第8話 獣の眼
井平はゾッと悪寒が走ったように感じた。
なんだ?
何故か、ほんの一瞬、雲田の目を見た途端……まるで鍵原大尉と対峙しているかのような錯覚に陥った。
「……」
「どうした? 来いよ、兵士なんだろ?」雲田は首を傾げる。
「……」井平は無意識に唾をごくりと呑んだ。
雲田の放つプレッシャーが、鍵原大尉と重なった。外見も雰囲気も声も、どこを取っても似ても似つかないはずなのに。出血の所為で、判断力が鈍ってしまったのかもしれない。
「井平一等、と呼ばれていたな?」
「……?」
心なしか、雲田の髪は怒る獣のように逆立って見えた。
「殺しに来い、井平一等兵。狩ってやるから」
「……!」
わかった。鍵原大尉と雲田の、どこが似ているか。
目だ。
獣の如き獰猛な瞳が、上位捕食者を思わせる狩人の目が、酷似していたのだ。
さらにもう一つ、井平は奇妙な感覚に囚われていた。
雲田にどうやって仕掛けたらいいかが、わからなくなっていた。
構えた刀でどこへ攻撃したらいいのか、頭を狙ったらいいのか胴を突いた方がいいのか、急にわからなくなってしまった。
この現象が如何に起こったか、井平にはすぐに理解できなかった。
剣道とは、基本的に自分と等しく剣を構えた相手と対峙することを前提としている。雲田のように、全く構えない者と対峙することは、想定していない。
相手が全く構えを取っていない時、こちら側にはある感情が芽生える。
『不安』だ。
これが何も所持していないただの弱者ならば何も感じない。ただ斬りつけて終わりである。だが、雲田は違う。
軍刀という武器を持っている。充分な凶器だ。にもかかわらず構えを一切取らない。この雲田のポージングは決して隙などではないと、井平は肌でわかった。この部屋に入る前の自分ならば、好機とばかりにまんまと突撃したことだろう。
実際に格闘し、深手を負わされ、雲田の強さを理解しているからこそそれがただ立っているだけではないと確信が持てた。井平の初動に、雲田は必ずカウンターを返す。だが、それがどんな反撃かが予測できない。
構えない、防ぐか躱すか攻撃するかもわからない佇まいとは、正体不明という恐怖とは、それほどまでに人を困惑させる。雲田と情け容赦無しの殺し合いを演じた井平ならではの感覚だった。
そうなると、井平に許される選択は限られてくる。雲田がどんな手を打ってきても対処ができるよう立ち回る。井平が動けば雲田も何かしらのアクションを強いられる。その一つ目の動きを見切りさえすれば、この困惑から抜け出せる。
正面だ。胸への突き。右手の軍刀がどこへ動いても、井平の反応は間に合うはずだ。
激しい鼓動と相反するように、井平は静かに呼吸した。
「すぅ」井平のブーツが床をダンッと踏みしめる。「はッ!」
僅かに腰を落とし、一歩前進——無駄が無く、洗練された井平の突きは豪速で雲田の胸へ迫った。
バチンッ、と井平の手が叩かれ、軌道を逸れた突きは雲田の顔のすぐ横を通り過ぎた。
「……え?」
井平の視界に、その一瞬はスローモーションで映った。
井平の右手の小指と薬指が、宙を舞っていた。雲田が軍刀で井平の手を殴打したのだ。井平の思考を停止させたのは、雲田が動き出すそのタイミングだった。
井平が仕掛けた瞬間、まさに全く同じタイミングで、雲田は井平の手が来る場所に軍刀を持ってきていたのだ。
井平がそうすることが、わかっていたかのように。
井平の手から柄が滑り落ちた。雲田はようやく、両手で柄を握り真っ当に軍刀を構えた。
「どこに来るかわかっていれば、それほど対処が簡単なことはない」
