第3話 拘束


 一度だけ、鍵原大尉が軍服の上着を脱いでいるのを見かけたことがある。

 尖閣諸島の占領を試みた中国の連中と衝突した時のことだった。釧路基地に配属される前。あたしは当時まだ中尉だった鍵原隊長が率いる小隊に所属していた。

 ミサイルの破片を浴びて負傷した鍵原大尉をあたしは治療した。血まみれの上着を脱いだ鍵原大尉が首から提げていたそれを、あたしは目にした。

 首から提げた二つの認識票。一つは日本兵が全員持っているのと同じタイプの物。だがもう一つの方は違った。見たことのない、別の認識票。

 彼女と付き合いの長いあたしでさえ、もう一つの認識票のことを知らなかった。彼女はそれを、肌身離さず身に着けていたのだ。

 ちらりと見えたその認識票に、書かれていたのは——。


 あれからずっと鍵原大尉の後ろ姿を見続けている。彼女が築いた死体の山を漁り、血の海を漂いながら過ごしている。

 それでも、何年をともに過ごそうとも、あたしは彼女のことをよく理解できていなかった。

 こんなに近くに居るのに。あたしは彼女のことを未だ何も知らない。



 西暦二〇〇〇年 五月

 大日本帝国

 北海道 大日本帝国陸軍釧路基地


 もはや草薙曹長の自室と言っても差し支えない、釧路基地の尋問室を鍵原大尉が訪れたのは、鶴丘の検問で冷凍トラックを止めてから一夜明けた早朝のことだった。まさに自室でくつろぐが如くテーブルに足を乗せてだらしなく椅子に座り、草薙はマジックミラーの向こうを眺めていた。鍵原が入室したことに気づくと、草薙と相方の兵士は素早く立ち上がり敬礼した。

「ご苦労様です」

「どうも、大尉」

「様子はどうですか?」

 鍵原はちらりとマジックミラーの方を見た。分厚い鉄扉を隔てた隣の部屋には、尋問用の椅子に座らされた雲田刀子が居た。雲田は後ろ手を手錠で繋がれ、両足も椅子に縛られていた。

「ずっとあの調子です。気味が悪い」

 草薙は肩をすくめた。

 雲田はじっと、瞬きをしていないのではないかと思うほどじっと、まっすぐこちら側を睨みつけていた。その目はマジックミラーを貫通し、鍵原たちの姿を捉えているのではないかと錯覚するほど凛としていた。

「身体検査は済んでいますか?」

「ええ、口の中から尻の穴までね。意外とすんなり応じてくれましたよ。そこが逆に怖いですけどね」

 現在、尋問椅子に拘束した雲田が身に着けているのは下着だけだ。凶器を隠し持つ余地は無い。しかしおそらく、彼女にとって武器の有無とはさほど意味を持たなかった。彼女が生まれながらに鋭い爪と牙を持つ獰猛な獣に等しい、凶暴な存在であることはその足跡が証明していた。

 鍵原は草薙と相方を順に見て、念を押すように尋ねた。

「まだ何もしていませんね?」

「ええ、もちろん」草薙は両手を挙げ、文字通りお手上げのポーズをとった。「あたしも何年も拷問やってますからね、何と言いますか、まぁ経験則に過ぎないんですけど」

 眼鏡の奥にある草薙の目が微かに鋭くなり、向こうから見えていないはずの雲田の視線を嫌うように尻目に彼女を覗いた。

「あいつに拷問は通じませんよ」草薙は雲田を顎で指した。「顔を見たらわかる。パーキンの倍の苦痛を与えたとしても、あいつは何一つ漏らさない。意志が強いとかそういう問題じゃないんすよねえ、常人とは根本から違う」

