第13話 検問
釧路市鶴丘
市街から遠く離れた国道240号、周囲を大楽毛川に囲まれ、進路を横断する釧路空港線と山花鶴丘線の手前にある十字路が、大日本帝国陸軍第27歩兵連隊第一中隊によって封鎖されていた。阿寒方面へ向かう車両に限り、軍隊による綿密な検問を強いられていた。
兵士たちは訓練された動きで車内にいる人物の人相とトランクの中身をチェックし、問題が無ければものの数秒で通した。検問は兵士たちのスピーディな作業により滞りなく行われ、渋滞らしい渋滞は一度も起きていなかった。封鎖した道路に停められた軍用車やライフルを持った兵士の姿が通りかかるドライバーや同乗者に緊張を与えたが、ターゲットと異なると判断されたごくごく無害な一般人に対し、兵士らの態度は極めて無関心だった。ドライバーは誰一人気が付くことはないが、実は検問に辿り着く前の道路で既に、森に隠れた兵士が双眼鏡を用いて乗車している者たちの人相チェックを済ませていた。
兵士がチェックしている間、イヌ型獣兵は車両の周囲をぐるりと一周して臭気を嗅ぐ。ホテル百人館に残されていた痕跡と合致する臭いが無いと判断すると、イヌ型獣兵は車両から興味を失って路肩へ退いた。実に三重のチェックを経て通過を許された車両にターゲットとなる少女と傭兵が潜んでいる確率は、ほぼ無いと言って良かった。
株式会社白和運輸の正社員ドライバーにして、『獣兵解放軍』の兵士としての裏の顔を持つコードネーム・レオは、腹の底に湧き起こる緊張を堪えながら平静な表情でハンドルを握っていた。双眼鏡で監視を行う兵が潜む森の傍らを抜け、検問はもうすぐそこまで迫っていた。
「間もなく検問です」
レオは制服の襟に隠したマイクに話しかけた。
服の下に隠したコードはシートを貫通し、荷台に隠した保温室と繋がっていた。コードは必要に応じてジョイントを切り離し、レオは不自然なく降車することもできた。
前を走行していた一般の乗用車が難なく検問を通過し、次はレオのトラックの番だ。レオは検問所に点在する兵士たちをさっと見渡し、汗がじわりと浮かぶのを感じた。彼は深呼吸し、高ぶる心拍を落ち着かせた。
大丈夫だ、トラックに見落としは一つもなかった。信頼する同志たちが何重にもチェックした。雲田も問題無しと太鼓判を押してくれた。ミスは無い。レオが不審な挙動を見せない限り、日本兵がこの冷凍車を怪しむ要素は微塵も無かった。雲田とイリスを誰にも悟られることなく荷台に隠せた時点で、レオたちは検問を通らずとも勝利しているに等しかった。
兵士の誘導に従って停車し、レオは検問に協力的な市民を装って運転席の窓を開けた。襟に隠したマイクは内側に織り込まれているため、目視ではわからない。レオはラジオを止め、歩いてくる兵士を注目した。ライフルを持った兵士の目線は、じっとレオに向けられていた。
貨物トラックはドライバーの顔を確認しただけですぐに通される。荷台を開けさせられるのは稀で、一度も表立った活動に参加していないレオは日本軍が持つ『獣兵解放軍』のリストに顔が載っておらず、犯罪歴も無いため指紋鑑定すら余裕でパスできた。
ましてやレオが運転しているのは冷凍車。誰も人が隠れているとは思うまい。荷台に積んだ大量の魚の臭いが、獣兵の嗅覚を欺く。レオは、この人生最大の緊張はこれから近づいてくる兵士と一言二言言葉を交わすだけの数秒で終わるものと、絶対的な確信を得ていた。
彼が異変に気づいたのは、トラックに背後から近づく兵士の姿をサイドミラー越しに認めた時だった。
その兵士は、一人や二人ではなかった。いったいどこに隠れていたのかと思うほど、数十人もの兵士が続々と姿を現し瞬く間にトラックを取り囲んだのだ。
「え……」レオは思わず固唾を呑んだ。
兵士が運転席に歩み寄る。厳しい表情をしたその兵士は、明らかな敵意の眼差しでレオを見ていた。ドアの横に立つと、兵士は89式自動小銃をレオに向けて突き放すように言った。
「エンジンを止めろ」
