第4話 狩る者と狩る者

 イリスは奇妙な感覚を味わっていた。

 オオカミを殺した現場から一キロほど離れた場所の、高く伸びたトドマツを背にイリスは立っていた。雲田がトドマツと挟むようにイリスに密着して立っていた。背中を窮屈に押し付けられ、息苦しさすら感じた。

「我慢しろ。できるだけ息を殺して待て」

 イリスは口を両手で押さえて耐えた。

 奇妙だったのは、雲田の匂いだった。雲田が持つ銃特有の火薬臭さはあったが、雲田自身の匂いを感じなかった。確かにそこにいて触れているのに、誰もいないみたいだった。コートまで無臭だった。もしかしてこの人は幽霊なんじゃないかとさえ思えた。

 数分前から、雲田はここでずっと立って待っていた。オオカミの追手を待ち構えているのだそうだが、果たして上手くいくのだろうか。さっきは横から不意打ちで仕留められたけれど、今度は真っ向から相手取る。餌にすると言われたのでてっきり木の枝にでもぶら下げられるのかと思ったが、どう見ても雲田がイリスを守る構図だった。

「……」

 雲田は息を殺し、ただ待ち続けた。イリスも雲田を信じて託すしかなかった。またあの凶暴なオオカミに襲われるのかと思うと、身震いした。思い出すだけでも寒気がする。

 そんなイリスの恐怖を感じ取ったのか、雲田が肩越しに振り向き小声で囁きかけた。

「心配するな。相手は一匹だ。条件は同じさ」

「……え?」

「私はサシで負けたことはない。人でも獣でも」

 何を言っているんだ? 雲田の言い分にイリスは違和感を禁じえなかった。

 人間相手ならその表現もわかる。だが相手はオオカミ、猛獣だ。猛獣を相手に一匹だから条件が同じなんてことはありえない。ついさっき食われかけたイリスだからこそ言える、あれは決してヒトと同じ土俵にある生物ではない。

 雲田なりの励ましか、あるいは強がりなのだろうか。まさか本気で言っているわけはるまい。

 人と獣が同等に渡り合えるなど、そんなことが……。

 ある記憶が過ぎり、イリスは強く目を瞑った。

 目を開けると、雲田の横顔が見えた。獣に似た瞳が、闇に覆われた森を睨んでいた。

 人と獣が同等なんて、そんなの——絶対にありえない。あっちゃいけない。

 雲田が何かに反応して十時の方向を向き、「シッ」とイリスに沈黙を促した。イリスから背を離し、AK-47を構えた。

 ほんの一秒後、雲田が銃を向けた方角で物音がした。イリスを襲ったオオカミが草むらを蹴る音と似ていた。

 月が雲に隠れ、森に深い闇が落ちた。ほとんど何も見えなくなり、イリスはパニックになりかけた。匂いが無く、息遣いさえ静かな雲田の気配が感じ取れない。堪らずイリスが手を伸ばすと、雲田の背に触れた。

「すぐに終わる」

 雲田が囁いた。

 闇の奥で、オオカミが駆ける音が鳴った。ガサガサと茂みを踏み荒らしながら、着実にこちらへ近づいてくる。右へ、左へ。木を背にしているので背後から襲われることはないものの、その走力はあまりに速く、今この瞬間オオカミがどこにいるのか判別ができない。

 あと数十メートル、すぐそこまで肉迫されたかのような恐怖を、イリスは口を必死に押さえて堪えた。

 その時突然、雲田が発砲した。どこを狙ったわけでもなく、凪ぐようにして森を左右へ連射した。激しい銃声が鳴り、イリスは反射的に手を耳に移動した。

『獣兵』は銃声に怯えないよう調教を受けている。爆音が轟く戦場を臆さず駆け回れるようにするためだ。『山狩りオオカミ』こと夜丸やまるは、何代も前の先祖から既に銃声への耐性を遺伝子レベルで備えていた。近くで砲弾が爆発したとしても、彼は一切怯えることがない。

 夜丸は構わず、雲田目がけ速力を上げた。

 耳を押さえながら、イリスは微かに目を開いた。そして目に映った意外な光景に、驚いた。

 明るかったのだ。

 月明かりではない。闇夜が眩しいほどに明るく照らされていた。光のもとは雲田が持つAK-47の銃口。マズルフラッシュだった。

 マズルフラッシュが逆光に照らした雲田のシルエットが、銃を手放す瞬間をイリスは目撃した。その手が腰へと移動する。雲田が何をしようとしているのか、イリスは直感で理解した。