「同感です」

 鍵原は後ろ手を組んでマジックミラーの前に立ち、雲田を観察した。こうしてみると、雲田の目線はいささかずれており、やはりこちら側は見えていないことがわかる。

「それに、不用意に彼女に近づく行為は危険です。彼女を拷問にかけるには、ここは設備が足りません」

 普段、尋問室に整然と並べられている、草薙が手入れを欠かさない自慢の拷問器具の数々は、一つ残らず撤収されていた。複雑奇怪な形状の拷問器具は、何かの間違いで一度でも雲田の手に渡ってしまえば凶器にも脱獄道具にも早変わりするためである。尋問椅子の他に室内にあるのは、雲田の真向かいに置かれたパイプ椅子だけで、後は何もなくがらんとしている。

 鍵原が差し出した手に、草薙は鉄扉に付けた錠前の鍵を置いた。すると鍵原は柔和な笑みを浮かべて言った。

「外で待っていて良いですよ」

「え?」草薙は首を傾げた。「外で、ですか?」

「ええ」鍵原はにっこりした。有無を言わせない顔だった。

 暗に「出て行け」と言っているのだ。鍵原は錠前の鍵を握りしめ、草薙と相方が退室するのを待った。相方が心底居心地悪そうにこっちの顔をちらちら窺っているのが、視界の隅に映った。

「あ~……なるほど」

 鍵原の命令に従うのは一向に構わなかったのだが、尋問に同席しないだけならまだしも、隣室で眺めることさえ許さないとはどういった意向なのだろう。

 草薙を食い下がらせたのは、単純な好奇心だった。

「聞かれちゃまずい話でも?」

 たぶん、相方は余計なことを訊くなと言いたげに、顔を青ざめさせていたことだろう。草薙はへらへらとした態度をとり、室内を重大そうな雰囲気にさせなかった。これでもし鍵原が気を害したなら、それはそれで鍵原大尉の新たな内面を垣間見ることができるので面白い。雲田刀子の名前を聞いた時に、見たことも無い表情を現したように。

 しかしそんな淡い期待は虚しく、鍵原は笑顔の仮面を簡単には崩さなかった。

「ええ、その通り」鍵原は口の前に人差し指を立てた。「内緒の話です」

「……危険じゃありませんか? 何かあった時、ここに誰かが居ないと大尉の身が危険です」

「問題ありません」

「いえいえ、万が一が……」

 鍵原の穏やかな声が、滑り込むように草薙の言葉を遮った。

「この私に、万が一、があるとでも?」

「……」

 釈然としない。草薙と相方はパーキンの口から、例の少女が獣人であることを聞いている。他の兵ならまだしも、草薙たちにならば獣人に関する尋問を傍聴されても支障は無いはずだった。むしろ、獣人のことを把握しているからこそ雲田の尋問に草薙の部屋を選んだはずなのだ。

 草薙に聞かれては困るほどの、さらなる機密を雲田が握っているということだろうか。それならばまだわかるが、どうにも違和感が残る。

 そもそも、どうして鍵原は雲田を生かした? 普段の鍵原ならば、迷いなく雲田をその場で抹殺するだろう。あの鍵原大尉が、獣人の少女のみならず雲田までをも生け捕ることを部下に命じていたのはどういう了見だったというのか? そんなことまで智東中佐の意志だったのか?

 何よりも、鍵原が見せたあの顔だ。雲田刀子という少女は、鍵原にとって何らかの価値を持っている。草薙はそれが気になってしょうがなかった。

「……」眼鏡の縁を指先で押し上げ、顔を上げた時には草薙は笑顔になっていた。「わかりましたよ、内緒話なら聞いちゃいけませんね」

 相方の肩を叩いて草薙はドアへ足を向けた。「ほら、行くぞ。廊下で番兵だ」

 すれ違い様、鍵原の横顔を草薙は盗み見た。既に鍵原の視界に草薙たちは映っていなかった。彼女の意識は、完全に隣室の雲田へ奪われていた。

 かくして草薙は相方ともども、尋問室を穏便に追い出されたのだった。

「おい」

 尋問室のドアを背に立たった草薙は、白衣のポケットをまさぐっていた。相方がきびきびとした声で応じる。

「は、何でしょうか。あ、お飲み物でも調達しましょうか?」

「そうじゃない。いや、飲み物は貰うけど……緑茶な、自販機にあるヤツ。で、それは別にどうでもいいんだけど」

 ポケットから取り出したイヤホンを耳にセットし、草薙は歯を出して悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「あたしがすること、黙っておけよ? チクったら死ぬまで拷問してやるから」

