第11話 尋問室


 釧路市鳥取大通

 玉龍ぎょくりゅう鳥取店


 イリスを連れ、雲田は不整備な空き地を駐車場として備えたラーメン屋に入店した。

 玉龍鳥取店の暖簾と正面入り口は歩道に面しているが、裏手の駐車場からも出入りできる小さなドアがあった。鳥取北方面から徒歩で来た二人は、正面へ回らずにそのまま裏口から店に入った。

 平日の昼時前で、店内はまだ空いていた。右手の小上がりにテーブルが三組分、左手にカウンター席と厨房がある。小上がりの一番奥に若い男女のカップルがおり、あとは店主と店員の若い女性だけだった。カップルは裏口側の壁に設置してあるテレビを見ながら、時々言葉を交わしてラーメンを食べていた。

 テレビでは昨日、ホテル百人館で起きた銃撃戦について報じていた。雲田たちが離れてからおそらく三十分と経っていないであろう時刻の現場ホテルを外から撮影した映像が、ニュースキャスターが原稿を読み上げる声とともに流されていた。あれだけの騒ぎになれば流石の帝国軍でも隠蔽は間に合わず、ホテルの周囲には多くの報道陣と野次馬が集まっていた。

 現場を警備しているのは兵士で、警察はほとんど追い出された後だった。雲田はテロップにさっと目を通したが、兵の損害については触れられていない。車の上に落ちた兵——確か井平一等兵だったか——が死んだかどうか確かめたかったが、そう簡単に情報を教えてはくれないらしい。

「いらっしゃい」店主が雲田とイリスに声をかけた。「お好きな所へどうぞ」

 雲田はイリスとともにカウンターに座った。白い和帽子を被った店主は、頭髪が薄い六十代ほどの男だった。知らない顔だと判断した店主は、割り箸入れと壁の間に挟んであるラミネートされた紙を指し、メニュー表であることを教えてくれた。

 女の店員が二人分のお冷とおしぼりを運んでくれた。店員が去った後、雲田はカウンター越しに店主をちらっと見た。視線を感じた店主がこちらを振り向く。目が合うと、雲田は言った。

「今、西の空にフクロウが飛んでいるのを見ました」

 それは合言葉だった。注意深く観察していた雲田にしかわからないほどの一瞬の間、店主の顔に緊張が走った。すぐに店主は笑顔を取り戻し、歯を見せて言った。

「そうかい、俺は今朝、東の空に飛んでいるのを見かけたよ」

 合言葉が通じたことに安堵し、雲田は微笑した。

「醤油ラーメン、普通と小盛一つずつ」

「はいよ」

 店主が厨房で調理に取りかかる。イリスは雲田の顔を覗き込んで首を傾げていた。

「フクロウなんていた?」

「いや? いなかったけど」

「?」

 雲田は店内を見回し、壁に貼ってある特製ラーメンの広告写真を指さした。

「イリス、ラーメン食べたことある?」

「らーめん? ううん、ない」

「そっか」

 札幌獣兵研究所で生まれたイリスは、これまでの十二年間を施設内で育った。捕虜や囚人以上に人間として扱われてこなかった彼女には、与えられる食事の種類も限られていた。

 施設を脱出して以降は『獣兵解放軍』の者や、釧路で匿っていたパーキンが色々と食の楽しさを教えていたらしいが、まだラーメンは手付かずだったようだ。一応、箸の使い方を覚えていることはこの二日を過ごしてわかっていた。

「小盛にしたけど、もし食べられなかったら無理しなくていいよ。私が食べる」

「ラーメンってどんな味?」

「うーん。食べればわかるよ」

 未知の食事を前に、イリスはわくわくと期待を膨らませた。この二日で雲田が知ったのは、イリスは好奇心が強い少女ということだった。生誕以来研究施設で過ごし続けてきた彼女にとって外の世界は何もかもが未知のもので、興味深く不思議な景色ばかりだったに違いない。ショッピングモールで時間をやり過ごしていた際も、目まぐるしいほどの物量と彩色に目を輝かせては「あれは何」、「あれは?」と雲田に尋ねてきたものだ。

