第7話 目標捕捉

 釧路町 陸軍基地


 釧路町別保に構える大日本帝国陸軍釧路基地には、第27歩兵連隊をはじめとする複数の部隊が駐屯している。

 二千人を超える兵が属し豊富な武器弾薬兵器を備蓄するほか、広大な敷地には複数の獣兵舎が完備されていた。配備されている獣兵は主にオオカミ型、イヌ型、ヒグマ型、タカ型である。勤めている兵のうち百人が獣兵飼育スタッフであり、数千頭の獣兵を管理している。広大な自然を相手取る陸軍釧路基地には、獣兵を操る獣兵師が全国平均の倍の人数配属されており、獣兵の精鋭部隊が幾つも存在する。

 基地の警備は人の兵よりも獣兵の方が多く配備されているという特色は、第27歩兵連隊の獣兵部門の腕前を強く誇示していた。半日おきに交代しながら、二十四時間体制で陸をイヌ型、空をタカ型獣兵が監視していた。全国屈指の獣兵舎の規模と飼育されている獣兵の数、獣兵師の練度から、陸軍釧路基地は「獣の要塞」とまで謳われていた。

 第一中隊中隊長鍵原風美大尉は、基地内の作戦会議室にて逃走した少女とその協力者の捜索を指揮していた。捜索開始からおよそ四時間、検問を敷き足による捜査も継続していたが、いまだ芳しい報告は上がっていない。

 尋問室では軍医の草薙陸軍曹長がパーキン神父に拷問を行っていたが、そちらもまだ口を割らない。パーキンは既に手足の指を全て失くしていたが、悲鳴は上げても問いに答えることはないという。粘り強くイレスト教の教えを唄うばかりだと、草薙曹長は辟易していた。

 鍵原は会議室の机に頬杖を突き、無線と会話しながら報告内容を纏め上げる部下たちの働きぶりを眺めていた。長方形を描いて配置されたテーブルに用意された数台の無線機を十人程の部下がそれぞれ囲んで、報告をもとに捜索の進捗をリアルタイムで地図に反映していた。巡回済みの建物やエリアはリストにチェックが入れられ、ターゲットの潜伏場所は徐々に絞られている。しかしどうも、雲を掴むような捜査になっていない気もしなかった。

 今件には鍵原も頭を悩ませていた。何もかも謎だらけだからだ。

 逃走しているのがパーキンの一人娘であることと、その顔だけは明らかだ。が、それ以外の情報が一切わかっていない。協力者の正体、人数、さらにはパーキンの娘を救出した目的までもが謎に包まれている。

 道内の民間軍事会社からも、傭兵を派遣したという報告はない。虚偽の返答をしている場合もあるため、念のため調査員を送っているが、国軍と協力関係にある民間軍事会社がわざわざリスクを冒すとも考えにくかった。

 だとしたら海外から派遣された部隊かもしれないと、捜査は入国審査記録にまで及んでいた。海路と空路の双方を調べ上げ、怪しい人物が入国していないかを徹底的に洗う。こちらには多大な時間を要するだろう。

 無線と会話する部下たちの声に耳を傾けているが、目ぼしい情報を掴んだ様子はまだない。鍵原が手をつけていない珈琲が冷めたため、部下が代わりのカップを運んできた。鍵原は定期的に上がってくる空虚な進捗報告書に目を通しては、首を捻っていた。

 捜査人数を増やすべきか。動員する獣兵をもっと多くした方が良かったかもしれない。鍵原はどうやら相手を見くびっていたようだ。そんな自責の念が溢れ出る。

 やはりパーキンだ。何としてでも彼の口を割らせなければ。そうだ、もうじき旭川からイレスト教徒の子供の処刑映像が届くはずだった。それをあたかもライブ映像であるかのように見せ、一人ずつ殺すぞと脅せばパーキンの心を折れるかもしれない。あの堅物の神父の心が折れる瞬間ならば是非とも見てみたいものだ。

