第3話 オオカミ型獣兵
イリスは
外は思ったよりもずっと寒かった。パーカーは屋内に居た時から着ていたもので、防寒具には程遠い。涙はとっくに止まっていたけど、濡れた頬が氷を張ったみたいに冷たかった。
自分の激しい呼吸の音がうるさいほど聞こえていた。心臓がバクバクと暴れ、乾いた喉が痛かった。それでも、イリスは止まるわけにはいかなかった。
ロッジを出てどれくらい時間が経ったかわからない。まだあまり離れられていないことはわかる。生い茂る草木を掻き分けて進んでいるので、普通に走るよりもずっと遅い。車が通る山道は、追いつかれるリスクが高いので通れなかった。森の出口に向かっているのか、はたまたさらに深く潜って行ってしまっているのかさえ、イリスには判断できなかった。今はただ、ロッジに押しかけて来た軍人たちから逃げることだけを考えていた。
実際のところ、イリスが井平一等兵の狙撃を逃れロッジを離れてから、まだ十分も経っていなかった。イリスの小さな歩幅ではどれだけ走ったところで、稼げる距離はたかが知れている。さらには無整備の獣道。イリスは今まで、こんなに走ったことはない。激しい運動とは無縁の生活を送っていた。空の下に出られたのも、つい最近のことだった。
「うわっ」
木の根に躓き、イリスは派手に転んだ。胴を強く打ち、一瞬呼吸が止まった。倒れた先の茂みに落ちていた木の枝に引っ掻け、左頬が切れた。膝も打っていた。手も頭も、どこもかしこも痛い。苦痛に耐えてなんとか起き上がった。が、途端に過呼吸のようになってしまった。止まっていた分の呼吸を取り戻そうとするかのように、肺が息を求めた。
すぐに立ち上がろうとしたが、息が落ち着かずイリスはその場でへたり込んだ。動悸が忙しく、頭がクラクラする。視界が安定しない、平衡感覚が鈍っているのだ。一度止まってしまうと、また走れる気がしなかった。
「はぁ……はぁ……」
だめだ。それでも、走らなければ。逃げなきゃ。じゃないと、何のためにあの人たちが自分を逃がしてくれたのか、意味が無くなってしまう。
隣に生えたトドマツに寄りかかりながら、イリスは立ち上がった。膝や手に濡れた感触がした。血が出ているのかもしれないが、暗くて見えない。進もうとしている森の中も、月に影が差すと真っ暗闇になってしまった。これまでも走る途中で、何度か木にぶつかっている。
「はぁ、はぁ……ああッ!」
息が整うのを待たず、イリスはまた駆け出そうとした。その時だった。背後から茂みを踏む音がした。
「!?」
イリスは慌てて振り返った。音がしたのはずっと遠くだった。でも確かに、何かが動いた音がした。動物か何かだろうか。それとも、兵士が追いついて来たのだろうか。
ガサガサッ、と何かが森の中を走っていた。さっき音がしたのとは別の方向からだ。茂みを駆ける音が、凄まじい速さで右から左へ、左から右へと移動している。そして音は確かに、こちらに近づいていた。
人じゃない。でも、ただの動物じゃない。リスとかキツネの速さではない。もっとパワフルで大きい動物だ。
音が駆ける幅はどんどん縮まり、イリスの右側に集中していった。速度を増して、音が急接近してくる。イリスの視線の先で、草むらが揺れた。仄かに獣臭が漂った。雲が晴れて、月光が森に降り注いだ。