 ラーメンは数分で出てきた。店主が正面から、カウンター越しに器を置いた。

「お待ちどう」

 雲田の前に器を置いた直後、店主が別人のように声のトーンを落として言った。厨房にいる女店員にも聞こえないような囁き声だった。

「予定よりも一日早いな」

 雲田も低い声で答えた。「トラブルがあった。ベッカムは捕まった」

「なんてことだ」音に出さず店主は舌打ちした。

 カウンター席の後ろ、小上がり側にあるテレビへ店主が視線を投げる。

「あの騒ぎはあんたか?」

「ああ」

「大丈夫なんだろうな」

「追手は振り切った。ここに迷惑はかからないよ」

 小さな声で囁き合う雲田と店主を、イリスは頭に疑問符を浮かべて不思議そうに眺めていた。

 店主は一度手を引っ込め、小さな器に入れたイリス用のラーメンを持ってきた。

「はい、どうぞ」

 器に添えた一方の手に、妙に膨らんだおしぼりが握られていた。器とともに、店主はおしぼりをテーブルに置いた。雲田は素早くおしぼりを手に取り、コートのポケットに滑り込ませた。ラーメンに目を奪われていたイリスは、そのことに全く気が付かなかった。

「食べていい?」待ちきれない様子でイリスが言った。

「いいよ」

 隠し切れない期待の笑みを滲ませ、いざ手に取った割り箸をイリスは盛大に割り損じた。半分ほどの長さの虚しい箸とやけに持ち手の大きな箸のセットが出来上がった。

「……」

「下手くそ」

 口角を上げたまま固まるイリスに、雲田は新しい箸を綺麗に割って持たせた。

「熱いからゆっくり食べなよ」

「うんっ」

 雲田がイリスに食べ方を教えるその脇で、店主がこちらを眺めていた。洗い物に集中している店員や、カップルは当然気に留めない。店主が何気なく歩み寄り、小声で尋ねた。

「その子が……あの子なのかい?」

 イリスを片手間に世話しながら雲田は答えた。

「そうだよ」

「フクロウが君のような子供だとは、思いもしなかったよ」

「でしょ? きっと軍も同じだよ」

「あちっ」

「ほら冷ましてから食べなって」

 初めてのラーメンにチャレンジするイリスを、雲田は微笑して眺めていた。肩をすくめ、雲田は自嘲っぽく鼻を鳴らして店主に言った。

「それに、私も本当はフクロウじゃない。代理人だよ」

「……どういうことだ?」

 雲田は自分のラーメンに手を付け始めた。汁の熱さに苦戦するイリスの横で、雲田はその熱ごとかぶりつくように麺を啜った。湯気を浴びて湿った鼻を指で拭い、雲田は柔らかい口調で言った。

「知らない方があなたのためだよ」

「……」

 湯気の薄白いカーテンを通してちらっと覗き見た店主の顔は、厳しく口を噤んでいた。彼は『獣兵解放軍』の協力者だった。イレスト教徒ではないが、獣兵解放思想に共感し、陰ながら構成員の『伝書鳩』、あるいは『ロッカー』として経営するこの店を利用していた。今日、雲田が玉龍を訪れたのは『ロッカー』としての要件だった。

「……無事に逃げられるといいな」

「うん。それくらいにしておくのが良いよ。これ以上は関わるな」

 彼はあくまでも、微々たる協力者という立場に留まらなければならない。長年この地で『獣兵解放軍』を補佐してきた彼は、そのことを重々承知していた。深く関与したばかりに軍に捕まった者たちを、何人も見てきたからだ。

「ありがとう」雲田は不愛想に、しかし本心から礼を告げた。

「……ああ」

 充分だ。敵地のど真ん中で、ほんの少しでも手助けしてくれただけで、おびただしい数の敵と一人で戦っているわけではないのだと思うことができて……雲田にとってはそれだけでありがたかった。

 実際、彼の『ロッカー』失くしては、雲田たちは次へ進めなかった。

 熱気で汗をかきながら、慣れない手つきで麺を啜るイリスの横顔に雲田は訊いてみた。

「美味しい?」

 イリスは笑顔で頷いた。

「うん、美味しい!」

 器を持ち上げて汁を飲み干し、唇についた脂を舐めて雲田は微笑んだ。

「そうだね。美味しいね、また来たいくらい」

 それがもう二度とここに来ないことを意味していると、店主は理解していた。

 会計を済ませ、雲田とイリスは再び裏口を通って外に出た。玉龍から離れ、西方面へ暫く歩いた。雲田は周囲を見回し、後をつける者や捜索中の兵がいないことを確かめた。イリスを立ち止まらせ、雲田はコートのポケットから先ほど玉龍の店主から受け取ったおしぼりを出した。

