第10話 獣人
釧路市昭和中央
北海道釧路通商高等学校
埃の被った棚の裏にある、もう何年と開けられていないであろう蜘蛛の巣まみれの窓から朝日が差し込んだ。浅くヒビ割れたコンクリートの床の黒ずんだ汚れや、大気中を舞う埃がはっきりと見えた。
倉庫の中にある運動用具はどれも年期が入っており、唯一陸上競技用のハードルだけが新品だった。ざっと目を通した限りでも普段使われる頻度は明白で、ほぼ毎日使用する道具には土や砂が付き、出口の近くに置いてある。何十分もかけて手前にある物をどかさなければ手が届かないような、倉庫の奥や棚の一番上に置かれた道具は埃と蜘蛛の巣にまみれ、もう何年も存在さえ忘れ去られている。壁際に転がったボールは空気が抜けて凹み、色褪せた上からさらに埃を被って真っ白になっていた。入った時には日が暮れていたので、お世辞にも整頓されているとは言えない倉庫の有様には気が付かなかった。
雲田刀子とイリスが身を寄せたのは、高等学校のグラウンドにある倉庫だった。昨日ホテルから逃げた後、暫く滞在していたショッピングモールのすぐ傍にある学校だ。
ホテル百人館で銃撃戦を繰り広げてしまった以上、同じようにホテルに宿泊するのは危険だ。だからと言って野宿は逆に目立つ。雲田が選んだ苦肉の策が、夜が更け運動部が去った後の学校の倉庫で夜を過ごすことだった。
倉庫は校舎ほど警備が厳重ではない。防犯センサーも設置されていないことが多く、厚いドアのわりに鍵は一つしかない。一晩寝床にするだけなので、雲田は遠慮なく鍵を壊して中に入った。
雲田は大量のサッカーボールが入れられた鉄製のボールカゴに寄りかかり、片膝を立てて座っていた。肩にはAK-47を立てかけ、何が起きても対応できるよう備えていた。刀はすぐ傍に置いてある。宿泊するホテルにたまたま兵が訪れるという最悪の偶然がこの用具倉庫で再発するとは考えられなかったが、油断は許されなかった。
早朝の鳥のさえずりを聞き、雲田は潮時だと考えた。用務員や熱心な教職員なら、もうじき出勤してもおかしくない。
雲田は隣へ目をやった。旅行バックを枕にしてイリスが寝ていた。ロッジから逃げた夜とは違い、すやすやと安らかに寝息を立てていた。
ショッピングモールで過ごしている最中に、イリスにはその前夜分の睡眠をとってもらった。倉庫に入ってから、雲田は二時間ほど休んだ。ショートスリーパーの雲田も、流石に二十四時間不眠でいると運動能力や判断力に鈍りが生じる。何かあればすぐに起こすようにイリスにはきつく言い聞かせていた。それからまた、イリスを寝かせた。
続け様に軍から命を狙われるイリスの心労は凄まじいものがあった。昨夜も寝付くまでかなり時間がかかった。イリスが安心できるように、雲田は傍で鼻歌を歌った。
雲田はイリスの寝顔を覗き込んだ。起こすのが申し訳ないほど穏やかな顔で寝ていた。下は固いコンクリートで、布団代わりに被せられたのは雲田のコートで、快適とは程遠い寝床だったが、そこで眠るイリスはこの一日と少しの間で最も安心した顔をしていた。
雲田は微笑していることに自覚が無かった。起こす前に、イリスのその平和な寝顔に手を伸ばし、頬を撫でた。小さなその子は、一見ただの普通の女の子だった。しかしある場所に視線を移した時、雲田は微かに険しい顔をした。
雲田はそこに手を触れた。柔らかい羽毛を纏ったその部位は、イリスの耳だった。
イリスの耳は鳥の羽によく似た羽毛に覆われていた。髪と同じ茶色で、先端が少し黒かった。
それは彼女に人だけでなく、獣の遺伝子が含まれていることの証拠だった。
帝国軍の最も罪深い過ちによって生まれた人間と獣のハイブリッド、『獣人』の肉体にのみ現れる特性だ。
少女の異形の耳の感触は、人の体にあるはずのないものだった。しかし息づく体温は、間違いなく少女自身のものだった。イリスを見つめる雲田の顔は、何かに憤るように唇を嚙んでいた。
