第12話 脱出計画
時刻は午後二時を回ろうとしていた。
星が浦大通にあるとあるコンビニエンスストアーの前の道路に、一台の乗用車が停車した。車は左のウィンカーを三回点灯させた。雑誌コーナーで立ち読みの振りをしながらそれを目視した雲田は、物珍しそうに店内をうろうろしていたイリスを呼び、店を出た。
歩道に寄せて停めた車の運転席には、若い男が乗っていた。旅行バックを助手席に置き、イリスとともに後部座席に身を滑らせた。二人が乗車すると、男は後続車が無いことを確かめ、無言で発進した。
発進して間もなく男は口を開いた。
「あなたがフクロウですね?」
「そうだ」雲田は簡潔に答えた。
「僕は『獣兵解放軍』道東支部のレオです」
男はどう見ても日本人だった。レオとは、『獣兵解放軍』としてのコードネームだ。
レオは海岸通に差し掛かったところで右折し、絶えず行き来する大型トラックに紛れて新釧路川の方へ車を流した。彼は運転する際、几帳面なほど左右と前後をミラーで安全確認し、制限速度は決してオーバーしなかった。尾行車を警戒するのはもちろんのこと、違反や事故などで警察の厄介になることだけは避けなければならなかった。雲田とイリスは軍に追われる身であり、レオはテログループの一員だ。どちらもまだ顔が割れていないとはいえ、如何なる公的機関とも不要に関わるべきではない。
レオは二十代後半の好青年だった。整えた髪に清潔な身なり。テロリストのイメージとはかけ離れたごく平凡な一般人だ。もともと「獣兵に利用される不憫な動物を解放すること」、という極めて人道的倫理に基づいて結成された『獣兵解放軍』には、こうしたまともな人間が多い。
「ホテルでの一件は僕たちのもとにもすぐに情報が入ってきました。無事で本当に良かった」
「ああ、予定を狂わせてすまない。不測の事態があった」
「何があったんですか?」
携帯電話で話した際は、予定が早まったことと集合場所しか伝えていなかった。出来るだけ通話を短く済ませ、余計な情報を電波に乗せないためだ。
「私がこの子を迎えに行った時、ベッカムの秘密教会が摘発されていた。イリスを捕らえるためではなく、単にイレスト教徒を罰するために軍が秘密教会を訪れていたんだ」
バックミラーに映るレオの顔が悲愴に歪んだ。「なんてことだ」
本来ならば、『獣兵解放軍』と合流するのは明日のはずだった。秘密教会が摘発されていなければ、雲田は至って平和的にパーキンからイリスの護衛を引き継ぎ、ホテルでのんびり過ごす予定だったのだ。
「ベッカムは?」
レオがミラー越しに雲田を見た。雲田は隣のイリスを一瞥した。きょとんとするイリスと目を合わせながら、雲田は淡々と話した。
「軍に捕まったと思う。でも安心していい、せいぜい牢屋に入れられただけだ。教会に居た信者も子供たちも、きっと無事だ」
イリスが微かに顔を綻ばせ、ほっと胸を撫で下ろした。雲田は鋭い視線をレオに投げかけた。レオは察したように目を伏せ、言葉を吞み込んだ。
第27歩兵連隊の、特に第一中隊のやり口はレオも知っているはずだ。摘発された教会の信者がきっと無事でいる、なんてことはありえない。
だがそれを、イリスが知る必要はない。
イリスにとってパーキンとあの場に居た信者や子供たちは、短い間とはいえ彼女を匿い寝食をともにした者たちだ。彼らが悲惨な死を遂げたであろう事実を、獣人とはいえ十二歳やそこらの子供に伝える必要性や道理は、この世に微塵たりとも在ってはならない。少なくとも、雲田はそう考える。
「軍はイリスをベッカムの娘だと勘違いして捜索していた。ただ昨日ホテルに来た兵は、イリスの顔を見て知っていたんだ。だから戦闘になった」
「その兵たちは?」
「二人とも死んだ」
「なら一安心ですね……と言いたいところですが、我々と同じように情報を掴んだ札幌の軍が、こっちの軍に協力を要請してもおかしくない頃です」
雲田はヘッドレストに隠れて車の後ろを覗き、周囲の警戒を手伝った。尾行は無いが、時折軍用車が通り過ぎるとドキッとした。後ろを向いたまま雲田は言った。
「昨日までは良かったが、じゃあ今頃は釧路の連中もイリスの正体を掴んでるかもしれないってことか」
「そうです。ノーガードで検問をクリアするのは難しい」
不測の事態さえ無ければ、レオとともに釧路から離れ、北見に潜伏する『獣兵解放軍』の仲間と合流する手筈になっていた。北見に居る『獣兵解放軍』には、札幌獣兵研究所から脱出したイリスと同じ境遇の獣人が一人、匿われてもいた。
鉄北大橋を抜けても追手は居なかった。雲田は前を向いて座り直し、念のためイリスには顔を伏せさせておいた。レオは駒場通で左折し、頭に入れておいたルートを辿って慎重に走った。車窓を流れる町並みを、雲田は敵情視察でもするように眺めていた。
「どうやって釧路から出る?」