 イリスがきょとんとして雲田の手にあるおしぼりを覗き込む。店主がこれを持っていたことに本当に気が付いていなかったらしい。

「それなに?」

 おしぼりに包まれていたのは、ラップを何重にも巻かれた手のひらサイズの物体だった。雲田は爪でラップを引っ搔いて破き、厳重に保護されていた携帯電話を取り出した。

「ラーメンのおまけだよ」

「?」

 ボタンを押すと、携帯電話はスムーズに電源を起動した。雲田は大量に登録されたダミーのアドレスから目当ての一つを見つけ出し、決定ボタンをプッシュしてコールをかけた。

「次のステップだ、イリス。釧路を抜け出すぞ」

 イリスはまだよくわからなさそうな顔をしていたが、この子はそれくらいでいいのかもしれないと雲田は思った。もっと、玉龍のラーメンを夢中で食べていた時みたいに無邪気な子供で居た方が、本来彼女に相応しい姿のはずなのだ。

 電話を耳に当てながらも、雲田は警戒を怠らなかった。五コール待つと、相手が電話に出た。相手が喋るよりも早く、雲田は告げた。

「フクロウだ。予定を早めて欲しい」

 常に釧路市内の情報を収集しているであろう先方は当然、昨日のホテル百人館の出来事を承知していた。電話先にいる『獣兵解放軍』の構成員は、二つ返事で即答した。

「了解した、同志よ」

 雲田の顔には、獣に似た厳しさが蘇り始めていた。



 大日本帝国陸軍釧路基地


 尋問室へ向かう廊下の途中、鍵原は前方から歩いてきた草薙陸軍曹長と遭遇した。

「お、鍵原大尉」

 白衣を着た草薙曹長は、あまり手入れをされていなさそうな癖のある髪をした三十路前後の女だった。鍵原とは釧路基地に配属される以前から十年以上の長い付き合いがあり、実戦経験のある軍医だった。

 大きな黒縁の眼鏡をかけていて、本当は160センチある身長もここ数年の温室生活の所為で身に付いた猫背により、実際より小さく見えてしまう。上官相手でも怖じ気ず飄々とした振る舞いと、顔にあるそばかすが草薙の容姿を若く誤認させていた。

 草薙は鍵原のもとまで駆け足した。

「ちょうど今、大尉の所に行こうと思ってたんすよ」

 鍵原の知る草薙軍医は、現在の姿とは似ても似つかない。戦場に立つ彼女は邪魔という理由だけで躊躇いなく頭を丸め、治療中に血飛沫を浴びてもいいように常にゴーグルを付けていた。仲間の命を守るためなら躊躇いなくその手足を切り落とし、助からないと判断すれば即座にトドメを刺して苦痛から解放する、残酷なまでに合理性を追求した優秀な医者で兵士だった。

 何度も人体が死にゆく様に触れた草薙は、どうすれば人が苦しみどうすれば死ぬのかを熟知するようになっていった。救命を極めた末に彼女が開花させたのは、皮肉にも人を苦しませ嘘偽りを暴き出す拷問の技術だった。草薙の拷問官としての才覚を見出したのは、他ならぬ鍵原だった。

 草薙が戦場に立てなくなったのは、閃光弾を浴びて視力が低下したからだった。そして今の彼女の顔にあるそばかすは、実は生来のものではなく間近で炸裂した爆弾の黒い火薬が皮膚の内部に散らばったものだった。かつての戦場で見た冷血な軍医と現在の草薙が同一人物であると瞬時にわかる兵は、この基地には鍵原しか居なかった。容姿も雰囲気も、当時とはまるで異なった。

「私も尋問室に行くところでした」

「やっぱり? そろそろかなって思ってました~」

 草薙は特に鍵原に対しては遠慮がなかった。鍵原にとっても草薙は心から信頼を置ける数少ない部下の一人だった。

 近くにお堅い佐渡曹長が居ないことをチェックし、草薙は白衣のポケットに手を入れてよりラフな態度になった。鍵原に身を寄せると、草薙は耳打ちした。

「あの神父、吐きましたよ」

「ほう」

 草薙が誇らしげににやっと笑うと、釧路基地配属以来、彼女が自分の体の中で最も清潔にしていると言ってもいい白く綺麗に並んだ歯が覗いた。が、その白い歯の間から発する声は、火薬で喉を焼かれた後遺症により低くしゃがれていた。見た目だけでなく声まで、草薙は別人になっていたのだ。