 時刻は九時半を過ぎていた。そろそろ次の策を打たねばならない頃合いだろう。鍵原が部下を呼びつけ、獣兵の増援を出動させるよう命じようとした、その時だった。

「鍵原大尉!」

 勢いよくドアを開き会議室に現れた佐渡曹長が、早歩きで鍵原のもとまで来た。彼の人格からくる厳格さを現した真顔に、僅かな緊張感が滲んでいた。何事かが起き、佐渡がそれを報告に来たことを鍵原は悟った。

「何でしょうか、佐渡曹長」

 部下を押し退けて鍵原の隣に立つと、佐渡は中腰で大尉の耳もとに話しかけた。

「ただいま隠れイレシタンたちの身元を確認していた者から報告が届いたのですが」

「ええ、それで?」

 室内にいる部下たちが佐渡に注目を寄せていたが、鍵原が何気なく視線をやると全員すぐに作業に戻った。鍵原は佐渡の険しい顔に目を戻した。

「身元の確認は全員済みました。ですが一つ、不可解な点がありまして」

「何でしょう」

 一拍置き、佐渡は鍵原に耳打ちした。

「パーキンには、娘が居ません」

 鍵原はキツネのように細い目を、珍しく大きく開いた。

「居ないとは?」

「はい。正確には二年前に、一人娘を事故で亡くしています。娘は今捜査に使っている写真に映っている子供で、間違いありません」

「……何ですって?」

 佐渡と異なり、普段の声量で鍵原が発した言葉は部下たちの注目を再び集めた。鍵原は今度は部下たちを視線で嗜めることをしなかった。むしろ現在行っている無駄な作業は止めてもらった方が助かる。これまでの捜査を覆す事実が判明してしまったのだから。

「我々が追っているのは、パーキンの娘ではない……」

 鍵原は鋭い目で虚空を睨みつけた。姿の無い標的を見据えるように。

「では、あの少女はいったい誰なんでしょう……?」



 ホテル百人館


「あ」

 イリスを目撃した今藤がぽつりと声を出す。軍服姿の今藤と井平をイリスは凍りついた。

「馬鹿!」

 雲田は素のリアクションと演技の中間で怒鳴り、咄嗟にイリスをバスルームに押し戻した。

「なんて格好で出て来るの! 戻りなさい!」

 急いでドアを閉め、雲田は今藤を振り向いた。腰に差した拳銃は裾で隠している。相手の反応次第で、いつでも抜くつもりだった。

 今藤は手で目を覆い、顔を伏せていた。彼は首を振りながら、紳士的に言った。

「申し訳ない、まさか急に出てくるとは。タオルを巻いてくれていたおかげで何も見てなかったと、妹さんに伝えてくれ」

 指の隙間からイリスが消えたことを確かめ、今藤は手を下ろした。とても居心地が悪そうな苦笑いを浮かべ、へこへこと謝った。

「驚かせてしまったようですまない。訳あってね、こんなライフルを持っているんだ」

 雲田は今藤の顔色を注意深く窺った。本気で謝罪しているように見受けられた。イリスが出てきた時も、反射的に顔を背けていた。もしイリスを捜しているとしたら、あんな振る舞いはしない。

 そもそも、今藤が持っていた写真に映っていたのはイリスではなかった。年頃は同じだが、金髪の白人だった。イリスは茶髪で、色白だが黄色人種に近い。今藤たちが捜しているのは、全くの別人だったのだ。

(いったい誰を捜しているんだ? 別件だったのか……紛らわしい)

 雲田は心中でほっとした。偶然にしても兵士から訪問を受けるとは、運が無い。イリスがターゲットでなかったのはまさに不幸中の幸いだった。おかげで雲田は、演技よりもちょっと上手い笑顔が作れた。

