第2話 処刑
ボディが迷彩色の2tトラックの荷台から降ろされたのは、二匹のオオカミだった。
鼻をひくつかせ、周囲の森を見回した後、オオカミは『
「よし、いいぞ」
二匹のオオカミは1メートル30センチ近くある巨体だった。体毛は茶色く、尾の先端だけ僅かに黒い。通常より発達した前肢と大きな目が特徴的だった。
エゾオオカミを基礎とし、品種改良と薬物投与を重ねたオオカミ型『
北海道に生息していたエゾオオカミは明治頃に絶滅したとされるが、当時既に猛獣の兵器化計画を立てていた日本軍は国内に生息する多数の動物を捕獲していた。エゾオオカミも数匹捕獲されており、施設内で繁殖と品種改良を加えられ、『獣兵』へと仕立て上げられた。オオカミ型『獣兵』部隊は、第二次大戦において日本軍の主力『獣兵』の一つとなった。
戦後も『
『山狩りオオカミ』は愛称であり、正式名称は『
八島が与えた餌には微量の『獣兵薬』が含まれていた。ちょっとした興奮剤程度の効能がある。トラックの中で眠りこけていた彼らも、これで瞬く間に目を覚ますだろう。
「これが逃走した少女の衣類です」
背後に立っていた軍服姿の女性が、八島にTシャツを一枚渡した。八島は丁寧に両手でTシャツを受け取った。
黒い長髪を緩く三つ編みに結わえ、軍帽を被り、紺の軍服に身を包んだ女は八島よりも背が高い。身長は180センチはあるだろう。腰に差してある同じサイズのはずの軍刀が、八島の物より小さく見えてしまう。
女は柔和にほほ笑み、「よろしく頼みますよ」と告げた。
端正な顔立ちで、微笑を称えるとキツネのように目が細くなった。しかし、顔に刻まれた大きな創が美貌に不気味なコントラストを添えていた。深い刃物創が右眉から左頬にかけて斜めに走り、たとえ横顔でもその創を無視はできない。
八島は敬礼し、女に言った。
「お任せ下さい、
「逃亡犯ですので、発見次第殺して構いません」鍵原はほほ笑んだまま言った。「ただ、その子たちの餌にする前に一度持ち帰って下さい。身元を確認します」
「了解致しました。『山狩りオオカミ』は優秀ですので、間違って食い散らかすことはありません」
「期待しています」
鍵原は踵を返し、ロッジの中へ入った。八島は待たせていた善丸と夜丸に標的のTシャツの匂いを嗅がせた。少女が逃げたという方角を指さし、善丸に「行け!」と命じた。善丸は鋭い爪を備えた足で地面を蹴ると、瞬く間に森の闇へ消えていった。
「俺たちも行くぞ、夜丸」
夜丸を伴い、八島は徒歩で善丸を追った。
八島の装備は軍刀と9ミリ拳銃のみだった。オオカミたちにはリードも首輪も無かった。索敵と暗殺を主な任務とする彼らには爆弾も仕掛けられていない。消耗品として投入される量産型『獣兵』と違い、『山狩りオオカミ』は精鋭だった。八島が手塩にかけて育てた優れたアサシン。上官の命令に忠実に従い、任務を全うする完成された兵士なのである。
如何な任務も全力であたることをモットーとする八島であったが、今回ばかりは肩透かしな気分だった。八島と『山狩りオオカミ』、三人の追跡者からただの子供が逃げられるはずがない。少女が逃走したのはつい五分前、この暗さでさえなければ八島だけでも事足りる距離にいることは間違いなかった。
ロッジの中に戻った
ロッジの内装は外観より遥かに清潔だったが、妙なことに窓がベニヤで塞がれていた。それに生活感があまりに乏しい。天井から吊るされた電球は夜を照らすにはあまりに小さかった。
「逃走した少女は、八島軍曹が『獣兵』とともに追跡します。じきに見つかるでしょう」
鍵原の顔には笑みが貼り付いたままだった。
「さて、今藤上等と井平一等」