 もはやかつての草薙との類似点を見つけることの方が難しいが、真の彼女を思い出すのが実は簡単であることを鍵原は承知していた。表向きには尋問室と名付けられている完全防音の密室で拷問に臨む彼女の嬉々とした狂気のダンスを拝めばすぐに、戦場で血にまみれて過ごした在りし日の草薙と再会することができた。

 草薙は肩をすくめて滑稽そうに言った。

「あの神父、問いに答えないたびにガキを殺す映像を見せたら目に見えてヨボヨボになっていきましてね? ハハハ、一晩中続けたら夜明け頃には心がポッキリ折れてましたよ」傑作とでも言いたげに草薙は手を叩く。「気の毒な奴だ、映像は中継でなく、とっくの昔に死んだ他人のガキだっていうのに。イレスト教徒っていうのは本当にわからないもんですね。体を痛めつけるよりも、目の前でガキを殺す方が効くんだから」

 鍵原は草薙と肩を並べ、拷問室へ歩いた。草薙が周囲をはばかりながら、しゃがれ声のボリュームを下げて収穫を報告した。

「それで、ですね。鬱になったあいつから苦労して聞き出しました。秘密教会から逃げたのは、実はあいつの娘ではなく札幌獣兵研究所から脱走した獣人だそうです。パーキンは『獣兵解放軍』と繋がっていて、逃がした獣人のうち一匹を匿っていたんですよ」

「ええ、ベッカムというコードネームを使用していたんですよね」

 草薙は目を丸くし、まじまじと鍵原を見た。

「知ってたんですか?」

「つい先ほど、智東中佐よりお電話がありましてね。パーキンのことも承知していました。イリスという獣人を生きたまま捕獲するよう、要請を受けたのです」

「智東中佐……ああ、札幌のね。研究所担当はあの人だったか」

 草薙は腕を組み、ため息を吐いた。

「なーんだ。苦労して吐かせたのに、骨折り損か」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。よくやってくれました。彼の信仰心を折ることもまた、我々の重要な任務です」

「同じことあのクソ神父に聞かせてやってくださいよ。本当に自分が吐かない所為でガキが死んだと思い込んでるから、話し損だと知ったら気が狂うでしょうねぇ」

 草薙の仕事場である尋問室のドアが見えてきた。ベッカムことジェイク・パーキンは、実に二十四時間ものあいだ草薙の厳しい拷問に耐え抜いたのだ。俄かには信じ難いが、事情を知った今ならば納得がいった。パーキンは敬虔な信者であると同時に、『獣兵解放軍』の兵士でもあったのだ。信仰心と兵士としての矜持が、彼の意志を確たるものとしていたのだ。

『獣兵解放軍』は侮れない。ただの癇癪で動くテロリストとは、やはり一線を画す組織だ。鍵原は彼らへの認識を改めなければならなかった。彼らの決意は固い。軍を名乗るだけのことはあるわけだ。

 しかしまだ、鍵原には納得できない点があった。これは経験則ではなく、統計的な考えだった。いくら彼らの獣兵解放思想や意志が強いものだったとしても、物理的な戦力差を超越することはできない。彼らが行うテロ行為とは、獣兵移送車の足止めや獣兵師訓練所への脅迫、獣兵舎の破壊など、貧乏臭い嫌がらせの域を出ないものがほとんどだった。国の主要研究施設の襲撃をいきなり成功させ得るほどの技術も武器も、彼らにはないはずだった。

 ケチなテロ組織に過ぎなかった『獣兵解放軍』が、突然立派な武装組織へと変貌したことに違和感を抱かずにはいられなかった。

 本当に、彼らだけで智東中佐を出し抜けたというのか? 『獣兵解放軍』のバックには、何かがいるのではないか?