「もともと利用する予定だった、安全に移動できる方法があります」レオは自信ありげに即答した。「そのために、僕は三ヶ月前から釧路の運送会社で働いています。本物の戸籍を使って、正社員として入社しました」
「運送会社?」
身を隠すために膝枕に寝かせられていたイリスが、雲田の顔を見上げて尋ねた。
「うんそうがいしゃってなに?」
「後で話す。ちょっと黙ってて」
イリスがぷくぅと頬を膨らませるので、雲田はその頬をつまんで引っ張った。イリスがくすぐったそうに笑った。
用意していたセリフを読み上げるように、レオはすらすらと話した。
「夕張で本隊が壊滅し、獣人を方々で隠すことになってすぐ、各地の運送会社に仲間たちが潜り込みました。こういった際に、獣人や仲間を積み荷に紛れさせ、検問を逃れるためです。他にもタクシーやバスの運転手など、あらゆる手段で交通機関を利用できる手筈は済んでいます。もちろん、海運も」
『獣兵解放軍』の最たる武器とは、獣兵解放思想への共感者が国内外問わず相当数存在することだった。札幌獣兵研究所を襲撃した実動部隊に加え、レオやパーキンのように地方に身を置き必要に応じて動く伏兵や、資金援助するシンパがとにかく多い。『獣兵解放軍』の細胞は、仲間を助けるその時のために日本社会に紛れているのだ。
レオ自身、『獣兵解放軍』のために実際に行動へ移るのは初めてのはずだった。それなのに彼の抜け目の無さは素人のそれとは思えなかった。一般人を兵へと変貌させるほどに、彼が抱く獣兵解放思想は強く、本物の信念を抱いているのだった。仲間としてこれほど頼もしいことはなかった。
「お二人には積み荷とともに荷台に乗って貰います。運転手は僕です。北見へ向かう便を僕が担当できるように手は回しました」
「貨物は検問でチャックされないのか?」
「ほとんど難なくスルーしています。同僚が昨日検問を通りましたが、何もチェックされなかったそうです」
「ほとんどっていうのは?」
「イレスト教徒のリストに載っている運転手や、外国人は止められることがありますね。我々と関係なく、密輸が行われているのは日常茶飯事ですから……たまたま銃器や薬物を運ぼうとしていたトラックが見つかったりなどしているようです」
「本当に安全なんだろうな?」
雲田は念を押すように語気を尖らせた。レオは頷き、真剣な面持ちで続けた。
「貨物なら確実に安全、というわけではありません。ですので、我々は安全性を百パーセントに引き上げるために策を講じました」
レオは勿体つけず、護送計画の概要を口にした。迷いのない彼の態度は、確固たる自信に裏付けられていた。
「お二人に乗って頂くのは冷凍車です。検問は冷凍貨物を確実にスルーします。彼らの盲点を突くのです」
雲田はレオが自信満々に発した言葉を、再度頭の中で復唱した。
「なるほどな」
彼の意図をよく汲んだうえで、雲田は自分でも間抜けだと思うくらいに素直な感想を言った。
「それ、北見に着く前に、私たち凍え死なない?」
出発までの間、雲田とイリスは釧路市内のとある民家に身を置くこととなった。釧路在住の『獣兵解放軍』シンパが十年以上住んだ本物の住居であり、日本軍の捜査が及ぶ可能性は限りなく低かった。有事の際のために常に空けているという部屋を貸して貰った。
家主が夕食の調理に取り掛かっている間、借りた部屋で雲田とレオは打ち合わせに臨んだ。全てを理解するのは難しいと思われるが、一応、イリスにも同席させた。
「冷凍車の荷台はマイナス二十度以下に保たれます。お二人には、電気設備系の業務経験を持つ同志が製作した保温室の中で、釧路から出るまでの間辛抱していただきます」
レオはデジタルカメラで撮影した写真を、二人に見せた。ヒト二人がギリギリ入れるほどの四角形の金属製の箱が映っていた。内部は保温性素材のシートが張られ、蓋を被せて閉じる構造になっていた。蓋の鍵は内側にしか付いていない。
レオが十字ボタンを押すと、次の写真に移り変わった。箱の中に設置された電熱線と、送風機と思しきプロペラのアップを順に見せられた。
「こちらには電気ストーブと酸素供給装置が完備されています。少し窮屈だと思いますが、多少体勢を変えるほどのスペースはありますので我慢していただければ」
さらに次の写真に。発泡スチロール製の大きな箱を二つ重ねた写真が現れた。横に添えてあるメジャーを見るに、先ほどの保温室とほぼ同じサイズだった。
「保温室は鮮魚を入れた発泡スチロール箱にカモフラージュします。出社してまず、僕は市内の漁業会社に荷物を受け取りに行きます。そこでまず本物の荷物を積む。これと同じタイプの発泡スチロール箱を数十個。その後ルートを一旦外れて、仲間が待つ工場へ行きます。小さな金属加工会社の工場ですが、この時間帯は皆現場に出払っているので人目には付きません。クレーンもありますので、作業にはここが最適です。時間までに別の仲間が、用意した保温室を工場へ運びます。そして積み荷の一部を保温室とすり替えます。この際にお二人には防寒着を身に着けたうえで、保温室に入ってもらいます」