「いえ、こっちこそすいません。気にしないでください。裸で出てきたあの子も悪いです」

 今藤も心境では早く引き下がりたいだろう。さっさと退散してもらおうと、雲田はドアを閉めにかかった。

「妹もシャワーから上がりましたし、これくらいで良いですか。あまり待たせると湯冷めするので」

「ああ、本当に悪かったね。我々のことは忘れてくれ、迷惑をかけた。それじゃあ」

 手早く敬礼し、今藤は潔く後退してくれた。良し。

「妹さんには謝っておいてくれ。こっちはまだ寒いから、風邪を引かないように気をつけて」

「ありがとうございます、兵隊さん。では……」

 今藤が廊下を引き返して行った。雲田は同伴していた女の兵に一礼し、ドアを閉めようとした。

 女の兵を見た時、雲田はある違和感に引っかかった。

 イリスが現れてから、あの女はずっと固まってしまったかのようにぴくりとも動かなかった。じっと立ち、今藤でも雲田でもなく、イリスが消えたバスルームのドアを凝視していた。

「行くぞ井平一等」

 今藤が井平の肩を叩き、廊下を引き返そうとした。ドアが閉まる直前だった。井平が声を張って言った。

「待ってください」

 ドアノブを握る雲田の手がピタッと止まった。井平の隣で、今藤が立ち止まった。今藤は片眉を上げた。

「は?」

 井平は芯の通った声で言った。

「あの子です」

 閉じかけたドアを井平はじっと見ていた。丸く見開いた目が、充血し始めていた。井平の脳裏には、昨夜の森でスコープ越しに覗いた光景がフラッシュバックしていた。

 モザイクがかっていた少女の顔を、鮮明に思い出した。あの時、ロッジから出てきたのは写真の人物ではない。髪は茶色で、目は黄色く光っていた。頬を伝う涙まで、はっきりと覚えていた。その黄色い目を、井平は撃ち抜こうとしていたのだ。

 その後聖書で殴り殺した子供たちの顔が何度も頭に浮かぶ所為で、忘れてしまっていた。

 だが間違いない。井平が森で見たのはあの子だ。

「私が撃ち殺し損ねたのは、あの子です」

 今藤は困り果てたような呆れ顔で、手を振った。

「何言ってんだお前、写真と全然違うじゃねぇか。馬鹿言ってないでさっさと行くぞ、時間を無駄にしてられねぇんだ」

 雲田はゆっくり、音を立てずにドアを閉めた。覗き窓に顔を近づけながら、雲田は腰からサイレンサー付きのベレッタM9を抜いた。

 鍵原大尉の声が、あの森の冷えた木々に香りが、子供を殴り殺す感触が、三つとも井平の感覚に蘇えった。剥き出した目が渇いて真っ赤に染まった。

——次は、ちゃんと撃てますね?

 井平は89式小銃のセーフティを外し、銃口を201号室のドアへ向けて構えた。

「次は絶対に逃がしません」頭の中の鍵原大尉に、井平は約束した。

 雲田はドアにベレッタの銃口を当て、井平に狙いを定めていた。井平は89式を構えながら前進を始める。雲田はトリガーを絞り始めた。

「馬鹿野郎!」

 今藤は血相を変えて井平の前に立ちはだかると、慌てて銃身を掴み89式を下ろさせた。

「何する気だお前! 昨夜からやっぱりおかしいぞ! ずっとあの汚ぇ聖書持ち歩いてるし、どうかしてるんじゃ——」

 ドアを貫通した銃弾が、ちょうど井平の前に割り込んだ今藤の後頭部に当たった。頭蓋に穴が空き、周囲の頭皮がめくれた。

「チッ」雲田は舌打ちした。今藤が邪魔で井平を狙えない。片方を仕留められたのは幸いだったが、臨戦態勢に入った方を先に始末したかった。

「今藤上等!」

 井平が叫ぶ。白目を剥き、今藤が前のめりに倒れた。今藤の膝が下がったことで、井平の顔が雲田の視界に映った。雲田は再度、井平を狙い発砲した。

 二発目の弾が今藤の頭頂部を掠り、僅かに軌道を逸れて井平の左耳に当たった。熱い感触が耳に溢れる。既にアドレナリンが大量分泌されていた井平は、痛みを遠くに感じていた。