「見えた」

 雲田は腰から刀を抜いた。雲田の目には、マズルフラッシュに照らされた夜丸が、二時の方向から迫り来るのをはっきり捉えていた。その距離、実に十メートル。

 花火よりも短い、マズルフラッシュの明かりが消え再び一帯が闇に包まれる。その直前、牙を剥いて飛びかかるオオカミへ、命知らずにも自ら向かって行く雲田の目に、稲妻が走るのをイリスは見た。

 条件は同じさ、という雲田の言葉が蘇えった。

 ああ、本当に一緒だったんだと、イリスは悟った。雲田の言っていた意味がわかった。強がりでも何でもない。

 雲田には恐怖が無いのだ。

 人と獣にある決定的な差は、体力だ。人には獣のような強靭さも、鋭い牙も爪も無い。何よりも、『獣兵』は人を恐れない。

 雲田は恐怖を捨てることで、獣と同じ土俵へ立った。

 待ち伏せでオオカミのスピードの優位性を失くし、牙の代わりに銃と刀を手にし、膂力の差を頭脳で補った。同等の牙を得た以上、勝敗を決するのは運と熟練度だ。

 夜丸は雲田を恐れず、雲田もまた夜丸に臆さなかった。両者の覚悟に差はなく、そこに繰り広げられたのは獣同士の生存競争に等しかった。

 雲田が夜丸の方へ踏み出し、闇の中に風切り音が鳴った。雲田の刀か、夜丸の牙か、どちらかの刃がどちらかの肉を裂き、鮮血が飛び散った。



 善丸を撃ったのと同じ銃声が鳴ったその場所へ、八島やじま軍曹は駆けつけた。足に重い何かがぶつかった。強い血の臭いが鼻腔をつく。

 月光が差し、すぐ足下の草むらに首の無い夜丸が寝そべっているのが見えた。足に当たったのは、夜丸の首だった。夜丸の首は上顎を切り落とされていた。

 八島はごくりと生唾を呑み込んだ。

「夜丸……」

 腰に提げた餌袋の重みを、急に思い出した。善丸と夜丸とともに過ごした数年間が、八島の脳裏を凄まじい速さで駆け抜けた。とてつもない喪失感とともに、どろっとした黒く熱い感情が胸の奥に湧いた。

 死体に触れようと、腰を落としたその時だった。背後から若い女の声がした。

「銃を捨てて頭に手を載せろ」

 ぴたっと動きを止め、八島はゆっくり腰を上げた。背後に居る何者か——俺のオオカミを殺した人間——が銃を向けているのは想像に難くない。八島は死角で、9ミリ拳銃のトリガーに指をかけた。

 女がまた言った。

「銃を捨てて、頭に手を置くんだ。振り向くなよ。顔を見られたら始末しなきゃならなくなる。言う通りにすれば気絶だけで済む」

 雲田はすぐに仕留められるように八島の頭にAKの狙いを定めていた。『獣兵師』と思しき男の装備は拳銃と軍刀だけだ。外套の下に武器を隠している様子は無い。オオカミに遅れを取らないために身軽にしていたのだろう。

 イリスは近くに隠れさせている。オオカミ型の『獣兵』を投入している以上、この他の追手は考えにくいが、できるだけイリスからは離れていたくない。さっさと『獣兵師』を無力化して去りたかった。

 八島は黙ったまま命令に応じない。雲田は語気を強めた。

「早くしろ、お前だって死にたくないだろ。聞かなければ撃つぞ」

 八島が低い声で言った。「俺のオオカミを撃ったのはお前か?」

 雲田は冷たく言い放った。

「そこのオオカミと同じようになりたくなかったら、さっさと銃を捨てろ『獣兵師』」

 八島がバッと振り返り、拳銃を雲田に向けた。

 雲田はAKの銃身で、拳銃を持った八島の右手を殴りつけた。八島が発砲し、拳銃の弾が雲田の背後にあるトドマツを撃った。

 素早く距離を詰め、雲田が銃口で八島の喉を突いた。「ぐえっ」と悲鳴を上げ、呼吸が止まりながらも八島が拳銃を挙げる。雲田は銃床で、八島の手から拳銃を叩き落とした。続けて顔面を殴打し、八島の腹を蹴り飛ばした。八島は夜丸の死体の上に仰向けに倒れた。