無意識に、二人はぴんと背筋を伸ばしていた。鍵原の細く開いた瞼の奥から、小さな黒目が二人を凝視している。鍵原は愛想よく首を傾げ、尋ねた。
「どうして少女を撃たなかったんですか?」
今藤が頭を下げ陳謝した。「申し訳ありません」
上官が責任を問われる前に、井平が早口で言った。
「私が撃ちませんでした!」
鍵原が反対側へ首を傾げる。「何故ですか?」
「こ……」一瞬口ごもるも、井平は声を張って答えた。「子供でしたので……標的が子供でしたので、躊躇いました」
「ほう」鍵原は井平に一歩歩み寄った。「子供だったから」
じっと、鍵原が井平の顔を見つめた。井平は肝が冷える思いだったが、目を逸らしてはいけなかった。上官のプレッシャーに耐え、鍵原と目を合わせ続けた。
ほんの数秒間、井平にとっては何十分にも思える、心臓を圧し潰されるような沈黙の後、鍵原はくるっと後ろを向いた。所々破けた絨毯の上を散歩しながら、鍵原は言った。
「では、井平一等。ここが戦場だったとしましょう」
「……?」
こういったやり取りに慣れているのか、鍵原に憤ったり呆れたりする様子はなく、むしろ飄々としていた。部下に対しても口調が丁寧過ぎると評判の鍵原だったが、その実柔らかい口調であるが故の圧迫感があった。
「あなたはスナイパーです。百メートル前方に仲間が居ます。さらにその五十メートル先に子供が一人」
鍵原は絨毯の上を行ったり来たりしながら人差し指を立てた。
「子供は体じゅうに爆弾を巻いています。凄い量です。仲間は子供が接近していることに気がついていません。死角なのです。子供に気づいているのはあなただけ」
ぴたっと足を止め、鍵原が井平を向いた。外から戻って来た時と一切変わらない笑顔が、井平を捉えて離さなかった。
「視界良好、無風。弾は全弾装填されています。コンディションは万全です。子供が仲間を爆破するまであと十秒。井平一等はどうしますか?」
「……」井平は背筋が凍るのを感じた。威勢は消え失せていた。「……撃ちます」
「誰を?」
「子供を撃ちます」
「何故ですか?」
「……仲間を守るためです」
「正解、百点満点です」
ブーツが床の木板をカツカツと叩いた。鍵原が滑らかな歩調で井平の眼前に迫った。長身の鍵原が、やはり笑顔で井平を見下ろした。十センチ以上小さい井平からだと、鍵原の睫毛の長さが不気味なほど際立って見えた。ここまで近づいて初めて、井平は鍵原の肩幅が自分より遥かに大きなことに気がついた。
「もう一度訊きますね、井平一等」
「……」
「何故、ここから逃げた少女を撃たなかったんですか?」
「……っ」
始終、相棒が詰問される様を傍から見ていた今藤は冷や汗をかいていた。淑女の貫禄と歴戦の風格を併せ持つこの女上官の、なんと恐ろしいことか。タチの悪い詰め将棋を見ているかのようだった。じわじわと追い詰め、嬲り殺す。これならただ声がデカいだけの老害上官の方がまだ相手にし易い。
誤魔化しが通じず、着実に理詰めするタイプの上官は最も敵に回したくない。隊内での立場が危うくなる一方だからだ。加えて、鍵原の大柄な体は御年四十と思えないほどエネルギッシュで、物理的にも敵う気がしない。
「それは……」
井平の目が泳いでいた。彼女はまだ若い。同じくらいの年齢だったなら、今藤も子供を撃つのを躊躇っただろう。流石に不憫に思い、今藤は助け舟を出そうとした。
「まあ、いいでしょう」
鍵原はあっさり退き、井平を迂回してリビングの奥へ向かった。今藤はぽかんとした。井平も面食らっていた。
「大尉……?」
「間近に迫る危機と違い、長期的危機は見極めが難しいものです。井平一等がまだわからないのも無理はないかもしれません」
