第9話 通信傍受防止回線
西暦二〇〇〇年
大日本帝国
北海道釧路 大日本帝国陸軍釧路基地
井平一等兵と今藤上等兵がホテル百人館で少女を見つけ、少女とともに居た傭兵と思われる人物に返り討ちに遭ってから二十時間が経過していた。鍵原風美大尉は、朝早くから情報収集に奔走していた。
逃走中の少女がパーキンの娘でないことがわかり、足での捜査はほとんど意味がないものになってしまった。ターゲットの姿が不明瞭になり、一刻も早くパーキンの口を割らせることが急務だった。
しかし収穫もある。井平が少女と行動をともにする何者かについて、気絶する前に証言を残したのだ。その場にいた淀川一等兵と葛木一等兵が聞いていた。敵は一人、それも若い女だという。
戦闘まで発展したホテルの部屋を調べた限り、井平の言う通り犯人は単独だった。森を出てから仲間と別れたのかもしれないし、もともと単独だったのかもしれない。その点はまだ判断材料が足りないが、どうにか一命を取り留めた井平が目を覚ませばもっと詳しいことを聞けるだろう。今、鍵原が手にしている手掛かりは井平だけだった。
「鍵原大尉」
今なお拷問に耐えるパーキンの様子を見に行こうと、尋問室を目指し一人で廊下を歩いていた鍵原を、佐渡曹長が呼び止めた。声に振り向くと、廊下を駆け足する佐渡がいた。
「どうかしましたか、佐渡曹長」
「は。第11旅団の
「11旅団、ですか?」
「はい」
佐渡も少々困惑気味だった。
第11旅団は陸軍札幌市真駒内基地に司令部を置く旅団だ。同じ北部方面隊所属の将校同士だが、智東中佐と鍵原は密に連絡を取り合うほどの仲ではない。むしろ最後に会ったのは三年近く前だ。
鍵原は智東の要件について記憶を探ってみたが、心当たりはなかった。法律すれすれのことならいつもやっているが、それを咎めるのは智東の仕事ではない。彼は鍵原と同じ現場屋の将校で、どちらかと言えば取り締まるよりも際どいことを率先してやるタイプだ。
まあいい、要件は聞けばわかるだろう。鍵原は尋問室へ背を向け、踵を返した。
「わかりました。すぐに行きます」
オフィスに到着した鍵原は久々に自分のデスクへ行き、通信傍受防止回線にかかってきた智東中佐からの呼び出しに応えた。オフィスは業務に追われる部下が右往左往していたが、電話に支障を来たすほどの喧騒ではない。むしろこれくらい騒がしい方が、通話の内容を盗み聞きされずに済んで助かるくらいだった。
「お待たせ致しました。鍵原大尉であります」
電話越しであろうとも、鍵原は笑顔を絶やさなかった。すぐに男の低い声が受話器に応答してきた。
「智東だ。久しぶりだな、鍵原」
「お久しぶりです」
含み笑いして智東は言った。
「活躍ぶりは聞いているよ。仏教徒は君の中隊を恐れて釧路から根室へ逃げたそうじゃないか」
「いえいえ、まだ隠れた教徒たちは居ますよ。それを炙り出すのが私の仕事です」
鍵原の蛮行と呼ぶに等しい宗教家の強硬的な処刑は、北部方面隊では半ば黙認されている。定期的に監査が入るが、鍵原が違法な取り締まりを行っている証拠はない。実際、鍵原は明確な違法行為は部下に命じておらず、ギリギリ白に近いグレーゾーンに留まっている。北海道には、そんな鍵原のやり口を真似る将校もいるくらいだ。智東もその一人である。
「智東中佐もお元気そうで何よりです」鍵原は頭の片隅にたまたま残っていた情報を頼りに、適当に口を動かした。「お孫さんはそろそろ三歳だったでしょうか。確か以前お話した時はもうじきお孫さんがお生まれになるとおっしゃっていましたが」
「ああ、七月で三歳だよ。今からプレゼントを考えているところさ」
「女の子だったと記憶していますが?」
「ああ。うちの女連中にも訊いているんだが、鍵原大尉にも是非プレゼント選びにご協力願いたいね」
「私は根っからの軍人ですよ。玩具のピストルなんて、女の子は喜ばないでしょう」
さて社交辞令は互いにこれくらいでいいだろう。孫のプレゼント選びなんて下らない要件に通信傍受防止回線など使わない。それに、智東もどうせ真面目にプレゼントを選ぶ気などないだろう。部下が勧めた物を特に精査せず側近に買いに行かせるに違いない。家族との平和な時間よりも、血生臭い現場を好む男だ。
鍵原はさっさと本題へ移らせた。
「それで、要件とは何でしょうか」