大日本帝国陸軍釧路基地
「札幌獣兵研究所では、長年の血の滲む努力により数体の獣人の完成体を生むことに成功していた。しかし『獣兵解放軍』によって、その貴重な成功体のうち五体もの獣人が持ち出されてしまったのだよ」
「ほう、それは一大事ですね」
第27歩兵連隊のオフィスの一角で、電話による鍵原と智東の秘密の情報交換は続けられていた。
獣人兵の研究は噂程度にしか聞いたことがないが、ごく一般に認知されている程度のことなら鍵原も把握している。帝国は戦時中から、ずっと獣人兵の開発を目指してきた。そもそも、戦時中に軍事政権を発足し、当時の帝王を含めた王族を全員処刑することで信仰と倫理の棄却を全世界に宣言したのは、人間と獣を融合した新種族を発明することへの弊害を失くすためだった。
結果的に戦時中に獣人兵を完成させるには至らなかったものの、国交回復後は海外からも研究者を募り、度々国際社会の批判を受けながらも研究は継続されてきた。というのが国外にまで周知された帝国の獣人兵研究の現状である。
軍人の観点からすると、獣人兵とはつまり獣兵と獣兵師を一つに集約した存在だ。一個中隊を纏め上げる鍵原大尉にとって、獣兵にかかる膨大な兵站と獣兵師を育てる時間を考えると、獣人兵は全てのコストを半分以下に削る魅力的な兵器だった。
聞いた限り実戦段階までは至らないようだが、ようやく完成したかと鍵原は内心ほくそ笑み、実際その顔にも本音の微笑が漏れていた。是非とも退役するまでに一度は部下として従えたいものだと、鍵原は夢想した。
「施設の警備を任されていただけにね、俺はそこら辺の事情を詳しく知っていたんだ。もともと軍の施設だからな、俺は管理者の一人だった。だからそれはもう慌てたさ。即座に奪還部隊を編成し、『獣兵解放軍』を追い詰めたよ」
「流石の対応力です、中佐」
鍵原が獣人兵を従える未来を妄想し意気揚々とする一方、智東中佐は情けない嘆息を吐き出していた。
「ああ、まぁ奴らを追い詰めて襲撃の主犯たちを潰すことはできたんだがなぁ……肝心の獣人がねぇ……」
「夕張で一晩続いた銃撃戦ですね?」
「そうだ、俺の部隊だったんだよ、あの時『獣兵解放軍』と戦っていたのは」
札幌から逃走中だった『獣兵解放軍』と日本軍が衝突したことは、テレビや新聞でも大々的に報道されていた。まさかそこに獣人が絡んでいようとは、鍵原も思いもしなかったわけだが。
「それで、奪われたブツはどうなさったんでしょう?」オフィスにいる部下に内容を悟られぬよう、鍵原は獣人というワードは控えた。
その先の展開にはだいたい想像がつくが、鍵原は敢えて智東に喋らせた。智東は軍人としては優秀だが特別頭が良い人物ではないので、うっかり何か口を滑らせてくれるかもしれないと期待したのだ。
「一体は奪還に成功した。しかし一体は流れ弾に倒れ、もう三体は取り逃がしてしまった。もちろん我々は追跡したが、『獣兵解放軍』の連中は、軍にマークされていない協力者に三体の獣人を別々に匿わせたんだ。『獣兵解放軍』の主力部隊は殲滅できたが、肝心の親玉が自決した所為で獣人を誰に預けたのかわからなくなってしまった。持ち出された三体の獣人は、道内のどこかにいるはずなんだ。港と空港は監視しているからな、まだどこへも逃げていないことは間違いない」
無駄な努力だと鍵原は思った。刹那的とはいえ軍隊と渡り合うほど武器を持ち込んだテロリストを見逃したというのに、どうしてたった三体しかいない獣人を逃がさないと言い切れるのか。どれだけ注意深く警戒を払っていようと、プロは軍の監視など容易に凌ぐ。潜入捜査官としての経験を持つ鍵原にはわかる。智東が思うほど、この国の玄関は上等な錠前を付けていない。
「血眼になって捕らえた構成員を拷問して、ようやくベッカム……ジェイク・パーキンというイレスト教神父が、イリスという名の獣人を隠していることが判明した。鍵原大尉が彼の教会にガサを入れるほんの数時間前のことだよ」