30メートル以上離れた木の陰から、オオカミが飛び出した。月光を反射した大きな双眸が爛々と輝いていた。体長130センチに匹敵する巨体が、信じ難いほどの俊敏さで縦横無尽に木々の間を駆け、イリスに向かって来た。
逃げなきゃ! とイリスは思ったが、しかし状況への理解と思考が体に反映され、現実に動き出すのに対し、オオカミのスピードはあまりに速過ぎた。イリスが走り出すよりも、踵を返すよりも早く、オオカミは彼女の眼前へ迫っていた。
まばたきの間に、イリスとオオカミの距離は三メートル未満に縮まっていた。恐ろしい形相でオオカミが剥き出した凶暴な牙が、克明に見えた。イリスには、悲鳴を上げる猶予さえ無かった。
本来、オオカミの狩りとは狡猾な持久戦である。
群れで獲物を襲い短期決戦を仕掛けることもあるが、ほとんどの場合、長時間の追跡の末に疲労した獲物を狩る。獲物のなかでも幼体などの弱い個体を狙うなど、リスクを避け非常に合理的なハンティングを行う。膂力ではなく、頭脳で獲物を捕らえるのである。
しかし、それは厳しい弱肉強食世界での話だ。
猛獣、とりわけ強靭な牙や爪を有する肉食獣にとって、人間は『狩る』対象ですらない。あまりの体力差に生存競争そのものが成り立たず、ただ『喰べる』だけのまさに獲物。ましてや幼い子供の逃亡者など、皿に載せられた食事に等しい。
第二次大戦において、オオカミ型の『獣兵』が米兵の一個小隊を五時間に渡る追跡の末に仕留めたというデータがあるが、こういった例は稀である。八島軍曹に従う善丸のように、人の頭脳を借り、尚且つ人智を遥かに超えるスピードと膂力を備えた『獣兵』は、こと陸戦において戦車を上回る完全兵器と化す。
たかが人間ごときには、オオカミ得意の狩りなど不要——スピードと膂力で、圧倒するのみ。
茂みから跳躍した
善丸すぐそこまで迫る。あと二メートル。イリスは死を覚悟した。
銃声が、轟いた。
イリスに飛びかかろうとした善丸の顔がひしゃげ、こめかみに空いた穴から血が噴き出た。銃声は立て続けに鳴り、善丸の茶色い毛皮に次々と穴が空いた。銃弾の一発が、善丸の片目を貫いた。
銃撃を受けて僅かに軌道の逸れた善丸は、イリスの傍にあるトドマツに激突した。トドマツからずり落ちて倒れた善丸は、砕けた顎からか細い鳴き声を吐いた。それが最後の息だった。
獣臭と血の臭いが、出し抜けに香った。イリスは再びその場に膝を落とし、愕然とオオカミの死体を眺めた。
銃声がした方から、足音がした。同時に、火薬の臭いがした。
イリスがゆっくり振り向くと、そこにはライフルを持った人影が立っていた。暖かそうな黒いコートに、ネックウォーマー。迷彩柄のズボンに登山ブーツ。雲が流れ、影に隠れていたその顔が露わになった。
「無事か?」
イリスより少し年上の、それでもまだ充分若い少女だった。
黒いショートヘア、化粧の無い顔には幼さが残る。その手に不釣り合いな無骨なライフルを握りしめた少女は、イリスにこう言った。
「君がイリスだな? 何故こんな所で『獣兵』に追われている? 教会はどうした」
すっかり腰が抜けてへたり込むイリスに歩み寄り、少女は手を差し伸べた。
「私は
森に響き渡る銃声を、八島軍曹は耳にした。
少女を狩りに先行した善丸を追い、ともに獣道を歩いていた
連続した銃声が十発弱。音からしてライフルだろう。善丸が向かった方角からだった。
(カラシニコフ……?)