「うむ、それなんだがな」智東は惜しみなく孫の話題を切り上げた。やっぱりこういう男だ。
智東は孫の話をする時と全く変わらない態度で話した。太い声だが、智東の口調は快活で親しみがある。仕事の話になっても雰囲気がスイッチしないということは、よほどロールプレイが上手いか、素で軍人かのどちらかだ。おそらく後者だな、と鍵原は推測していた。
「鍵原大尉、つい最近君の管轄でベッカムというイレスト教神父を捕らえただろう」
「ベッカム?」
鍵原は記憶しているイレスト教徒の処刑リストの索引にベッカムをかけたが、該当する者はいなかった。つい最近というので、少なくとも半年以内だろう。鍵原は微笑を浮かべたまま智東に尋ねた。
「名前を間違えてはいないでしょうか。ベッカムという名の神父はうちで逮捕していませんが」
「ああ、そうか。すまんすまん、神父は実名でやっているんだったな」
「はい?」
軽く笑い飛ばして、智東は言った。
「ジェイク・パーキンというアメリカ人だ。ベッカムは『獣兵解放軍』の協力者としての名前だ」
ぴくっ、と鍵原の微笑が固まった。思わぬ人物から思わぬ名前が出たことに、鍵原はあらゆる思慮を巡らせた。彼女の胸中に浮かんだのは、停滞した捜査が進展するかもしれないという期待だった。
「ええ、ジェイク・パーキンならばこちらで確保しております」鍵原は脳内でパーキンに関する情報をハイスピードで復習しながら話した。「『獣兵解放軍』と関わりがあったとは、初耳ですね」
「ああ、きっとそうだろうと思ったよ。我々も君がパーキンの教会を摘発したとついさっき聞いて驚いていたところさ。……そうか、パーキンは君の所にいるんだね」
「ええ」
ほんの数瞬、他の者が相手ならば気にならないほどの間が空いた。智東はとにかく会話のリズムが早い人物だ。今の沈黙の間に彼が何かを思案したのではないかということを、鍵原は電話越しに感じ取った。
「ところで鍵原大尉……君のことだから、パーキンの教会にいる信者は既に処刑済みだと思うのだが」
「ええ、そうですね。ただし一人だけ取り逃がした少女がいます」
「取り逃がした?」智東の語気が関心を示した。なるほど、真の要件はパーキンではなくこちら側か。
「お恥ずかしながら、少女一人が我々の包囲から逃走いたしまして……それも、武装した何者かが援助しているようなのです。現在も捜索中でして」
「その少女の身元は割れてるのかね?」智東が早口で訊いた。
「いいえ、他の信者はすべて特定が済みましたが、その少女だけは何故か、どこの誰なのか一切が不明です」
「捜索中ということは、まだ生きているんだな?」
「ええ、きっと」
受話器から智東の安堵のため息が聞こえた。何かを予感した鍵原は片手間に、佐渡曹長の携帯電話にメールを送り呼びつけた。
「そうか、身元不明の少女は生きているんだな。良かった、本当に」
良かった? 引っかかる物言いだった。鍵原は無知な素振りで尋ねた。
「智東中佐、その少女が何か?」
心なしか、智東の語気は明るくなった。しかし圧を隠さぬ言葉選びで彼は言った。
「鍵原大尉、その少女を殺してはいかんぞ?」
鍵原が目を上げると、ちょうどオフィスに佐渡が入って来たところだった。智東は続けた。
「捜索中の部下全員に今すぐ伝えたまえ。少女を発見しても傷一つ付けぬことだ。生きたまま捕らえるんだ」
デスクの脇まで早歩きで到着した佐渡に、鍵原は送話口をミュートにしてすぐに告げた。
「例の少女の捜査にあたる全ての兵に、殺さず生け捕りにするよう伝えて下さい。必ず生け捕りです」
一瞬、佐渡は戸惑いを見せたが、すぐに毅然とした顔に戻り強く頷いた。
「は!」踵を返す。佐渡の背中を見送って鍵原は通話に戻った。
「智東中佐」
「命令は済んだかね」
「ええ。少女は生け捕りにします」
「助かるよ」
「それで」鍵原は椅子を引き、脚を組んだ。「智東中佐がそこまで気に留める少女とは、いったい何者なのでしょうか。パーキンが『獣兵解放軍』の協力者という件についても、是非情報を提供して頂きたいものですね」
智東は笑みを溢した。「ふふ、まあ待て鍵原大尉。俺は君に協力を要請する立場だ。しっかりと説明させてもらうさ。時間はいいかい?」
「ええ、構いません」
数秒の沈黙。これは思慮の間ではなく珈琲でも飲んでいるのだろう。鍵原もオフィスを見回し、目が合った部下に珈琲を淹れるようジェスチャーで頼んだ。