キッチンの前の床に、大人一人分くらいの幅がある正方形の穴が空いていた。そこで鍵原が立ち止まり、井平と今藤を振り向いた。こちらへ来るよう促していた。二人は駆け足で向かった。
今藤は嫌な予感を覚えていた。鍵原大尉が「こんな程度で終わるはずがない」という確信があった。こんなに部下に甘い上官ではない。
穴の下には地下へ降りる階段があった。コンクリートの天井から吊り下げられた裸電球が照らす冷たい階段を、鍵原は降りて行った。二人は後について行った。
「ただ私も鬼ではありません。一回の失敗で井平一等のキャリアに傷をつけるような真似はしたくありません」
階段を降りた先は、いきなり明るかった。地下室は地上のロッジの倍の広さがあり、シャンデリアとあちこちに置かれた蝋燭が室内を暖色に照らしていた。
地下室は礼拝堂になっていた。ささやかな数列の長椅子に、祭壇、十字架に磔にされたイレストの像。ステンドグラスを印刷したポスターが四方の壁に貼られている。
「戦争は政治です。爆弾を持った子供が政治犯であるように、我が国内で神を崇拝する者も断罪すべき政治犯なのですよ、井平一等」
地下礼拝堂には数人の兵士と、拘束された信者たちがいた。信者たちは壁際に集められ、後ろ手を結束バンドで縛られていた。中には抵抗したのか、顔が腫れている男も何人かいる。一列だけ倒れた長椅子があり、その傍に腹から流血して倒れた女がいた。出血量からして、既に死んでいた。
ある者は怯えた顔で、ある者は憎しみの眼差しで、井平たちを見た。老婆がぶつぶつと何かを呟いていると、兵士の一人が歩み寄って「喋るな!」と怒鳴った。
「念仏を唱えやがって」
隣に居た兵が肩を叩く。「
淀川一等兵は苛立たし気に老婆に向かって痰を吐いた。
「一緒だろ。ぶつぶつと気持ち悪ぃ」
鍵原が井平を見ていた。井平はハッとして鍵原と目を合わせた。鍵原は祭壇へ続く通路の中心で、両手を広げてみせた。
「見てください井平一等、この許されざる光景を」
「……」
わかっている。この場所がどれだけ罪深いかは理解している。だからこそ逃げ出そうとした四人のイレシタンを撃った。そのことに後悔は無い。ただ、井平の中にある良心が、人間の部分が、兵士に徹し切れなかった部分が、あの子供を撃ち殺すことを躊躇させてしまった。
一九四一年以降、大日本帝国では全ての宗教の崇拝が禁止されている。ここは地上のロッジでカムフラージュされた、イレスト教の秘密教会なのだ。
隠れイレシタンたちは週に一度、この秘密教会に集いミサを行っていた。鍵原が率いる中隊の今宵の任務は、隠れイレシタンの摘発だった。先日別件で逮捕したイレシタンから、このロッジの場所を聞き出したのである。
釧路を統制する歩兵第二七連隊に属し、鍵原大尉が指揮を執る第一中隊において、密かに宗教活動を働く犯罪者の排除は非常に重要な任務だった。いくら摘んでも湧く隠れ信者たちの排除は常に急務だった。長年この地に隠れ潜み続けた宗教家たちの捜査には酷く骨が折れ、またその数があまりに多過ぎるために、鍵原大尉が取るようになったのは、今回のような半ば強引に信者たちを抹殺する手段だった。
「イレスト教、仏教、ユガヤ教、イグラム教……数えればキリがないですが、我が国内で宗教を布教することは凶悪な犯罪です。それこそ殺人にさえ等しいでしょう」
拘束された信者の中にいる男が、鍵原を睨みつけた。先ほど怒鳴っていた淀川一等兵が歩み寄り、小銃の銃床で殴りつけた。
「爆弾を持った子供は撃って良くて、イレシタンの子供は躊躇う理由がどこにありますか? 井平一等」
「……」井平に許された答えはたった一つだった。「ありません」