人より遥かに感覚の優れた『獣兵』を調教する『獣兵師』には、彼らと同じように匂いや音を判別する訓練が施されている。正しい音を『獣兵』に認識させ刷り込むためだ。八島は森の奥から聞こえた銃声を、AK-47による発砲だと予想した。
夜丸が音の方へ歩き出そうとしたので、八島は「待て」と命じた。
「慌てるな、夜丸」
オオカミの嗅覚は人間の数万倍鋭い。数キロ先の獲物の臭いを正確に嗅ぎ分ける。加えてオオカミの走力は最高で時速70キロメートルにも達し、人間の子供が険しい山道をオオカミから逃げ切ることは不可能だ。薬物投与により強化された『獣兵』である善丸と夜丸は、その全ての能力が底上げされている。
八島は単独の獲物を追う際、まずは二匹のうち片方を先行させ、狩らせる。八島は『獣兵』がちゃんと獲物を仕留めたかを確認するために、現場へ赴かわなくてはならない。そのための案内役に、もう一匹のオオカミを用いる。人間のスタミナでは、数時間獲物を追跡できるオオカミに並走することはできない。
夜丸に落ち着きがなくなった。しきりに高鼻で臭いを嗅ぎ、銃声がした方へ行きたがっている。正確な位置までは掴みかねるが、銃声がしたのはおおよそ少女が逃げていると思われる付近だった。
善丸に何かあったのか? いや、十二歳程度の子供がライフル銃など持っているとは思えない。
隠密を徹底するため、獲物を仕留めても善丸は遠吠えなどで合図を送らない。善丸が合図するのは緊急事態のみだ。善丸に限って危機に陥ることはありえない。あの銃声が猟師によるもの、という線もありえない。『獣兵』の軍正式採用後、特例を除き狩猟は禁止されている。散弾銃ならまだしも、フルオートライフルを持つ猟師などいない。
「急ぐぞ、夜丸」
草木に足を取られないよう気を付けながら、八島は夜丸とともに銃声の鳴った方角へ駆け出した。
射殺したオオカミの傍らに、雲田刀子と名乗った少女は跪いた。手を借りて立たせてもらったイリスは、雲田の後ろから横たわるオオカミを恐る恐る覗き見た。
「安心しろ、死んでいる」
イリスの不安を感じ取ったのか、雲田は見向きもせずにそう言った。ついさっき、イリスを食い殺そうと凶暴に牙を剥いて襲いかかっていたオオカミは、巨体を横たえ舌を口から垂らし、ぐったりとしていた。
雲田はオオカミの体を撫で回し、ある場所で手を止めた。視界不良のため、雲田は手探りでそこを見つけなければならなかった。
雲田が触れたのはオオカミの左肩だった。毛皮が一部剥げ、凹凸している。焼き印だ。雲田は指で焼き印をなぞった。
「2……7……」オオカミの肩には二ケタの数字が焼き印されていた。「27歩兵連隊……やっぱり『獣兵』か」
立ち上がり、雲田はイリスの方を向いた。その手に握られているのは、AK-47自動小銃だった。銃床が折畳式のタイプで、正確にはAKS-47と呼ばれる。負い革で肩から提げ、今は銃床を折り畳んでいる。オオカミを仕留めた銃だ。
雲田とは初対面だったが、イリスは彼女のことを事前に聞かされていた。オオカミから助けてくれたことからも、彼女が味方であることは確かだ。それでも武器を持った人間には、反射的に身構えてしまう。教会に兵士たちが詰めかけて来た時のことを思い出した。
オオカミの焼き印を探る間も、雲田は右手をAKのグリップから離さなかった。しゃがんだ時にコートの下から刀の鞘が覗いたので、イリスは軍人を見た時と同じ緊張を覚えた。教会を軍人たちが占拠する光景を見たばかりだったので、イリスが感じた恐怖は尚更鮮明だった。
「教会に軍が来たのか?」雲田が尋ねた。
イリスは強く何度も頷いた。まだ息が整っておらず、喉が痛くて喋れなかった。
「逃げたところを『獣兵』に追われたか……他に逃げたヤツは?」
イリスは首を振った。
「いない? わからない? ああそうか。パーキンは?」
首を振る。イリスが最後に見た時、パーキン神父は既に全身を拘束されていた。あそこから抜け出すことは厳しいだろう。
