CHAPTER.1 人狩りの少女

第1話 狙撃手


 七ヶ月前



 西暦二〇〇〇年 五月

 大日本帝国

 北海道釧路 某山奥


 五月だというのに、道東の気温は冬のように寒かった。大自然に囲まれた港町を見事なまでの銀世界に染め上げていた雪が姿を消し、ようやく春が訪れたかに思われた矢先、今年のゴールデンウィークにはあろうことか降雪が観測された。地域によってはまだ雪が残っていた場所もあるだろう。除雪が必要なほど降り積もることはないものの、四ヶ月に渡り真っ白な景色に付き合わされていた道東人はうんざりした気分だっただろう。

 この地域の春はやけに短い。桜を見られるのもほんの一瞬だ。寒さもあり、花見などもってのほか。去年は強風も合いまった大雨の所為で桜は一日ももたなかった。今年は一目でも桜を拝むことができればいいのだが。

 井平いへい早恵さえ陸軍一等兵は、息が白く凍る寒さに辟易しつつ、忍耐強くスコープを覗き込んでいた。もっと厚着にすれば良かったと彼女は思っていた。この程度の寒さは雪が降っていた頃に比べれば大したことはない。問題は冬用の外套を着てこなかったことだ。釧路で生まれ育った彼女は地元のしつこい寒さを知っていたはずなのに、五月というカレンダーの数字に踊らされてしまったらしい。

 夜だった。井平は林道沿いに停められた、闇夜に紛れる黒いワゴンの車内からアメリカ製の狙撃銃M24SWSを構えていた。後部座席の右側の窓を開き、二脚で高さを維持したM24の傍らで、井平は胡坐をかいていた。

 シートには予備のマガジンと軍刀が置いてある。本当は外したくないが、軍刀は狭い車内では射撃姿勢の邪魔になるため鞘ごとベルトから抜いていた。

 暗視スコープは支給されなかったため、頼りになる光源は月明かりだけだった。街からも離れており、外灯の明かりさえ届かない。井平は注意深く目を凝らし、スコープ越しに監視しているロッジから標的が現れるのを今か今かと待っていた。

 今宵は半月だった。満月では明る過ぎて身を隠すことができない。ちょうどいい月だ。月光を浴びた冷たい森の木々が、うっすらとしたシルエットを浮かび上がらせていた。ワゴンの近くにあるトドマツの樹皮の模様がはっきりと見えた。薄闇の中では、トドマツもこの寒さに縮こまっているようだった。

 待機し始めてから一時間が経っていた。白い息とともに井平はため息を吐いてしまった。

「寒いな、井平一等」

 話しかけてきたのは、運転席にいる今藤こんどう二郎じろう上等兵だった。今藤は運転手と観測手を務めていた。彼は双眼鏡を用いてロッジを監視し、井平のサポートを担っていた。