 起き上がろうとする八島に、雲田は銃口を突きつけた。八島と目が合った。一瞬、両者は沈黙した。

 降伏と命乞いの文言が、八島の頭に浮かんだ。しかし体の下にある夜丸の、徐々に失われようとする僅かな体温を感じた瞬間、彼の頭を怒りが支配した。

 八島が軍刀に手を伸ばす。雲田はAKを撃った。

 連射した五発の弾が八島の胸と首と顔に穴を空けた。ビクンと一度震え、八島は動かなくなった。鼻が弾け飛び、首と胸の穴から血が溢れ出た。抜きかけていた軍刀が、手の重さで鞘に戻った。

「……」

 八島の懐から無線機を盗ると、雲田は足早に立ち去った。八島を殺したことに、雲田は特に何も感じなかった。

 待機を命じた草むらに戻ると、イリスは言いつけ通り大人しく隠れていた。イリスの手を引き、森の出口へ足を向けた。

「早く行こう、時間は多少稼げたけど、あいつらをやったのはすぐにバレる」

「さっきの人、殺したの?」

 イリスが不安げな声で言った。森の静寂の中では銃声はもちろん、直前の八島との会話も聞こえていたらしい。

「殺した。抵抗したし、顔を見られた。仕方ない」

「……」信じられないものでも見るような目で、イリスは雲田を見た。

「どうして?」

「……は?」

 怯えた表情でイリスが投げかけた問いを、雲田は理解できなかった。

「あの軍人はお前を殺そうとしていたんだぞ?」

「それは、そうだけど……」イリスが口ごもる。

 そんなことはどうでもいいと言いたげに、雲田はイリスの手を引いた。

「早く行くぞ」

「待って!」

 雲田の手を両手で握り、イリスが先へ進むのを拒んだ。この期に及んで何だと、雲田は眉間にしわを寄せてイリスを見た。

「教会のみんなを助けて」

 悲痛な懇願だった。イリスの手は冷え切っていた。寒さで震え、息は白い。歩き方で足を怪我しているのがわかる。雲田はイリスの顔をじっと見た。試しに言っているのではなく、本気で頼んでいた。他人の心配をする余裕などどこにあるというのか。

 雲田は逡巡せずに答えた。

「駄目だ。他の連中は諦めろ」

「どうして! すぐそこにいるのに」

「ロッジに軍隊が押しかけてきたんだろ? いったい何人の兵がいた? 無理だ。私だけでどうにかなる状況じゃない」

「でも……」

 進もうとしたが、イリスはまだ食い下がっていた。無理矢理引きずってもいいのだが、時間が惜しいのに荷物を抱えて山を降りるのはロスが厳しい。イリスには自分で歩いてもらった方が助かる。

 仕方なく、雲田はイリスの説得を試みた。

「イリス、私の仕事は君を連れ出すことだ。パーキンともそういう約束だった。君以外の人間を連れ出すことは仕事に含まれていない。平常時ならまだしも、今は状況が悪過ぎる。私もまさか軍に秘密教会が突き止められているとは知らなかった」

 雲田は一足遅れた。もしもう少し早ければ、教会で軍隊と戦う羽目になっていただろう。果たしてどちらの方が良かっただろう。今はとにかくイリスだけでも外に逃げられて僥倖だ。また教会に戻るなんて馬鹿な真似はできない。

「パーキンは君が無事でいることを祈っていた。祈るということがどれだけ重要なのか、私はよく知らないし君にもよくわからないと思うが、彼は命を賭けてでも君を救いたいと言っていた……と、私は聞いている」

 教会ならば恐らく子供も居たことだろう。本来ならば逮捕されるが、第27歩兵連隊のやり口は雲田も耳にしている。処理作業を簡略化するために、半ば横暴にそのテの信者を即処刑していると聞く。イリスの心配はもっともだが、既に手遅れだ。今引き返しても残っているのは死体と大量の兵だけ、なんてことは充分ありうる。