 尋問室の前に着いた。中には意気消沈したパーキンが、まだ虫の息で生きているという。鍵原の思慮を遮るように、草薙の声が耳に入った。

「じゃあ、獣人を秘密教会から逃がした敵のことも聞いてます?」

 鍵原は一旦考えるのをやめ、草薙と目を合わせた。

「いえ、智東中佐もそこまでは掴んでいませんでした。『獣兵解放軍』の一味と思われますが……」

「あ、そうだったんすか。良かった、骨折り損じゃなくて」

 草薙がほっとするように笑い、眩しい白い歯を見せた。草薙は尋問室のドアを親指でさし、180センチある上官の顔を仰いで言った。

「もうほとんど廃人になりかけてたんで、断片的でしたけどちゃんと聞き出しました。秘密教会に迎えに来る予定だったのは、『獣兵解放軍』が雇った傭兵だそうです。外部のプロですね。それも単独。八島軍曹を殺るほどです、相当な腕だ」

 イリスとともに居たのは一人だけ、という井平の証言と一致する。ホテル百人館にいたのはイリスと、八島殺しの犯人で確定と見てよさそうだ。パズルのピースが揃い始めたな、と鍵原はほくそ笑んだ。

「雇った傭兵についてはパーキンも詳細を知りません、これは確実です。ガキの処刑映像を見せても、知らないの一点張りだった。本当に知らないんだ」

 尋問室のドアを開け、草薙は中へ入った。鍵原が後へ続くと、複数のモニターや録音機器が置かれた監視室がまずあり、椅子に座っていた兵が立ち上がって鍵原に敬礼した。兵が見ていたのは、大きなマジックミラーの向こうにいるパーキンだった。拘束椅子に座らされたパーキンは魂が抜けたように茫然としていた。マジックミラーの隣には幾つも錠がかけられた分厚い鉄扉があり、爆発物でも用いない限り中にいる人物が脱出することは不可能だった。草薙の拷問の過程で皮膚を焼かれたパーキンは頭髪を全て失い、ますます別人になっていた。彼の周りにあるテーブルには、バリエーションに富んだ拷問器具が並んでいた。

 草薙が録音機器を顎で指した。

「録音してあるんで、聞きますか? 歯もだいぶ抜いたんで、聞き取りづらいですけど」

「いえ、結構です」

「そうっすか。まぁ、さっき私が言った通りの内容ですからね。傭兵については何も知らない。一応コードネームみたいなものはあったけど、どうせ今回限りの使い捨ての名前だ。調べたところでデータベースにある傭兵にヒットするかは、期待できないでしょう。一応調べてもいいですけどね」

 ずり下がった眼鏡の縁を指で押し上げ、草薙は言った。

「パーキンは、傭兵を雲田刀子と呼んでいました」

 草薙は悲惨な姿のパーキンを鼻で嘲笑し、鍵原を振り向いた。

「ご立派な名前ですね、刀子だって。山狩りオオカミは刀か何かで斬殺されてたんですよね? 名を体で表すとは……」

 草薙は瞠目し、言葉を失った。草薙だけでなく、ともに室内にいた兵も同じものを見て青ざめていた。

「……鍵原大尉……?」

 どんな惨状にも眉一つ動かさず、むしろ嬉々として拷問を行う草薙が、それ以上にこの世のものでないモノを目にしたかのように愕然としていた。吐き気すら催す悪寒が全身を駆け抜けるのを、草薙は感じた。

 初めて見たのだ。

 鍵原の顔から、笑みが消えていた。

 いつだって、戦場に居てさえあの柔らかく、不気味なほどに穏やかな微笑を絶やさなかった鍵原の顔から、感情の一切が消え失せていたのだ。

 鍵原がいつの間にか退室して、別の誰かが入れ替わったのかと思った。しかしこの巨躯を持つ女将校は、鍵原大尉以外に居ない。それは間違いなく鍵原で、だからこそ草薙は信じられなかった。

 微笑の仮面が消えた鍵原は、機械のように無表情だった。普段はキツネのように細めている目が大きく見開かれ、額には血管がくっきりと浮かび上がっていた。

「雲田……刀子……そう、言ったのですか……?」

 声だけはいつもの鍵原だった。草薙は「はい」と答えようとしたが、いつも以上に渇いた喉からは声が出なくて、頷くだけで精一杯だった。

「そうですか……」

 草薙とその部下は、奇妙な体験をした。

 無風であるはずの屋内で、その時の鍵原の三つ編みに結んだ髪が扇がれるように揺らめいていたのだ。

「雲田……ですか」

 鍵原が歯を剝き出し、笑った。笑顔は笑顔でも、鍵原をよく知る草薙でさえ初めて見るタイプの笑顔だった。露出した犬歯は尋常より鋭く大きく、いっそ獣のそれに似ていた。

 素顔の彼女が見せた心の底からの笑みは、顔に刻まれた創をより鮮明に浮かび上がらせていた。彼女の中にある何かが、その傷口から漏れ出そうとするかのように。それを、必死に抑えようとするかのように。


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