信者の男が大声で喚いた。また淀川が男を殴った。淀川は暴れる男を執拗に殴打し、やがて声が聞こえなくなった。鍵原から目を離せないため井平がそちらを向くことは許されなかったが、信者の男は顔が変形し、気を失っていた。
鍵原は男の怒声も悲鳴も、全く意に介していなかった。
「いい返事です、井平一等。これで安心して仕事を任せられますね」
鍵原が祭壇へ足を向け、井平と近藤はついて行った。祭壇の前に、一人だけ個別に拘束された男がいた。金髪の白人だった。
鍵原は友人を紹介するような調子で男を手で指した。
「彼はジェイク・パーキン。この教会の神父です。在日アメリカ人ですね。普段は教師をしています。彼の祖父もここで神父をしていました。信者とその子供を招いては、ミサをしていたのです」
パーキンは既に何度か殴られ、左頬が腫れていた。椅子の肘掛けと脚に、それぞれ手足を縛りつけられていた。足下にちぎられたロザリオが落ちていた。
「今件の主犯は彼です。そして井平一等が撃ち損ねたのは、彼の一人娘というわけです」
「彼があの子の、父親……」
パーキンは充血した目で、ギロリと井平を睨んだ。紅潮した顔には明らかな怒気と憎悪が滲んでいた。
神父として祭壇に立つ時間は限られていたのだろう、パーキンは神職とは全く縁のない普段着姿だった。首に提げていたロザリオと手にする聖書だけが、彼の神職者としての象徴だったのだろう。そのロザリオは無惨に床に放られ、兵に踏みつけられた聖書には足跡がついていた。
鍵原が初めて表情を変えた。眉をひそめ、哀れみの目をパーキンに向けたのだ。
「あなたのお子さんも気の毒ですねぇ、パーキンさん。私の部下が上手く撃てていれば、楽に死ねたというのに。今頃オオカミに食べられ、それはもう苦しんで息を引き取るでしょうね」
パーキンが目を丸くして、鍵原を見上げた。鍵原は柔和な笑顔に戻ると、井平の肩に手を置いて言った。
「ですが安心してください。あなたには少々訊きたいことがあるのでもう少しお付き合いいただきますが、この私の部下が逃亡犯を見事目撃したおかげで、他の信者たちはこの後すぐに処刑できます」
鍵原の声は信者たちにも聞こえていた。パーキンの顔がぶるぶる震え出した。
「拘留も裁判も、面倒な手続きもありません。絞首台に登る恐怖を味わう必要もありません。我々がすぐに楽にして差し上げますよ!」
堰を切ったように、パーキンが怒号を上げた。彼は英語で喋った。
「〈なんと恐れ知らずの者たちだ! この暴君どもめ! 地獄に堕ちろ! 貴様らのような暴君を、主がお赦しになるはずがない! 貴様らは罰を受けるぞ! お前も、お前も、お前もだ!〉」
パーキンが井平や今藤、周囲の兵士を見回して怒鳴り散らす。一部の兵士はクスクスと嘲っていた。淀川が仲間と小声で話しながら、パーキンを指さしていた。
「〈主はお前たちの行いを見ておられる! 貴様らは必ず地獄へ堕ちるだろう! 外道どもめ!〉」
パーキンは血の混ざった唾を飛ばしていた。彼の前歯は一本無くなっていた。
鍵原が困ったように、こめかみを掻いた。
「日本語話者なんですから、日本語で話してくださいよ。一応私も英語はわかりますが、早口だと聞き取りづらいです」
何気なくパーキンに近寄ると、鍵原は軍刀の柄で顔面を殴った。低い悲鳴を上げたパーキンの口から、歯が一本こぼれ落ちた。静かになったパーキンの口から、血が滝のように流れ出ていた。
鍵原はパーキンの傍らで待機していた部下に、短く命じた。
「
「は!」部下は敬礼した。
礼拝堂にいた兵士が集まり、長椅子を蹴りどかしてスペースを作った。信者たちを祭壇の正面の通路へ移動させ、数人の兵士が取り囲んだ。兵士は全員、軍刀を抜いた。わざわざパーキンに見える場所で、兵たちは処刑を執り行った。