否、わかっていたかのように、ではない。雲田はわかっていた。
雲田の『構えない構え』に困惑した井平が、無難な選択をする——つまり正面から仕掛けてくることを、雲田は見越していた。面へ来るか、胴へ来るかは目線や予備動作に注目すれば明解だった。
井平が全ての折衷案に甘んじたのに対し、雲田は井平が自分の脅威を認めたうえで『構えない構え』に臆し、予想通りに動いてくれることに賭けた。敢えて部の悪い賭けに出た雲田が、単に幸運に恵まれたという結果だった。
今度は雲田が、井平に軍刀で突きを放った。刃は井平の腹を貫いた。雲田はそのまま突進し、井平を壁際へ追い詰めた。背中を貫通した軍刀がカーテンを裂き、窓を突き破った。
「ぐぅ……ッ!」
井平は歯を食いしばり、腹に深く刺さった軍刀を掴んだ。
「そのまま握ってろ」
あっさり柄を手放すと、雲田は井平の顔面へストレートパンチを見舞った。仰け反った井平の頭が窓にぶつかった。窓に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
半歩退き、雲田が勢いよく井平の胸を蹴った。頭と背中が激突し、背後の窓が派手に割れた。カーテンがレールからブチブチと剥がれ、井平は窓から外へ上体を投げ出す姿勢になった。
「ぐあ……っ」
井平はなんとか体を起こして室内に戻ろうとしたが、背中から飛び出た刀身が窓枠に引っ掛かりそれを阻んだ。身が浮く感覚が、井平を襲った。
屋内へ目を向けると、雲田が井平の両脚を持ち上げていた。血の気が引くのを、井平は感じた。
「じゃあな」
「待っ——」
腿を担ぎ上げて押し出し、雲田は井平を窓から落とした。カーテンを道連れに外へ投げ出された井平は空中で半回転し、次の瞬間目に飛び込んで来たのは、軍用車のルーフだった。
人体と車体がぶつかる鈍い音が、駐車場から聞こえた。
雲田は窓から顔を覗かせ、井平の生死をわざわざ確かめに行くことをしなかった。ただでさえ銃声が響き、下の職員も他の宿泊客も騒ぎになっていることだろう。下手に目撃者を増やすようなことはできない。
刀を拾い鞘に収め、雲田はイリスを呼んだ。
「もう大丈夫だ、出てきてもいいぞ」
雲田は鼻血を手の甲で雑に拭いながらバスルームへ行き、ドアを開けた。イリスは便器と浴槽の間にしゃがみ込み、頭を抱えて縮こまっていた。ただでさえ小柄なのに、より小さく萎んで見えた。
「兵はもう居ない。安心しろ」
雲田の手をイリスは恐る恐る握った。ぐいと引っ張るとイリスは自分の足で立てたが、体が震えているのは手の感触でわかった。冷えたイリスの体を抱き寄せ、雲田は頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ。全部済んだ」
「……雲田さん、血出てるよ」
「死んでないから平気だ」
雲田の顔を見てイリスは青ざめたが、部屋の中を見回すと絶句した。銃創の空いた壁に、割れた窓ガラス、血痕。ドアの方を向こうとしたので、雲田はイリスの目を手で覆った。廊下には背中がミンチになった今藤の死体がある。
「服を着て。ここを出る」
もし軍が町中を捜索しているとしたら、通報を受けてここに集まるのは時間の問題だ。井平と今藤がこの近辺を管轄していたのだとしたら、別の兵は少しでも遠くにいると信じたいが、どちらにせよ長居は無用だ。
イリスは雲田が用意した服に着替えた。夜間の移動も踏まえて冬用の厚着にしてある。雲田も急いでホルスターを腰に巻き、刀を差し直してコートを着た。
旅行バックからAK-47を取り出し、マガジンを装填して槓桿を引く。雲田は銃床を畳んだまま、AK-47をコートの中に隠した。