 井平は穴が二つ空いたドアを睨んだ。床に倒れかけた今藤の肩を抱くと、ぐったりとして重かった。たぶんもう死んでいる。

 次が来る、井平は直感した。ほとんど迷わず、井平は今藤を抱き上げて盾にした。ドアの向こうから飛んだ銃弾が今藤の背中に当たった。

 女の兵士の即断に、雲田は面食らっていた。歳と振る舞いからして彼女は今藤の部下だったはずだ。上官を躊躇いなく盾にするとは、肝が据わっている。

「流石日本兵だな」

 ドアをロックし、雲田は後退しながら繰り返しベレッタを撃った。外から聞こえる異音に気づき、イリスが声を上げる。

「どうしたの?」

「出るな! さっきの兵に気づかれた」

 緊急時は雲田の指示通りにすることが賢明であると、昨夜の出来事でイリスは身に沁みてわかっているはずだ。こう言っておけば勝手なことはしないだろう。今出てこられると、雲田と井平の両方の銃弾の餌食になる。

 雲田はベッドまで引き下がった。射撃を継続しつつ、ベッドに置いたマガジンに手を伸ばす。

 井平は左手で今藤の胸ぐらを掴み、懐に潜り込んで肩と頭を死体の胸に押し付けた。死体や昏睡している人間は、通常よりも非常に重く扱いにくい。井平は唇を噛んで踏ん張り、八十キロ相当の肉の塊を持ち上げた。

 今藤を盾として銃弾を防ぎ、前進。89式を単射に切り替え、脇で銃床を挟み、盾越しに応射した。

 長閑なホテルの廊下に、銃声が響く。雲田の脇を89式の5.56x45mm弾が通過した。雲田はベッド側に身を躱し壁に背をつけ、角から通路に腕を出して撃った。

 両者の銃撃によってドアはズタズタになっていた。穴が空いたドアから、今藤の真っ赤な背中が近づいて来るのが見えた。

 雲田の弾が当たるたび、今藤の体が微かに揺れて血肉が弾けた。今藤の軍服は皮ごと破け、肉が剥き出しになっていた。

 井平はドアノブを撃ち抜いた。ドアノブとともに吹き飛んだ鍵が室内の床を転がる。雲田はマガジンを捨て、再装填した。

 雲田の銃撃が止んだ僅かな隙に、井平は背面のみ血まみれになった今藤の死体を捨て、ドアを蹴り開けた。手元のレバーを素早く三点バーストに切り替え、室内を見回す。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中には、誰も居なかった。雲田の姿を探す井平の目は程なく、通路の右側にあるバスルームのドアに留まった。

 血走った目でドアを睨む。89式の銃口が、井平の殺意に従ってそちらを向いた。

 雲田が通路の左側の角から半身を晒し、撃った。

 視界の隅に現れた雲田に、井平の理性は辛うじて反応した。振り向いた井平の顔のすぐ横を通り、弾は壁に当たった。井平は狙いをつけるのとほぼ同時に、雲田を撃った。

 三点バーストを放つ直前、雲田は凄まじい速さで通路へ飛び出し、89式の銃口をベレッタで殴っていた。サイレンサーが銃口を直撃し、狙いは雲田の右横へ逸れて、先ほどまで隠れていた壁を撃ち抜いた。

 左手で89式の銃身を押さえ、雲田はベレッタを井平に突きつけた。井平もまた89式から左手を離し、ベレッタのサイレンサーを掴んだ。井平の右頬を掠った弾がバスルームのドアの上部に当たった。

(これ以上撃ったらイリスに当たりかねない……!)