 草薙が口にする拷問という脅し文句は、たった一言でその部下の口を固く噤ませた。

 草薙は唇を舐め、ポケットに忍ばせた装置を作動させた。

(鍵原大尉……あたしをただの拷問マニアだと思ってたら大間違いだぜ)



 重たい鉄扉が閉じる重苦しい音が鳴った。ブーツでカツカツと床を鳴らす鍵原大尉は、軍刀と拳銃を隣室に置いてきていた。室内に居る両者は丸腰で、武器になるものと言えば、錆のついたパイプ椅子くらいだった。

 雲田刀子と呼称される少女の対面に、鍵原大尉は腰を下ろした。雲田はマジックミラーを睨んでいた時と同じ眼差しのまま、鍵原と目を合わせた。背の高い鍵原の顔を見るために、雲田は後ろ手を手錠された猫背気味の姿勢から、少し上を向かなくてはならなかった。

 雲田を舐め回すように眺めると、鍵原は微笑を浮かべた。

「こんにちは。改めまして、私は鍵原風美。階級は大尉です」

 雲田の刃物のように鋭い眼光を浴びても、鍵原は笑みを崩さなかった。もう一度雲田の体を眺め回し、彼女はくすりとした。

「美しい肢体ですね。よく鍛えている」

「順番が逆だろ」雲田は唾を吐くように言った。「口説く前に服を剥ぐ馬鹿がいるか」

「ふふ、それは失礼致しました。その姿もよく似合っていますよ。銃を持っているよりもずっと、女の子らしくて」

「まぁ、お前の顔よりはマシだろうな」

 鍵原は大きな創のある顔を、さらににっこりさせた。互いに挑発が全く意味を成さないことを察すると、鍵原は手早く尋問を始めた。

「拷問をする気はありません。効果が無いことはわかっています。自白剤もね。ですから単刀直入に訊きます。『獣兵解放軍』の情報と、あなたが何者なのかを話しなさい」

「めでたいな、おいそれと答えると思ってるのか?」

 雲田は肩をすくめ、ため息を吐いた。

「一つ正直に話せるとしたなら、『獣兵解放軍』については何も知らない。あいつらとのコンタクトは最小限だった。私が名前を知っているのは君らが殺したレオというドライバーだけだ」

 武器と身ぐるみを奪われ、拘束されて敵地のど真ん中に幽閉されているという絶体絶命な状況下においてなお、雲田の毅然とした態度は一切崩れなかった。その振る舞いは、むしろ余裕の表れだった。

 そんな雲田の態度を、鍵原は心底気に入り始めていた。

「そうですか。良いでしょう、『獣兵解放軍』に関しては昨日捕らえた者たちに尋ねることにします。彼らはあなたやパーキンほど根気強くはなさそうですからね。では……」

「一問一答だ」雲田の声が鍵原の言葉を遮った。「次はこっちの質問に答えてもらう」

 手足に錠をかけられているにも拘わらず、雲田は今まさに鍵原の鼻面に銃口を突きつけているかのように殺気立っていた。なるほど、と鍵原は得心がいった。体はとにかく、雲田の心はこれっぽっちも縛られてなどいないのだった。

 雲田はあろうことか、尋問官と囚人をあくまでフェアであるかのように扱った前代未聞の質疑応答へ持ち込ませようとしていた。恐れ知らずとはまさにこのことだった。そして実際に、彼女は恐れを知らなかった。仮にこの場で拷問を受けようとも、処刑されようとも雲田の意志がぶれることは決して無かった。