「君を無事に逃がさないといけない。私の仕事に協力すると思って、今は一緒に来てくれ。イリス」

「……」

 目を潤ませ、イリスは唇を噛んだ。俯くイリスの手を引き、方角を確かめながら雲田は山の出口へ向かった。イリスの足取りは重かったが、雲田が強く引っ張るとついて来た。



 一夜明け、イレストの秘密教会を隠したロッジに朝日が差した。太陽が昇ってなお、放射冷却により気温は上がらず、木漏れ日が兵士たちの息を白く輝かせた。

 鍵原大尉は地下の礼拝堂から引き上げた死体を、部下たちがトラックに積み込む作業を見守っていた。子供を含めた十数人にのぼるイレシタンの死体は身元の確認が取れ次第、別保にある釧路陸軍基地の獣舎で餌として利用される。裁判を通さず処分を下すことは、時間の短縮だけでなく捕らえた部隊が死体をそのまま所有できる利点もあった。違法宗教家たちの即時処刑は一石二鳥の効果をもたらすのだ。

 日が昇るまでのあいだ、血生臭い礼拝堂で業務にあたっていた鍵原は外の空気がことさら美味く感じた。大自然が代謝した空気の鮮度と、体に染み渡る冷えた外気は格別だ。

鍵原かぎわら大尉」

 部下の佐渡渉曹長がお手本のように背筋をピンと伸ばして鍵原の隣に立った。敬礼を済ませ、佐渡は簡潔に用件を口にした。

「八島軍曹の死体が到着しました」

「そうですか」鍵原は佐渡に同行し、死体を積むトラックの傍へ向かった。たった今森から帰って来た部下が、担架に死体を載せて運んできた。

 部下が担架を地面に下ろす。鍵原は八島の死体を頭から足まで、目で往復した。

 八島の射殺体には五つの銃創があった。胸や首の急所を撃たれているが、致命傷となったのは顔面に受けた銃弾だった。八島の頭の傍にもげた鼻が置いてあり、奇妙に斜め上を向いた眼球がそれを凝視しているかのようだった。

 隣から佐渡が注釈した。

「『狩狼獣兵』二頭も死亡が確認されました。そちらの死体は後程上がってきます」

 八島の死体を見ても鍵原は表情一つ変えなかった。不敵な微笑を浮かべたまま、鍵原は佐渡に言った。

「『獣兵』の死因は?」

「片方は銃殺、もう一方は鋭利な刃物で首を刎ねられていました。鉈か刀の類だと思われます」

「八島軍曹の軍刀では?」

「八島軍曹の軍刀に血はついていませんでした。使用された形跡はありません」

「そうですか」

 ロッジから逃走した少女は今も見つかっておらず、何者かが八島軍曹を殺害して少女の逃走を幇助したものと思われた。ライフルと刀を備えた何者か、あるいは集団がこの森に居たのだ。

 鍵原は既に興味を失くしたように、八島の死体から離れロッジへ足を向けた。半歩後ろに付き従う佐渡曹長に彼女は話した。

「いったい誰が少女を連れ去ったのでしょう。イレシタンの仲間に武装集団がいたということでしょうか。しかし、この秘密教会がそのテの過激派に属するという情報はありませんよね」

「もし過激派と繋がりがあるならば、秘密教会にもそれなりの備えがあるはずです。どこにも、拳銃一つ隠されていませんでした」

「そこが謎ですね。それに、もし犯人がイレシタンの仲間だとしたら、教会に居た者を見捨てて何故少女だけを連れ去ったのか」

「戦力差に敵わないと判断したのではないでしょうか」

 ロッジに足を踏み入れた途端、キッチンにある地下入口から漂う悪臭が鼻をついた。強い鉄の臭いだ。佐渡は悟られない程度に微かに顔をしかめたが、鍵原は平気な様子で歩を進めた。二人は地下の礼拝堂へ降りた。

「八島軍曹は優秀な『獣兵師』でした。犯人たちは熟練のオオカミ型『獣兵』二頭と八島軍曹を一方的に仕留めるほどの手練れです。そんな腕を持つ信心深い過激派イレシタンたちが、同胞を見捨てて大人しく退散するでしょうか」

「では、犯人はイレシタンではないと……?」

「私はそう考えます。例えば犯人が『信ずる者を救う会』だとしたら、我々を見逃すはずがありません」

佐渡は険しい顔をした。「……ええ、確かに」

「八島軍曹を殺したのはイレスト教とは異なる第三者でしょう。八島軍曹殺しには信仰臭さがありません。イレシタンはもっと執念深く、忍耐強く、死をも恐れない。信仰の教えとは、人をそんな狂気へと駆り立てるのです」