 度重なる発砲によりベレッタのサイレンサーは高温になっていたが、井平は火傷も厭わず握り続けていた。雲田は躊躇なく、ベレッタを手放した。

「!?」

 雲田の拳が、ベレッタを握る腕の下をくぐり、井平の喉を打った。

「ぶぐっ」

 息が詰まるような悲鳴を上げ、井平が微かに後ずさる。続け様に、雲田は井平の顔面を肘で殴打した。

 怯んだ井平の89式を掴み、銃床でみぞおちに一撃。前屈みになった井平の手から89式をもぎ取る。

「うがああ!」

 雄叫びを上げ、井平が雲田に突進した。雲田の背中が壁を激突した。グリップに持ち替えようとしていた雲田の手から、89式が落ちた。

 二人は取っ組み合いながら室内を進み、ベッドの脇に倒れた。井平が雲田に馬乗りになり、拳で顔面を殴った。

 雲田が鼻から流血する。負けじと雲田も井平を殴り返した。井平の歯が一本傾いた。

 井平は顔を真っ赤にして深いしわを刻み、怒声を上げて雲田を殴る。唾と血を吐きながら、雲田は井平の腹を殴った。

「こん……のオォ……!」

 井平が雲田の首を両手で掴んで絞め上げた。何度も顔や胸を殴ったが、井平は手を放さなかった。むしろ首を折らんばかりに、絞める力は強くなった。

「ぐぐっ……!」

 血管と気道が圧迫され、雲田から酸素を奪った。手を引き剥がそうと試みたが、蛇のように巻きついた指はびくともしない。

「ぐっ、がが……!」

 血の混ざった泡を吹き、雲田は井平を見上げた。鼻血を垂れ流しながら、井平は猛獣のように歯を剥いて怒鳴った。

「よくも今藤上等を……ッ!」

「……がっ……あ……!」

 雲田の視界の隅に、黒い光沢が映った。顔を僅かに傾けて右を見ると、井平と今藤が訪ねて来た際に隠した刀があった。

 刀に気づいた瞬間、雲田は脊髄反射で手を伸ばしていた。

 ベッドの下から取り出した刀で、雲田は井平の側頭部を殴りつけた。井平の目が泳ぎ、手の力が微かに緩んだ。それでもなお、執念深く井平は雲田から離れない。

 雲田は左手で鞘を掴むと、逆手に刀を抜いた。猛獣と化していた井平の目に銀色の波紋が映り、束の間、彼女に理性が蘇える。

 雲田が井平を刀で突いた。井平は咄嗟に首から手を放し、腕で防いだ。井平の左手の前腕を貫いた刃は、そのまま首に突き刺さった。

 井平は目を見開き、雲田を見下ろした。雲田はむせて喉に湧いた泡を吐き出し、呼吸を取り戻した。ともに、二人はまだ生きていた。

 雲田は刀を持つ手をめいっぱい伸ばしていた。これ以上刀が奥へ刺さらない。いや、とっくに刀は雲田の首を貫通していた。だが致命傷には至っていない。

(手応えが軽い、骨に当たらなかった。しかも……!)

 奇跡的にも、刃は井平の頸動脈と頸椎を避け、死に至らない箇所のみを貫いていた。ほんの数ミリずれていたら命を落としていたであろう、ごく僅かな無害の隙間を刀は通過したのだった。

 振り下ろそうにも貫通した腕が邪魔になっていた。何故か自分が生きていると悟った井平は、腰のホルスターに手を伸ばす。目を覚ました理性が射殺を選択した。

 雲田は柄を手放し、両肘で床を叩いた。腹筋で無理矢理上体を起こし、井平の顔面に頭突きを喰らわせた。拳銃を抜こうとする右手を押さえつつ、顔にエルボーを入れる。一度目で体が傾き、二度目のエルボーで井平は右へ倒れた。

 素早く井平の下から抜け出し、雲田は立ち上がった。背後に回った雲田の手には、井平の腰から抜いた軍刀が握られていた。井平は軍刀が盗られたことと、今の揉み合いで落ちた拳銃がベッドの下へ滑っていってしまったこと、そして背後を取られたことを察した。