ゾッと寒気が走った。レオはその兵士——佐渡渉曹長の目を見て、リアクションによっては彼が自分を本気で撃つつもりだと悟った。レオはほとんど考えることなく、というか体が勝手に、キーを回してエンジンを止めていた。
「両手を挙げろ」佐渡が言った。
レオはこれがただの検問の一貫でないことをとっくに理解していた。指示通りに手を挙げる直前、レオはハンドルの裏に隠したスイッチを押す役目を、辛うじて残った理性で遂行した。
ボタンを押した途端、荷台に隠された保温室の中に赤いランプが灯った。箱の中に潜む雲田は、レオが発した警告の合図をすぐさま察知した。
レオは両手を頭の上に挙げた。佐渡は「そのままにしていろ」と命じた。
カツリ、とアスファルトを打つ足音が、出し抜けにレオの耳に届いた。心臓が破裂しそうなほどの緊張に追い込まれていたレオは、佐渡の隣にもう一人の兵士が近づいてきていることに気づいていなかった。
「お仕事中、申し訳ありません。青山廉次さん」
穏やかな声が突然自分の本名を告げたことに、レオは形容し難い絶望感を覚えた。背骨を締め付けられているかのように、体が固まった。
いや、まだ希望は捨てないと彼は気丈に意志を貫いていた。制服の胸に付けた社員証を見て、単に名前を呼んだだけかもしれない。そうだ、日本兵が僕の名を知っているはずがない。
「それとも……」
カツリという足音が止まった。佐渡の隣に長身の兵士が立った。その兵は至って温和な、いっそティータイムにでも興じているかのような声で言った。
「『獣兵解放軍』、と呼んだ方がよろしいでしょうか?」
レオは顔面蒼白になった。首をカチコチと動かし、彼はその兵を見た。
三つ編みに束ねた黒髪を、肩から前に垂らした女の兵士だった。ライフルを構えた男の兵よりも背が高く、肩幅が広い。しかし不思議と恰幅の良い印象は与えず、すらりとした立ち姿には彫刻のような荘厳さと美しさがあった。
「どうもこんにちは。積み荷を見せてもらえますか?」
柔和な微笑みを浮かべたその美貌には、斜めに切り裂く大きな創があった。
向かったのはハワイだった。三泊二日、観光地を歩いて回り、海で泳ぎ、ホテルで彼女とセックスしたりして遊び尽くした。
彼がそれと出会ったのは旅行二日目の朝だった。彼と同じ観光客で溢れるビーチに、旗や看板を立てて陣取り演説を繰り返すグループがいた。観光客はスルーしたり指をさして揶揄したり、邪魔くさそうな顔をしたりしてまともに相手をする人はごく僅かだった。足を止めて熱心にその話に耳を傾けるのは、ほんの一握り。
その一握りのなかに青山がいたのは、当時のガールフレンドも含めともに観光していた友人たちにとっても予想外のことだった。
「〈すいません、お話聞かせてもらえませんか。僕は日本人です〉」
大学で習得した英語で、青山は話しかけた。応対したのは体格の良い白人の男だった。
「〈ありがとう、君のような理解ある勇敢な者を、我々はずっと待っていたよ。俺はデイビッドだ〉」
そのグループは、『獣兵解放軍』といった。デイビッドと青山は、ビーチの近くのレストランで話し込んだ。
青山は彼らの理念と、そして故郷の国がどれほど残酷な仕打ちを動物たちに行い続けているかを知った。『獣兵解放軍』は大日本帝国から盗み取った機密情報を幾つも持っていた。「獣兵研究所で撮影された」とされる、惨たらしい写真も何枚か見せてもらった。デイビッドはそれらの写真は、何百枚とある証拠の一部に過ぎないと話した。
青山は獣兵のことは知識として身に着けていた。学校で教えられるのは、特別な改造を受けた獣兵という兵器を我が国の軍が保有し、故に世界屈指の軍事力を誇っているということだった。獣兵という存在が如何に罪深い所業によって生まれ、獣兵を改良するためにその蛮行が何十年も繰り返されていることなど、青山はそれまでの人生で一度も考えようとしたことがなかった。
本来平等でなければならない、無垢な動物たちの命を大日本帝国軍は弄んでいる。その事実が許せなかった。レストランでデイビッドが真剣な眼差しで語った悲劇的な現実に、青山は涙した。