 鍵原は礼拝堂に降り立つと、祭壇の方を手で仰いだ。

「彼のようにね」

 地下礼拝堂の祭壇の前には、ジェイク・パーキン神父が椅子に拘束されたまま昏睡していた。佐渡が数時間前にここを出た時とは、パーキンの様相は別人になっていた。パーキンの前には、三人の部下が立っていた。井平一等兵と淀川一等兵、今藤上等兵が振り向き、鍵原に気づくと急いで姿勢を正し敬礼した。

 三人の軍服は返り血で汚れていた。特に井平と淀川の汚れが酷い。淀川が手に巻いたタオルには血が染み込み、井平は何故か真っ赤に染まった聖書を持っていた。淀川が持っているタオルはイレシタンの子供が刺繍を入れた手拭いだったのだが、ボロボロに擦り切れて面影はなく、誰もそうと気づかなかった。彼らがそんな姿をしている理由は、他ならぬパーキン神父にあった。

 パーキンの顔は目を開けるのが困難なほど何倍にも腫れ上がり、血でまばらに赤く染まった金髪は一部が頭皮ごと剥ぎ取られていた。右耳を削ぎ落され、左手の指は全て無くなっていた。礼拝堂のあちこちから血の臭いが漂っていたが、パーキン自体もかなりの悪臭を放っていた。血とは別の臭いは、一晩中ここで拷問を受けたパーキンの排泄物だ。

 拷問を任せていた部下たちに、鍵原は穏やかな口調で尋ねた。

「吐きませんでしたか?」

 今藤上等兵が答えた。「はい、いくらいたぶっても何も……井平一等が言うには英語で神がどうたらこうたらということばかり……一応メモしましたが、特に意味があるようには。ただ、八島軍曹を殺害した者に関して尋ねると、全く知らない素振りではないように感じました。何かを知っていることは間違いありません。しかし……」

 不甲斐なさを恥じるように眉をひそめ、今藤はパーキンを一瞥した。

「疲れ果てて眠ってしまいました。生きてはいるので、じきに目を覚ますでしょうけど」

「そうですか、ご苦労様です」

 糸が切れた人形のように気絶しているパーキンに歩み寄り、鍵原はその真っ赤な顔を覗き込んだ。弱々しい息が聞こえた。耳や手などは失血死しないように念のため止血されていたが、長時間の拷問を想定していなかったため、パーキンは既に重傷の有様だった。

「こんなに粘り強いとは思いませんでしたね」

 淀川が同意した。「全くですよ。俺が何回ぶん殴っても、泣き言一つ言いやがらない」

 佐渡が淀川に鋭い視線を投げた。

「口を慎め淀川一等。誰に向かって話しているんだ?」

 淀川は声に出さずに舌打ちし、「すいやせん」と呟いて口を噤んだ。

「淀川一等の言う通りですね」鍵原はパーキンから離れた。「信仰というのはそれだけ恐ろしい。人を、人ではなくする。彼は信仰の奴隷です。この忍耐強さはもはや狂気と言えます」

 つと床に目をやると、談話室から死体を引きずった血の跡が伸びていた。その跡を辿るように、鍵原は談話室へと歩いた。

「子供を早く片付けてしまったのは失敗だったかもしれませんね」

 鍵原が談話室に踏み入ると、汚れた聖書を持った井平の手がぴくっと動いた。

 談話室の床には赤い染みができていた。鍵原はソファの裏の棚に飾ってある小さな像や写真を見た。

「パーキンのような狂信者には、物理的に痛めつけるよりも目の前で子供の信者を殺す方が効いたかもしれません」

 鍵原は棚の一つに手を伸ばし、戸を開けた。談話室の外で待つ部下の誰にともなく、彼女は続けた。

「確か旭川基地に子供のイレシタンを処刑するシーンを録画したビデオがありましたよね。取り寄せてみましょうか。殴るより効果があるかもしれません」

 佐渡が即座に応じた。「わかりました。要請しておきます」

「間もなくここを離れますので、パーキンは上に運んでください。拷問は基地にいる草薙曹長が得意ですので、彼女に任せます」

 佐渡以外の三人が声を揃えた。「了解!」

 井平たちが早速、パーキンを運び出す準備に取りかかる。鍵原は棚に飾ってある一つの写真立てを手に取り、中にある写真を抜き出した。

「そちらはともかく、逃がした獲物を早く見つけないといけませんね」

 鍵原の細く開いた目が、ある家族写真をじっと舐めるように見た。写真にはパーキンと妻と思しき女性、そしてその子供である一人の少女が、和やかな笑顔で写っていた。


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