「ため息が漏れるのもわかるぜ。こんなに立派なエアコンが付いてるのに、ヒーターを付けられないとはな」

「音でバレますからね」

「こっちの気候はおかし過ぎる。もうイヤになってくるよ」

 井平と近藤はそれぞれのレンズに集中したまま話した。もちろん、互いにしか聞き取れない小さな声だった。

「今藤上等は札幌出身でしたっけ?」

「ああ。同じ北海道でもまるで別モンだな。まさかこっちにはゴキブリもいねぇとは思わなかったよ」

「私はこっちの育ちなんですけどね、実は見たことがありません」

「マジかよ」

「高校の修学旅行で京都に行ったんですが、その時に友人が見たとはしゃいでいました。私は見逃しましたけどね」

「あんなもんわざわざ見るもんじゃねぇぞ。だいたい、見たとしてもすぐに物陰に隠れるからな」

「奴らは首をもいでも死なないというのは本当ですか?」

「どうだろうな。首がどうとかいう前に、二度と起き上がれないように潰しちまうからな俺は」

 今藤が可笑しそうに笑みをこぼした。

「首がもげても動くといえば、第二次大戦の首なし『獣兵』の話を知ってるか?」

「戦車の砲弾に頭を吹き飛ばされても暴れ続けたヒグマのことですか? 逸話でしょう? 当時の士気を上げるための」

 井平は冷えた手を一旦開いてグーパーし、グリップを握り直した。冷ややかな口調で彼女は言った。

「どうせ耳が片方欠けたとか、皮が焼けたとかそんなもんですよ、実際は。いくら『獣兵』といったって、あんなデカい獣が首もなく動けるわけがない」

「ロマンが無ぇなぁ」

「当時の疲弊し切った兵にとっては良いおとぎ話だったかもしれませんけどね。よもや敗戦間近という戦況だったわけですし。でもロマンだけじゃ戦争には勝てない。いつだって現実を決めるのはそこにある事実だけです」彼らが監視するロッジは、ワゴン車から二百メートル先にあった。井平の目が微かに細くなり、ロッジを睨みつけた。「あいつらとは違ってね」

 ロッジは周囲を木々に囲まれ鬱蒼としており、廃屋だと言われても納得するような寂れた建物だった。しかしその正体は、ここから窺える外観とはかけ離れている。

 井平たちに正面を向いたロッジの前には、もとからあったワゴン車が三台と、井平たちの上官が伴った高機動車と2tトラックが二台停められていた。ワゴン車はロッジの左側に停められており、上官が乗っていた車両も井平の狙撃の邪魔にならないように、ドアと被らないよう右の森に寄せて停車されていた。

 300メートル先のロッジから生じた小さな物音を、井平と近藤の凍てついて真っ赤になった耳は捉えた。ロッジのドアが外へ勢いよく押し開けられた。

 運転席から今藤が「出たぞ!」と声を上げた。

 井平は素早くトリガーに指をかけた。

 ロッジから四人の男女が飛び出てきた。四人とも上着を身につけておらず、酷く慌てふためいていた。何かから逃げるようにロッジを出た彼らは、一目散にワゴン車へ向かった。

 薄闇を駆ける彼らの人相を今藤は認めた。男が三人、女が一人。うち一人、白人の男がいた。

「車に乗る前に仕留めろ。頭なら5ポイントだ」白い息を吐きながら今藤が言った。

 最も速く車に駆け寄った邦人男性に、井平は照準を合わせた。男の手が運転席のドアに触れようとしていた。

「背中なら何ポイントです?」

 井平の問いに今藤は遺憾そうに答えた。

「残念ながら1ポイントしか差し上げられない」

 井平はトリガーを引いた。M24SWSが放った7.62x51mm弾は、ドアを開けようとした男の側頭部を撃ち抜いた。男の頭が爆ぜ、頭蓋や脳が飛び散った。

 サイレンサーの乾いた銃声が鳴った。ボルトを引き、排莢口から吐き出た薬莢がシートの背凭れを跳ねて軍刀の鞘にカツンと当たった。ボルトを押し込み、次弾を薬室に送る。

「なんだ、できるじゃねぇか」今藤が鼻を鳴らす。「次は女がいい。男が持ってたキーを拾おうとしてる」

 今藤の指示通り、井平は死体に近づく女を狙撃した。こちらに背を向けて前屈みになっていたため頭は狙えず、井平は女の太腿を撃った。電気ショックでも受けたように背を仰け反らせ、女はその場に崩れた。

「血が派手に出た。動脈をいったな、次だ。女はポイント倍だ。脚は2ポイントだから、倍で4ポイントだな」

 残りの男たちは車を諦め、森の方へ逃げて行った。

「どっちでもいいけど、足が速い方から片付けるか」

「じゃあデカい方で」

 英語で何かを喚きながら走る白人男性の後頭部を、井平は撃ち抜いた。素早くボルトを引き、続けて両腕で頭を抱えて森へ向かう男を撃った。

 今藤が口笛を吹いた。ロッジのドアへ照準を戻して井平は言った。

「10ポイント頂きます」

「お見事。女ももうじき息絶える」

 時々何かの動物が立てる、枝の折れるような音しか聞こえない深い森の中では、サイレンサーの小さな銃声も狙撃された彼らには聞こえていたかもしれないが、だとしても素人に狙撃者の居場所がわかるはずもない。自分たちを狙撃している者がどこにいるかなど考える暇さえ、彼らには無かっただろう。外に出た時には既にパニックに陥っていた彼らを撃つことは、動物を狙撃することより容易だった。