帰国後、獣兵解放思想にのめり込んだ彼を見限り彼女は離れていった。それでも青山は自分が間違っているとは思わなかった。決してその思想を彼女や家族に押し付けはしなかった。デイビッドはこの戦いに参加できるのは、真に信念を持つものだけだと語っていた。
大学卒業後、青山はデイビッドに渡された名刺を頼りに日本国内にある『獣兵解放軍』の支部を訪れた。支部の人たちは存外、あっさりと青山を歓迎した。デイビッドが青山のことを支部の人たちに話してくれていたのだ。デイビッドが自分を覚えてくれていたことに、青山は感動した。晴れて彼は『獣兵解放軍』の兵士となった。
表では会社員として働きながら、『獣兵解放軍』の一員として月に数度の集会に参加した。数年後のある日、デイビッドが率いる実動部隊が札幌獣兵研究所を襲撃する計画を立てていると知った。青山は迷わず北海道に渡り参加を申し出たが、戦闘訓練を受けていない彼は後援に回された。決して情けないとは思わなかった。身を挺して戦うデイビッドたちの代わりに、青山にしかできない役目があった。
計画に深く関わるにつれ、青山はこの国がとうとう獣人を完成させようとしていることを知った。軍隊経験者を含む、『獣兵解放軍』の主戦力ともいうべき世界中の仲間をかき集めてまで、デイビッドが札幌獣兵研究所の襲撃を立案した理由がわかった。この国は、とうとう越えてはならない一線を越えたのだ。人と獣のハイブリッドを創った。生命への冒涜だけではない。新たに生まれたその獣人は、いったいどんな人生を歩むというのだ。人として生きるのか、獣として生きるのか。
助けなければ。
かつて、ハワイのレストランでデイビッドが言ったのと同じセリフを、青山は無意識に口にするようになった。
この世に生を受けた全ての生き物は、自由に生きる権利がある。これは『獣兵解放軍』のモットーだった。例え人工的に創られたものだとしても、獣人にも自由に生きる権利がある。生き方を選ぶ権利がある。そのための『獣兵解放軍』なのだ。
三ヶ月前、札幌獣兵研究所襲撃の後、夕張で起きた日本軍との激突で部隊を率いていたデイビッドが死んだという報せを受けた。青山は泣かなかった。それよりもデイビッドが命がけで救い出した獣人の安否が、それだけが重要だった。悲しんでいる暇はなかった。デイビッドの意志を継ぐ時が来たのだ。
そして今日、青山は生涯で最も重要な任務にあたる。獣人を釧路から脱出させる難しい任務だが、必ず成功させてみせる。デイビッドに託された己が役目を果たすのだ。デイビッドにしか研究所襲撃を成し遂げられなかったように、この仕事は青山にしかできない。
さあ戦おう。『獣兵解放軍』の狼煙を上げるのだ!
「というのが、情報分析科が調べ上げた情報をもとに私が考えたシナリオなのですが……」
鍵原大尉はぞっとする笑みを浮かべ、小首を傾げた。
「何か、間違っていますか?」
レオこと、青山廉次は絶句した。
彼がゲイであり、ハワイにともに旅行したのはガールフレンドではなくボーイフレンドだったという点と、デイビッドと話し合ったのがレストランでなく蒸し暑い車の中だったこと以外、全てが的中していた。時系列や青山の心情まで、まるで鍵原が実際に体験してきたかのように事実と相違なかった。
青山が血の気の失せた顔で噤んだ沈黙から、答えを読み取ると、鍵原は勝ち誇るように口元を歪ませた。
「研究所襲撃から今日までの三ヶ月以内に市内の運送会社に就職した者のうち、フットワークの軽い独り身で、前科が無く、検問に引っかかりにくい日本人、そして海外渡航歴のある人物は二人しか居ませんでした。律儀に職安を通して就職したようですね?」
如何にして青山の計画が瓦解したかを、鍵原は簡単に語って聞かせた。青山の心拍は、急速に増していった。
「もう一人の容疑者は五時間前に別の検問を通り、取り調べの末、『獣兵解放軍』とは一切関わりのない一般人であると判明しました。……あとは、あなただけです」
刃物のような声で、鍵原は言った。
「我が軍の情報分析官を舐めるな」
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