「準備はいいか」
イリスはきっちり、フードを深く被っていた。バックを背負ってイリスの手を引き、雲田は足早に部屋から出た。
「下を見るな」
臭いで察したらしく、イリスは死体が視界に入らないように顔を背けた。雲田は通り過ぎる際に今藤の死体を一瞥した。致命傷になったのは、最初に後頭部に当たった弾だった。
廊下は意外と騒ぎになっていなかった。いや、むしろ当然か。外で銃撃戦が起きているというのに、危険を冒して部屋を出る命知らずはいない。
一階もがらんとしていた。職員はスタッフルームの奥へ引っ込んでいるらしい。一人だけ、銃声が止んでから時間が経ったためか様子を窺おうとしている高齢の男性職員が受付に顔を出していた。階段を降りてきた雲田とイリスを見ると、ぎょっとして一度引き返しかけたが、子供だと気づいてまた出てきた。
「大丈夫かい? 早くこっちに!」
上階から逃げてきたと思ったらしい。雲田は「もう平気ですよ」と言い残し、エントランスを後にした。男性は頭に疑問符を浮かべ、呆けたまま二人を見送った。
外に出ると、入り口のすぐ横に停めてある軍用車が目に入った。凹んだルーフの上に井平がうつ伏せに倒れていた。背中から突き出た軍刀の刃が天を突いていた。井平はぴくりとも動かなかった。
(死んだか……)
雲田はイリスを連れ、路地裏へ駆け込んだ。建物の隙間など人目につかない道を選びながら、二人は釧路昭和方面へ向かった。
程なく、車道を駆ける数台のパトカーや軍用車を大通りで見かけた。ホテルから二キロも離れると、雲田は普通に歩道を歩き始めた。
おそらくだが、雲田だけでなくイリスの顔もまだ軍には割れていない。下手なことをしなければ捕まることはないはずだ。
井平の奇妙な反応から推理してみると、何となく見えてきた。昨夜ロッジに軍が押し入っていたことも、今藤がまるで見当違いの別人の写真を持っていたことも。
軍は——少なくとも第27歩兵連隊は、まだイリスをイリスであると認識していない。別の誰かだと勘違いしている。何故ならば、軍がイリスを探しているとしたら容姿の詳細を把握していないはずがないからだ。
とすると、昨日あの場に軍がいたのは、全くの別件……彼らの目的は、初めから秘密教会の摘発だったのだ。イリスを捕らえるためにロッジを訪れたわけではない。
間が悪いにも程がある。イリスについて詳細を把握していたのはパーキンだけだ。全く無関係の他の信者から、秘密教会の存在が漏れてガサが入ったのだろう。本当に運が悪い。
だが好都合なこともある。軍がイリスと間違えて別の誰かを捜索しているのだとしたら、難なく釧路を脱出するチャンスかもしれない。
雲田とイリスは釧路昭和にあるショッピングモールを目指した。平日でもある程度の人混みを期待できるのはここだ。然るべき時間まで、ここに身を潜めて待とう。
通報を受け、淀川一等兵と葛木一等兵はホテル百人館に到着した。既にパトカーが何台か先着しており、道路規制や職員への聞き込みを行っていた。
「ポリ公ども、勝手に現場荒らしやがって。まだ敵が潜んでたらどうするつもりだ」
誘導を行っていた制服警官をエンジン音で脅かし、危うく轢きかけながら淀川はホテルの前に乱暴に停車した。89式自動小銃を手に外へ出ると、右往左往する警察官に「どけろボンクラども!」と怒鳴った。
一年先輩で淀川と付き合いが長い、相棒の葛木が駆け足で淀川に追いつく。
「落ち着けよ淀川、こんな役立たずどもに当たっても意味ねぇぞ」