「スコアは19ポイントだ。腕が良いな、井平一等」

 ロッジのドアは開け放たれたままだった。屋内の明かりが漏れ、非常に見やすかった。誰かが顔を出した瞬間に撃ち抜けるが、間違えて仲間を撃たないようにしなければ。

「札幌で仏教徒と戦り合った時は一晩で100ポイント近く稼いだ奴がいたな。どこに撃ってもポイント稼げそうな惨状だったからな」

 今藤が笑ってそう言った。つい今しがた殺した、顔さえろくに見ていない四人の死に様を想起しつつ井平は訊いた。

「どうして女はスコアが倍なんですか?」

「どうしてだったかな。体が小さいからだった気がする。ポイント制を思いついたのは東京の連中だからな。札幌にいた頃は一番ハイスコアだった兵に、その晩パンを多く分けてやったりしてたっけな。誰がイチバン稼ぐか賭けてる連中も居たな」

「どこを撃ったら一番ポイントが高いんです?」

「目だ。滅多に見たことないぞ、目ん玉ドンピシャで撃てるやつなんて」

 自分の弾に呆気なく倒れた男女に、井平は何ら感傷を覚えなかった。死んで当然だと思って、彼女は仕事を処理したまでだ。惜しむことがあるとしたら、女の頭を撃ち抜けずハイスコアを取り損ねたことだ。

 井平は口をにやりとさせた。

「じゃあ、次は目を撃ち抜きますよ」

「お、やる気だなぁ。いいぞ、もし出来たら飯を奢ってやる」

 深呼吸し、井平はより集中してスコープを覗いた。何を奢られようとどうでもいいが、ハイスコアを取ることには関心がある。命中精度を誇ることは狙撃手にとって一番の誉れだ。

「いくら貰えるんです?」

「10ポイントさ」

「わお」

 それから暫く、次の獲物は出てこなかった。また手がかじかんできたので、井平はグリップを握り直した。退屈してきたのか、今藤は無駄話を始めた。

「それにしても鍵原大尉もえぐいよなぁ。イレシタンどもを牢屋にブチ込む手間を省くために、わざと逃亡させて射殺するなんてよ」

 今藤の口調には、狙撃のために自分たちがこんな寒い思いをしていることへの愚痴も含まれていた。井平もその意見には同感だった。

 実際、今藤の指摘はもっともだった。

 井平たちが属する第二七歩兵連隊第一中隊の中隊長を務め、今夜の隠れイレシタン摘発の指揮を執っている鍵原かぎわら大尉は、敢えてロッジの出口に見張りを配置せず、逃げ道を残しているのだ。意図的に隙を見せることで、中に居る者たちに脱出のチャンスがあると思い込ませる。意を決して脱出を図ったところを、井平たちに狙撃させている。「抵抗した」という事実さえあれば、射殺が許されるからだ。そのためには見える場所に兵士が居てはいけない。外に出てすぐに降参されては射殺の大義名分を損なう。だから井平と今藤は二百メートルも離れた場所で、ヒーターも付けられずサイレンサーでこそこそ狙撃を行っている。