信者たちが震えあがり、口々に命乞いした。当然、聞く耳を持つ兵士はいない。足にすがりつこうとした女の首に、淀川が軍刀を突き刺した。「ぐえっ」と悲鳴を上げ、女は床に崩れた。
「おい待て淀川一等、フライングだぞ」
隣の兵士が嗜めた。その兵士は軍刀を頭上に掲げ、信者たちを見下ろした。
その目は、同じ人間を見る目をしていなかった。
「三つ数えて切るぞ。三回もやれば片付く」
「了解」
信者たちが泣き喚く。走って逃げようとした者を、兵士が蹴飛ばして輪の中心に戻す。信者たちの悲鳴のなかに、子供の身を案じる声があった。つい振り向いた井平と、こちらを向いていた女性の目が合った。
鍵原が井平を呼んだ。「井平一等、こちらへ」
鍵原は祭壇の奥にあるドアを顎で指していた。井平は鍵原が先ほど、信者の中に子供が複数居たのを仄めかしていたのを思い出した。
井平は、さっきの女性が自分を見ていたのではなく、このドアを見ていたのだと気がついた。
「こっちの談話室に、子供がいます。六人ほどです」
鍵原が近づくと、見張りをしていた部下がドアを開けた。先ほどの女性と思しき悲愴な叫び声が背後から聞こえた。鍵原に促されるままに、井平は談話室に入った。
「いち、にの、さーん」兵の呑気な合図の後、音が途切れた。
ドアが閉じて音が遮断されたのか、そもそも悲鳴を上げる者が死んだのかわからなかった。井平は室内を見渡した。
井平と近藤が入った談話室には、5歳から10歳ほどの子供たちがいた。こちらは大人たちと違い、全員手だけでなく足も結束バンドで縛られている。室内には電気ストーブがあり、礼拝堂より遥かに暖かかった。五人が一つのソファに敷き詰められ、一人が床に座り込んでいた。ソファの後ろにある棚は戸が外れ、割れたガラスに血がついていた。
子供たちは泣いていた。幼い子はみんな泣き叫び、年長の10歳ほどの子も涙目で、助けを乞うように井平を見た。その子は首からロザリオを提げていた。拘束されて長時間経つため、誰かが失禁した臭いが漂っていた。
「この子たちも全員、イレシタンです。外にいる重罪人たちの子供です」
鍵原が棚からある物を手に取り、井平に手渡した。
「これで、全員撲殺して下さい」
井平の手に握らされたのは、分厚い一冊の本だった。
「……え?」
「聖書です。この場で彼らの次に罪深い品です」
井平は呆然と鍵原を見た。鍵原はにこっとした。今藤は微かに顔をしかめたが、諦めるように目を瞑った。やっぱりなと、彼は内心でぼやいた。
「……大尉?」
「角で殴っても、表面でぶっても構いません。もし壊れても、まだ何冊もあるので足りるはずですよ」
「……」
「これで殺すことで、神などいないことをこの子たちに教えてあげましょう」
井平は青ざめた。この優しい笑顔の仮面を顔に貼り付けた大尉が、冗談を言ったところを見たことはない。
今、この場で、この子供たちを殺せと命令しているのだ。
軍人ならば従わなければならない、上官命令だ。
井平がごくりと唾を呑み込む音が、鍵原に聞こえてしまっているような気がした。鍵原は子供たちが井平の視界に入らないよう立ち塞がった。肩に手を置き、自分だけを見つめさせて鍵原は井平に語りかけた。
「パーキンさんのお子さんを見逃したのが、ほんの気の迷いであったことを、証明してください。井平一等」
チャンスをやる、と鍵原は言っているのだ。
「失敗は取り返せばいいんですよ、井平一等。あなたには期待しているのです。あなたは昔の私に似ています。ただほんの少し……おかしなところで踏ん切りが足りません」
おかしなところ?