「なるほど……もう嗅ぎつけられたか。面倒なことになったな」
顔をしかめて頭を掻き、雲田はロッジがある方角を仰いだ。夜の森には不気味な静けさがあった。何が飛び出してくるかわからない穴の底のような恐怖。ただし今あの闇の向こうから飛び出てくるのは、銃弾と『獣兵』のどちらかだ。
雲田の視線が足下のオオカミの死体へと落ちる。
「こいつが斥候だとしたら、こいつを操る『獣兵師』とそれをナビゲートする『獣兵』がもう一匹いるはずだ」
イリスを追っていたオオカミが一匹だけなのに、ナビゲーターが二匹以上ということはまずない。おそらく、こいつは第27歩兵連隊で有名な『山狩りオオカミ』の片割れだろう。凄腕の『獣兵師』がすぐそこまで迫っているとみていい。
人ならまだしも、オオカミから足で逃げるのは困難だ。森を出る前に捕まるのは目に見えている。最低でももう一匹のオオカミは森にいるうちに仕留めなければならない。
オオカミに殺されかけたショックで、イリスはまだどこかぼうっとしていた。まだ息を乱しているイリスに、雲田はハキハキとした声で言った。
「休んでいる暇はないぞ、イリス」
雲田の声は年相応に高く幼さを感じさせたが、語気にはどこか不思議な深みと重みがあった。まじまじと雲田の顔を見て、イリスは気がついた。雲田の目は、イリスを殺そうとしたオオカミの目とよく似ていたのだ。獣の目に。
「ここで追手を迎え討つ。君は餌だ、腹を
折り畳んでいた銃床を伸ばし、雲田はセーフティを指で
グルル、と夜丸が小さく呻いた。八島軍曹は茂みを横倒したうえに、血まみれの善丸が倒れているのを見つけた。
「善丸!」
八島は善丸に駆け寄った。既に息は無かった。善丸の亡骸を嗅ぎ、夜丸が「クゥン」と情けない声を発した。
善丸の体を探り、複数の銃創を見つけた。傷口に指を入れると、まだ善丸には体温が残っていた。銃弾のうち三発は善丸の頭部に命中していた。可哀想に、目も撃ち抜かれている。
(いったい誰が撃った? 逃げた子供に仲間が?)
そこで八島は自分が犯している危険に気づき、急いで腰を低く落として周囲を見回した。
善丸を射殺した何者かが、近くで八島たちが来るのを待ち構えているかもしれない。今まさに、頭を撃ち抜かれてもおかしくなかった。
(いや待てよ、夜丸が反応していない……善丸を殺したヤツは近くにいないのか?)
夜丸が周囲の臭いを嗅いでいたが、敵の気配を察知した様子は無かった。少女の姿もどこにもない。善丸の牙に血がついていないので、少女を捕らえる前に射殺されたようだ。少女ともども、射殺犯はどこかへ消えた後だった。
「……おのれ」
八島は善丸の死体から発砲の位置を予測し、そこを夜丸に調べさせた。茂みのなかに薬莢を一つだけ見つけることができた。38ミリ強のスチール製の薬莢。かなりメジャーな7.62x39mm弾だ。やはりAK-47の可能性が高い。この地でライフルを持つ者など兵士くらいだが、まさか仲間の日本兵が、我らが『山狩りオオカミ』を殺すはずがなかろう。とすると、やったのはやはり秘密教会と通じるテロリストか……。
安価な武器を所持している点からも、その線は強い。気高き狩狼銃兵が、あんな無粋な武器で殺されるなどとは、『獣兵師』として高いプライドを持つ八島には耐え難かった。
「夜丸、追うぞ」
八島は改めて少女の衣類を嗅がせた。
優先すべきは少女だ。善丸を殺した目的が少女の救助だとしたら、射殺犯も少女とともにいるはずだ。
薬莢を夜丸に見せながら八島は言った。
「見つけたら銃を持ってる方を先に殺せ。善丸の仇を獲るぞ」
牙を剥き、夜丸が「グルル」と呻った。行け、と八島が命じると夜丸は臭気を頼りに森の中へ駆け出した。八島は9ミリ拳銃を手に、走って夜丸の後を追った。
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