「なるほど、そういうことでしたか」
危うく貴重な研究成果を射殺してしまうところだったわけだ。偶然とはいえ、イリスなる獣人を撃ち損じてくれた井平一等兵には特別な労いをしてやらねばいけなさそうだ。もっとも、本人は今死にかけて意識不明だが。
「本当に良かったよ! 獣人を殺さずにいてくれて!」智東は電話の向こうで大笑いした。うるさいので鍵原は受話器を耳から離した。「残りの二体も目下捜索中だが、ようやく姿を捉えることができたのは釧路にいる獣人が初めてだ!」
獣人の保護が『獣兵解放軍』の目的だとしたら、同じ地方に匿うことはしないだろう。残り二体は釧路とは違う場所にいるか、あるいは既に国外だ。
鍵原の脳は既に、獣人奪還という新たな任務のために猛回転していた。イリスはもちろん、他の獣人にも関心があった。もし獣人奪還の功績を上げることができれば、獣人兵の兵器正式採用時に鍵原のもとに回してくれる分の獣人兵を、中央に要請し易くなる。要は札幌研究所と、一連の騒ぎで慌てふためいているであろう東京の参謀本部に恩を売るのだ。
「大変興味深いお話です。確かにイレスト教徒ならば『獣兵解放軍』の思想に賛同しても不思議はないでしょう。偶然にもブツを隠していたパーキンの秘密教会に、偶然にも我々が宗教取り締まりで訪れたわけですか。パーキンにとっては寝耳に水だったでしょうね」
「まったくだ。冷や冷やしたね、鍵原大尉なら皆殺しが基本だから。正直釧路にいた獣人は駄目だと思って電話したよ」
「恐縮です」
その割に軽口が減らないのは、この件の責任を負わされることに一切怯えていない智東の性格の現れだった。電話を寄越してきたのがこの男で良かったと鍵原は思った。ほかの将校だったなら、プレッシャーによるストレスでまともな判断力を損なっていただろう。電話越しに無駄なパワハラと怒声を浴びずに済んだ。鍵原といえども、上官を始末するのは手間がかかる。
「鍵原大尉」
「はい」
「こちらの部隊をそちらに派遣する。俺も近々向かう予定だが、獣人イリスの捕獲は君の中隊に任せる」
釧路基地で獣人の件を知っているのは、たった今智東から協力要請を受けた鍵原だけである。獣人は存在そのものが機密であるため、どれだけ階級が上の者であろうと、いたずらに周知させておく必要はない。上官には今まで通りイレスト教徒の娘と同伴者を追うと報告し、水面下で智東と連携を取る。ややこしいことは智東が片付けてくれるだろう。パーキンの教会を摘発したのが鍵原だったということはもちろんだが、智東が鍵原に獣人の詳細を打ち明け、協力を求めたのは偏に彼女を信頼しているからだった。
ここからは秘密の作戦だ。なに、鍵原にとってはいつもやっていることと大して変わらなかった。上官に断らず部隊を動かすことなど日常茶飯事だ。そして鍵原を堂々と咎められるほど優秀な将校は、この基地に居ない。
智東は何かで喉を潤してから言った。鍵原も珈琲を啜った。
「派遣は間に合わないだろう。事は急を要する。また姿を隠されてしまう前に、何としても獣人を取り戻せ」
「もちろんです、智東中佐」
「尻拭いをさせるようですまないがね、鍵原大尉だから頼むんだ。期待するぞ」
智東の軍人としての、実に純粋な激励だった。鍵原が女だからといって何の下心も忖度も介在させない、透明で狂気的な兵士同士の信頼の証だ。鍵原にとって、彼は希少な『生かしておいてもいい上官』だった。
熱湯のまま珈琲を飲み干し、鍵原はカップとソーサーをカチャンと鳴らした。
「必ずや私の隊が少女を取り戻し、中佐のもとへ送り届けます。約束致しましょう」
鍵原大尉の兵士という名の獣の目は、獲物を見据えたが如く鋭利に研がれていた。
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