子供を手にかけるのを躊躇うことが、おかしなところだっていうのか?
「これであなたも一皮剥けるでしょう。井平一等」顔を寄せ、鍵原は耳もとで囁いた。「私の信頼を取り戻して下さい。じゃないと、処理する死体が一つ増えてしまいます」
「……ッ」
井平の全身に鳥肌が立った。
暗に子供を殺さねばお前を殺すと、脅されていた。鍵原には井平を処刑する道理がある。逃走する隠れイレシタンを射殺せよ、という命令に井平は一度
ここでやらねば、死ぬのは自分……。
「今藤上等は、井平一等を手伝ってあげてください。きっと暴れるので、殴りやすいように押さえてあげるのが良いですよ」
「……わかりました」
ポンポン、と肩を叩いて鍵原は談話室を出た。閉じられたドアを、井平はゆっくりと振り向いた。ドアの向こうから、鍵原の視線を感じた。鍵原が透視して井平のことを監視しているかのような錯覚に囚われた。
今藤が井平の背中を小突いた。
「ほら、早くやれよ」
お前の所為だぞ、とでも言いたげな表情だった。井平は手にした聖書に目を落とし、それからソファにいる子供たちを見た。おそらく唯一撲殺の意味を知っているであろう年長の女の子が泣き顔でかぶりを振っていた。何度も何度もかぶりを振った。
「……」
聖書の実物を初めて見た。こんなに重い物なんだな、と思った。どんな内容が書かれているのか、井平は知らなかった。これのページを開いた瞬間、今藤は井平を軍刀で斬り捨てるだろう。聖書を読むことが許されているのは、ごく限られた学者だけだ。それだけ危険な代物だった。ようやく井平は、今持っている物が爆弾と等しい凶器であることに気づいた。
子供だからと躊躇った少年兵が多くの仲間を爆殺するように。
子供だからと躊躇ったあの少女が、やがて宣教師となり、多くの信者を生むとしたら。
ここにいる子供たちが、いずれ第二第三のパーキンになるのだとしたら。
ここで、摘まねば。
後ずさることは許されなかった。井平は前へ歩み出た。最初に、年長の女の子を殺すことにした。一番絶望を肌で味わっている子だったから、早く解放してあげようと思った。
今藤がソファから女の子を引きずり落とし、井平の前で正座させた。背後から首を掴んで押さえ、頭を突き出させた。
井平は聖書を振りかぶった。厚みと重みは、立派な鈍器だった。
「ごめんよ」
声には出さず、唇だけをそう動かした。首を振り続けていた女の子の顔が、凍りついた。瞳に、聖書で殴りかかる自分が映り込んでいた。
今藤が言った。「掛け声してやろうか、いちにのさんって」
井平は感情の無い声で答えた。
「結構です」
鈍い打撃音が響いた。礼拝堂にいた女性と似ている子だな、と繰り返し殴りながら思った。別の誰かの行いを、俯瞰しているような感覚だった。ここにいる子供たちは皆、井平が見逃した少女よりも幼かった。小さな体は簡単に壊れ、いっそその手応えは
聖書は一冊で足りた。終わる頃には、聖書は真っ赤に濡れて固まり、開くことは二度とできなくなった。
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