 暫しの逡巡を経て、鍵原は頷いた。

「良いでしょう」足を組んで鍵原は雲田を見下ろした。「内容によっては答えて差し上げます」

 相手が言い終える前に雲田は言った。

「イリスは……あの子はどうしてる?」

 何よりも先に雲田がイリスの身を案じたことを、鍵原は意外と思うと同時に納得もしていた。雲田はきっと、然るべき時に仲間さえ見捨てることのできる冷酷な人物だ。その一方で、高いリスクを冒してイリスを護衛するという、傍から見ると矛盾した行動をとっている。イリスを庇うことに、雲田にとってどれだけの利があるのか、鍵原が次に気になるのはそれだった。

「あの獣人は別室で休んでいますよ」

 鍵原が獣人と言った瞬間だけ、雲田の眉がぴくりと動いた。肩をすくめて鍵原は言った。

「安心して下さい。彼女が獣人であることを知っているのは、私とパーキンの尋問を務めた数人だけです。今、彼女を警護しているのは札幌獣兵研究所の警備を担当していた部隊の者たちです。彼女を迎えに、はるばるこの地へ来てくれたのですよ」

 雲田は内心で舌打ちした。

(夕張で『獣兵解放軍』の主力部隊を壊滅させた連中か……トップは確か、智東中佐とかいったな……)

 奪われた獣人を取り返すために躍起になっている部隊だ、そこらの半端な兵士を寄越してはいないだろう。釧路基地にいる兵も手強いが、彼らも非常に厄介な敵だった。

「少し困っていることがあるとしたら、なかなか食事をとってくれないことですかね。昨夜もなかなか寝付けなかったようです。困るんですよね、あの子に健康を害されると」

 はぁ、とため息を吐いて鍵原は頬杖を突くような仕草をした。

「特に、夜泣きというんでしょうか……酷かったんですよ」

「?」雲田と過ごした数日間、イリスは夜泣きなどしなかった。雲田は怪訝そうに眉間を寄せた。

「あなたも人が悪いですね。パーキンたちの末路を、彼女に伝えていなかったんですね」

「……!」

 鍵原の言わんとすることを、雲田は悟った。ざわっと総毛が経ち、雲田は額に青筋を浮かせた。手錠の鎖がピンと伸び、金属製の尋問椅子の背に当たってカチャンと鳴った。

「あの子に……」雲田の声が密室に強く反響した。「教会の人間がどうなったのかを……教えたのかッ!?」

「ええ」開き直るように肯定し、鍵原は困ったような声を発した。「わんわん泣いて、それはもう五月蠅かったですよ。貴重な検体でなければ、顎を砕いて黙らせていたところです」

「何のためにッ」雲田は怒鳴った。「何のためにそんなことを教えた!? あの子がそれを知る必要がどこにあるッ!?」

「何を怒っているんですか? それに一問一答と言ったのは、あなたですよ? 答えを聞きたいなら、次の私の問いに答えてからです」

 手錠が肌に食い込み、伸びた鎖が軋んでいた。しかし日本軍が用いる手錠は、人の力で到底壊すことができない造りになっていた。約二十年前に、あるイレスト教神父が手錠を素手で破壊して脱獄したという事件が起きて以来、日本軍は多大なコストをかけて各種の拘束具を改良したと云われていた。

「その激情について問いたい。何故そこまでして、あの少女に固執するのですか? あなたは『獣兵解放軍』の一員ではなく、雇われただけの立場でしょう? 高額な報酬を約束されていたとしても、あまりにリスキーな役割ではありませんか?」

「君に教えてやるつもりはない」雲田は強い語気で言った。

 鍵原はあっさり諦めた。

「わかりました。問いを変えます」鍵原は声のトーンを落とした。「何故、雲田刀子の名を騙っているのですか?」

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