上官と通話中にもかかわらず脚を組んで椅子にくつろぐ鍵原に誰もが一度は何かを言いたげな顔をするが、必ず鍵原の視線を浴びる前に背を向けて職務に没頭した。第一中隊内ではもちろん、釧路基地ではたとえ階級が上の者であっても鍵原に物申す者は滅多に居ない。日々の業務での暴君ぶりを知っているからだ。
喉を潤してから、智東は勿体ぶらずに話し出した。
「三ヶ月前、こっちにある獣兵研究所が襲撃を受けたことは知っているね?」
「ええ、もちろん」
二月、まだ真冬と言っていいほど気温の低い頃だった。北方方面軍には衝撃が走った。札幌獣兵研究所が、武装組織によって襲撃された。
犯行組織の名は『獣兵解放軍』。動物を人為的に凶暴化させ、兵器利用する日本軍を倫理に反するとして批判し、獣兵制度の撤廃と軍保有動物の解放を訴えるテロ集団である。
もとはオーストラリアから発足した動物愛護団体だった。オーストラリア原産生物を獣兵利用を目的に日本軍が購入したことを皮切りに抗議活動が始まり、賛同の声が世界中へ広がった。団体にはイレスト教徒やユガヤ教徒など、宗教や国の垣根を越えてあらゆる人種が集まった。人が増えるにつれ徐々に過激な活動を行う者が現れ、その最大派閥となったのが『獣兵解放軍』だ。
近年、日本では獣兵研究所や軍基地が『獣兵解放軍』のテロ攻撃を受ける事件が絶えない。獣兵利用を開始した海外の軍も同様の被害を受け、海外向けに輸出した獣兵薬が『獣兵解放軍』に強奪された後、処分されたという大事件もあった。
「襲撃者の数は百人にものぼった。戦争だよ。……研究所の職員のうち数人が、『獣兵解放軍』と内通し手引きしたんだ。俺の第18歩兵連隊は、研究所の警備にあたっていた。何人もの部下が死んだよ」
研究所は職員と警備の兵を含め多大な被害が出たが、意外なことに実験動物が解放されることはほとんど無かったと、鍵原は聞いている。市街が近いため猛獣を放つことを躊躇ったのだとされているが、だとしたら結局『獣兵解放軍』が行ったのは研究員と兵士への殺戮だけだ。どうも疑問の残る襲撃だと、鍵原の印象に残っていた。『獣兵解放軍』は動物の保護という大義を掲げた組織であり、憎しみに囚われた狂信的テロリストとは行動原理が異なるからだ。
「鍵原大尉、これは重大な機密だ」智東は自嘲気味に笑った。「いや、機密だった、と言った方が良いな……奴ら『獣兵解放軍』の所為で各国が勘付き始めているからな」
部下が鍵原のデスクまで珈琲を運んできた。柔らかい笑顔で礼を言い、鍵原は湯気を立たせるカップを躊躇いなく口へ運んだ。まだ熱湯に近い高温の珈琲を、鍵原は眉一つ動かさずに一口飲んだ。まさか機密情報のやり取りを、珈琲を飲みながらしているとは周囲の部下たちも思うまい。
「お聞かせいただけますか?」
「ああ。鍵原大尉、君なら信用できるからね。研究所の襲撃を許したのは俺の落ち度でもある。是非頼らせて欲しい」
鍵原はカップをソーサーに置いた。智東の声がさらに低くなり、話し方がゆっくりになったのは彼の演出だった。こういう無駄なことを重大な局面でもせずにいられない彼の性分は、いち軍人というよりも自己顕示欲に溢れた政治家的だった。彼に評価できる点があるとしたら、その無価値な性分に対して彼が求めるものが地位や名誉よりも、戦場で兵という駒を動かすスリルであることだ。
少なくとも、この男が名誉などのために保身に走ることは決してない。だからこそ潔く失敗を認め、二階級も下の鍵原にも躊躇いなく協力を仰ぐ。軍人らしくない一方で、この男は軍人として完成されてもいた。
「札幌獣兵研究所で研究されていたのは、獣兵だけではない。むしろ獣兵の製造は隠れ蓑だったんだ」
「……と言いますと?」
「あの研究所では国家主導のもと、密かに『獣人兵』の研究が行われていた」
声に出さず、鍵原は心中で復唱した。
(獣人兵……)
ここまでくると、鍵原にも察しがついた。鍵原は糸のように細い目を微かに開き、その瞳に獣に似た眼光を煌めかせた。オフィスでつい彼女の顔を見た部下は、ぎょっとしてすぐに目を逸らした。
鍵原が想像した通りのことを、智東は口にした。
「君らが追っている少女は、人間ではない。札幌の研究所で生み出された、獣人だ」
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