雲田はデジカメを借り、改めて『獣兵解放軍』手製の保温室の写真を見た。素人の工作レベルではない、プロが製作したものだとよくわかる。写真で見た限り粗は無い。発泡スチロールを保温室の外壁に貼り付けただけの擬態も、冷気が漂う薄暗い荷台の中では本物と見分けがつかないだろう。仮に検問で荷台までチェックされたとしても、見た目でバレることはなさそうだ。雲田もまさか、日本兵が冷凍の積み荷を一つ一つ開けて調べるとは考えていない。鮮度が命の商品ならば尚更だ。日本兵も、それくらいの社会的良識は持ち合わせている。
「内部に設置した小型のマイクとスピーカーで、運転席にいる僕と連絡が取れるようになっています。何かあった際はすぐにお伝えします」
「……積み荷のすり替えにかかる時間は?」雲田はデジカメに目を落としたまま訊いた。
レオは快活に答えた。
「三分以内に済みます。既に数十回シミュレーションを行っていますので、準備は完璧です」
「荷物を積む場所はあるのか?」
「冷やしても問題のない物でしたら、空の発泡スチロール箱を用意しているのでそちらに収納できます」
「わかった。保温室には拳銃だけ持ち込む。この狭さだとAKは邪魔にしかならないからな」
雲田はデジカメをレオに返した。
「データは消して、これも破棄しておくように」
「もちろん」レオは二人の顔を見回して言った。「先ほど話した通り、決行は明後日でよろしいですか?」
「うん。一日予定が早まったけど、そっちは大丈夫なの?」
「はい」レオは笑顔で力強く頷いた。いちいち仕草に活気が溢れている。「明後日の運送担当だった者の食事に毒を混ぜましたので、数日間は寝込みます。私が代行として当日の運転手を務めることになります」
「うわ、かわいそ」
「差し入れに解毒剤を混ぜましたので、すぐに回復しますよ。その頃には、お二人とも釧路にはいませんけどね」
「微妙にやさしい」
雲田とレオは再度、脱出計画に不備が無いかを念入りに話し合った。イリスは終始彼らが話していることがよくわからなかったが、レオと打ち合わせる雲田の真剣な横顔を眺めていると、胸に渦巻く不安が少し消えた。視線に気が付くと、雲田は意味も無くイリスの頭を撫でてから、また話に集中した。時々質問すると、雲田は邪見にせず答えてくれた。
「安心していい」
雲田はしきりにイリスにそう言った。
「私が守るから、君は何も心配しなくていい」
「……」
ぶっきらぼうな態度とか、荒い口調とか、顔とか背丈とか、一つも似ていないはずなのに、頭を撫でてくれる雲田のその手つきが、イリスにある人物のことを思い出させた。するとイリスの心は、眠りに落ちたくなるような安寧に包まれた。不思議と。
この数日間でイリスが目にしたのは、何もかもが初めての景色と場所だった。外の世界は、怖い物ばかりだった。黒い空に冷たい風、迫りくる狼、兵隊。しかしそれらからイリスを守る時、必ずそこに雲田が居た。
イリスの最も穏やかな記憶を呼び起こすのは、雲田の手のひらだけだった。懐かしいあの手の感触。研究所を離れ、秘密教会さえ追われた彼女にとって——恐ろしいモノばかりのこの世界で——雲田の傍に居ることが唯一の安らぎとなりつつあることに、イリスは徐々に自覚を持ち始めていた。
大日本帝国陸軍釧路基地
ホテル百人館の一件から丸二日が経った。
鍵原大尉のデスクにかかってきた電話を取ったのは、偶然にもその場に居た鍵原自身だった。受話器を取ると、聞こえてきたのは馴染みの部下の声だった。
「鍵原大尉ですか? どうも情報分析科の
「ええ、私ですよ。進捗はいかがですか? 伍長」
「それがですね、頼まれていた件が片付きました。間もなくデータがそちらのコンピュータに送られるはずです」
「それは良かった。ご苦労様です、疲れたでしょう」
「ええ、徹夜でしたからね。うちの連中も皆、今はぐっすり寝てます。久々に骨の折れる作業でした」
「一日休んでいいですよ。またすぐに呼び戻すかもしれませんが」
「ははは、全くそのまま伝えておきますよ。皆泣いて喜びます。……それでは簡単ではありますが、鍵原大尉には先に、分析結果を口頭でお伝えします」
微かに疲労を窺わせるその声が報告した内容に、鍵原は口をにやりとさせた。
「ご苦労様です、吉瀬伍長」
「お安い御用です」
「また力を借りることがあれば、連絡しますよ」
「いつでも仰せのままに、ボス」
鍵原は満足げに、受話器を置いた。
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