「役に立たねぇなら獣兵の餌にでもしたらどうだ。ライフル持ってる傭兵にこいつらが勝てるかよ。生きたままヒグマ型に食わせてわからせてやりゃいいんだ」
淀川と葛木の声は周囲の警官にはっきり聞こえていたが、二人は遠慮しなかった。二十代の淀川より遥かに年配の警官が気を悪くした顔でこっちを睨んでいたが、淀川はガンを飛ばし返しすらしなかった。警官が兵士に逆らうわけがないし、仮にここにいる警官が逆上して一斉に飛びかかってきても、淀川と葛木なら容易に叩き伏せられる。
「ポリ公、中にもう入ったみたいだな」
葛木がホテルの二階を見上げて言った。窓が割れた部屋の中を、警官が歩いているのが認められる。淀川は舌打ちした。
二人の視線は、割れた窓の真下にある軍用車へ下りていった。車上に兵士の死体が寝ていた。
車のナンバーと人相を見て、淀川は呟いた。「井平か?」
淀川が89式の槓桿を引くと、その音に警官とホテルの職員が反応した。軽薄に言葉を交わしながらも、淀川と葛木の目は忙しなく周囲を見回し敵を探していた。いない。これだけ人が集まれば出てくることもないか。無論警戒は怠らずに、淀川は葛木に背中を任せて井平の軍用車に歩み寄った。
淀川は井平の死体を検めた。
「ひでぇな」
どれが致命傷かわからない。腹に刺さった軍刀か、あるいは二階から落ちたことか。首にも深い傷がある。出血が少ないのを見るに、頸動脈を切られた失血死かもしれない。にしてはルーフの上に敷かれたカーテンに染み込んだ血が、少な過ぎる気もするが。
首の傷を見ようと、淀川が井平の頭に手を伸ばしたその時だった。
ルーフからサイドミラーの上に垂れていた井平の右手が跳ね、淀川の腕を掴んだ。淀川は仰天した。
「井平!?」
死人とは思えない尋常ならざる膂力だった。握り潰すつもりなのではないかというほど強く淀川の腕を掴んだ井平が、ゆっくりと顔を上げ始めた。顔は血で真っ赤だったが、目にはまだ命の光が灯っていた。
「クソポリ公ども、ちゃんと生死確かめてなかったのか、それとも脈も取れねぇのか?」
淀川は拡声器を使ったのかと聞き間違えるほどの大声で叫んだ。
「衛生兵……いや、救急車の方が早ぇか。救急車を呼べッ! 生きてるぞ! 早く救急車を呼べッ!」
葛木がこちらに走って来た。「近くに第二病院がある、運んだ方が早ぇぞ!」
「足持て葛木、下ろすぞ!」
井平の手を引き剝がし、淀川はボンネットに乗った。すると井平が音を頼りに手を伸ばし、また淀川の胸ぐらを掴んだ。
「……と……り……」
乾燥した赤黒い血の口紅の上を、新鮮な血が滴る。井平は痙攣しながら、充血した目で淀川を見上げた。
「今運ぶから待ってろ井平、死ぬなよ!」
「……て……ひ……と……」
「あぁ? なんだって?」
瀕死なのにどこにそんな力が残っているというのか。井平は淀川を顔の近くまで引き寄せた。鬼気迫るその顔に、淀川は思わず絶句した。死んでも何かを伝えようとしているのだと、彼は気づいた。
「……鍵原、大尉に……報せろ……」
「葛木、一回やめろ! 井平が喋ってる」
葛木が車体を迂回し、ともに井平の声に耳を傾けた。掠れて男のように低くなった声で、井平は言った。
「……敵は、一人だ……短い、黒い髪の若い女……ガキだ……。子供は……写真と、違う……」
一言一句、身に刻むようにして淀川は暗記した。ただし最後の言葉だけは、意図がわからなかった。
「……敵は……獣の目を、していた……」
淀川と葛木は顔を見合わせた。
瀕死で訴えかける井平のその目こそ、獣のように猛々しい威容を放っていた。
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