう。ただでさえここは軍の基地だ。二千人の兵士と数万匹の獣兵がいる、まさに敵の本山。脱出は限りなく困難なうえ、鍵原の存在の有無が、脱獄の成功率を大きく左右した。

 しかし、イリスを助け出すには、今しかない。獣兵研究所に入れられてしまえば、再びイリスを救出するのは不可能に近かった。『獣兵解放軍』の襲撃事件を受けた札幌獣兵研究所の、現在の警備の厳重さは以前の比ではない。研究所の敷地に……いや、もはや智東中佐が本陣を構える札幌に、イリスを連れ去られた時点でもう詰みなのである。

(……勝負するなら早い方が良いな)

 早くても明日、三日以内にはイリスは釧路基地を離れ、札幌まで護送されるだろう。基地内に居る限り再び『獣兵解放軍』から奪還されることはありえないが、鍵原の心情としては雲田の近くに置いておきたくはないはずだった。智東中佐側にとっても、イリスを釧路に置いておく利点は無い。

 明日か、今夜中にでも雲田は動き出さなければならなかった。長々と脱獄計画を練っている暇は無い。決死の短期決戦を挑まなければ、雲田にもイリスにも未来は無かった。雲田の思考は、まずこの独房をどう突破するかということへ、フル回転を始めた。房内をぐるりと見回した雲田の目は、廊下の方へ向いた。

 食事用の受け渡し口は、手を入れても独房の外には届かない構造になっていた。次に鍵穴だが、鍵を手に入れたとしても内側から開けるのは無理だった。鍵原のことだから、雲田を入れる前に鉄格子のぐらつきや腐食のチェックは済ませているはずだった。鉄格子の幅は、関節を外しても抜けられる広さではない。まず頭が入らなかった。

 便所はただの便所で役に立たないし、電球も手が届いたところで何に使えるというわけでもない。

「……うーん」

 雲田は鉄格子の上部を見上げた。暫く考えてから、雲田は何気なく腹のあたりを手でさすった。


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