「逆に訊くよ」

 軍刀を井平の頭に突きつけた。口に泡を溜めた息苦しそうな声で、雲田は言った。

「なんで軍人があんな子供を殺そうとする?」

 軍刀を振りかぶる。雲田は何故イリスを殺そうとしていたのかを問いていたが、井平の頭の中を駆け巡ったのは、秘密教会の談話室で撲殺した子供たちの顔だった。

——聖書を鈍器にして殺した子供たち。泣き叫ぶ声。尿の臭い。飛び散る鮮血、凹む頭。悲鳴。途切れる悲鳴。飛び出した眼球、剥げた頭皮、歯。暴れて顎を殴ってしまい、折れた歯。顎が外れた幼い子供の奇怪な顔。割れる頬骨。小さい子ほどよく頭が砕けた。裂けた頭から脳漿がはみ出る。悲鳴。悲鳴。悲鳴。殴った。血、重くなる聖書。悲鳴。血の臭い。今藤が言う、「ほら、次だ」。全員殺した。一人ずつ丁寧に。誰だこんな酷いことをしているのは。何で殺してるんだっけ。悲鳴。ああそうだ悲鳴、この子たち脳漿は失禁イレシタンだから鍵原イカレ大尉の私の所為で命令でこの子たちを悲鳴殺せば許してくれるって悲鳴一番年長の子から殺そうどうしてだっけそうだ鍵原大尉の命令でこの子たちを殺せば許してくれるってあの逃げた子供を撃ち殺してさえいれば仕方ないじゃないかどうせ私がやらなくたって他の兵が殺していた私が代わりにやってあげたんだみんなの代わりにこれは大義この子たちが悪いこの子に神なんて信じさせた親があの母親こっちを見た母親一番最初に殺した女の子と顔が似て悲鳴いる母親がずっとこっちを見ていた悲鳴こっちを見ていた悲鳴が段々と少なくなって「あと二人だ、早く済ませろ」どんどん血の臭いが濃くなって「暴れるなガキども」お前がやれよ今藤おおおおおおお殺してその子も殺し悲鳴て最後の一人一番大人しい子顔を覆ってずっと泣いてた可哀想に早く速く疾く楽にしてあげ悲鳴るからね「暴れるな!」その子は一番暴れただから自分で押さえつけて背中に乗っかって頭を何度も何度も何度も何度も悲鳴何度も何度も何度も聖書で真っ赤になった聖書で辞書みてぇに重たい聖書で殴った殴った殴った脳漿殴った殴った殴った漏らした殴った殴った殴った床に押し付けられた顔が潰れて平らになるまで殴った殴った殴った殴った殴った今藤上等兵が、真っ青な顔でこっちを見ていた…………。

「どうしてだって?」

 ぎょろりと動いた井平の目は、自分に刺さった刀を見た。

 俯瞰すると、刀は見事に井平の首を貫いていた。これで生きているのだから不思議なものだ。刀に阻害されてしまうので、雲田は首ではなく頭を狙って軍刀を振り下ろした。

 井平の理性と獣性がブレンドした狂気は、生死を問うことなく首に刺さった刀を引き抜いた。それを選ぼうと選ぶまいと殺されるのだとしたら、賭けに出る方がまだ活路があると、興奮と冷静の入り混じった井平の脳は、凄まじい処理速度で断じたのだった。

 起き上がりながら振り返った井平は、背後から迫っていた軍刀を、首から抜いた刀で打ち返した。火花が散り、互いを睨む雲田と井平の目が反射して輝いた。まるで瞳の奥に、稲妻が走っているかのようだった。

「私が兵士だからだ」

 立ち上がった井平は、刀を両手で構えた。井平の首からは驚くほど出血が少なかった。やはり頸動脈には傷一つついていない。派手な傷口からほんの少量の血が流れているのみだ。雲田は三歩退き、口内に溜まった血と泡をペッと吐き捨てた。

「あっそう」

 井平と異なり、雲田は片手にだらりと軍刀を提げて棒立ちした。額に青筋を浮かせた雲田の目は、獣のように獰猛な眼光を孕んでいた。

「じゃあ、死ぬことも本望だな?」

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