「一人でも脱走すりゃいいんだろ。もう四人も逃げようとしたんだし、ヒーター付けていいんじゃねぇか?」

「まだ駄目ですよ、勝手なことしちゃあ」

 その時、ロッジの屋内に影が差した。誰かがドアに向かって来ている。無駄口を叩いていた今藤の語気が、スイッチが切り替わったように鋭利になった。

「来るぞ」

「ええ」

 仲間でなく、尚且つロッジから一歩でも出た瞬間に、目玉を撃ち抜いてやる。成功すれば10ポイント。

 影が明確な輪郭を描き、出口に接近した。井平はトリガーに指をかけ、ゆっくりと絞り始めた。

 人影が一つ、外に出てきた。さっきの四人と同じように走っていた。引き返す素振りはない。逃亡だ、射殺して良し。

「撃て」今藤が命じる。

 井平は迷いなく、人影に照準を合わせた。目を撃ち抜くために、いつもよりも慎重に狙いをつける。

 人影は小柄だった。目を撃つために井平はその人物の顔をよく注視しなくてはならなかった。自然とその風貌が、井平の目に映った。

 赤いパーカー。フードを深く被った茶髪のその人物が吐く白い息と、頬を伝う涙まで鮮明に見えた。何かの明かりを反射しているのか、瞳が黄色く光っていた。

 闇夜に灯る猫の目のように、二つの光が浮かんでいた。奇妙だと思ったが、目が光ってくれるなら狙いやすい、好都合だ。井平はトリガーを絞り切ろうとした。

 その人物は、泣き腫らした目でまっすぐこちらを見ていた。井平は二百メートル離れ、闇に紛れたワゴンの中。日中ならまだしも、肉眼で捉えられるはずがない。だが何故か、井平はその人物と目が合ったような気がした。

 トリガーを絞っていた井平の指が止まった。狙撃のタイミングから遅れた井平を、今藤が双眼鏡を覗きながら促した。

「撃て、井平」

 井平の目はその人物に釘付けになっていた。あと少しで引き切るトリガーを引き切れず、井平は目を見張っていた。

 痺れを切らした今藤が怒鳴った。

「井平! どうした撃て!」

 まばたきを忘れ、スコープに映る人物を見つめたまま、井平はぼそりと呟いた。

「子供……」

 小さな人影は、子供だった。

 12~3歳程度の少女だ。目を狙おうとした所為で、幼い顔をよりはっきりと井平は捉えてしまった。途端に体が硬直し、撃てなくなった。

 自分が撃ったものが、撃とうとしていたものが、

「撃て井平一等ッ!」

「っ!」

 今藤の怒号にビクッと震え、我を取り戻した井平はトリガーを引いた。照準がずれたうえ少女は走っていたため、弾丸は全く別の場所に当たった。

「逃げるぞ!」

 井平は急いで少女をスコープで追った。再び狙撃を試みたが、弾丸は少女の背後を素通りしてトドマツにめり込んだ。急いでボルトを引くも、一つ一つの動作が精彩を欠いていた。シートの背に遮られ井平の様子を確認できない今藤にも、排莢の音から次の射撃までの遅さで相棒の不調がはっきりとわかった。

 三発目を撃とうとした時には、少女は森の闇へ消えていた。井平は少女が走り去った方へ当てずっぽうに撃った。木に命中した音が聞こえた。

 井平は寒さを忘れていた。心拍が上がり、全身に汗をかいていた。息も乱れていた。今藤がシート越しに鬼の形相を覗かせた。

「井平! お前何やってやがる!?」

「……」

 井平はまだ呆然としていた。排莢さえ忘れている。寒さとは別の理由で小刻みに震える自分の手を、まじまじと見下ろしていた。

 今藤が双眼鏡で井平を殴りつけた。鈍い反応で、井平がゆっくり今藤を振り向いた。

「何逃がしてんだ馬鹿野郎!」

「……子供」

「は!?」

 薄闇の中でも、井平が青ざめていることは声の調子でわかった。屈強な兵士とは思えないか細い声で、井平は言った。

「子供だったんです……今、逃げて行ったのは……」

 今藤は眉間に深いしわを刻むと、自分の額に手をあてて深くため息を吐いた。運転席のシートにどかっともたれ、舌打ちした後、彼は再び双眼鏡でロッジの監視を始めた。

「だとしても、撃てよ」

 声には落胆の色が窺えた。今藤は無線でロッジにいる仲間に連絡をとった。少女を逃がしたことを報告した。

 拳を握りしめて、井平は少女が逃げて行った方角を肉眼で見た。黒く墓標のように立ち並ぶ木々と闇に遮られ、少女の行方はもはや井平の手の届かぬ所に居た。井平はぎゅっと目を瞑り、拳を額に打ち付けた。

 泣いていた少女の顔が、瞼の裏に焼きついていた。忘れられる気がしなかった。さっき殺した四人は、もう背格好さえ覚えていないというのに。

 無線を切った今藤が、やれやれと肩をすくめた。他人事のように彼は吐き捨てた。

「大尉にとっちめられても知らんぞ、俺は」


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