家に帰ると料理にはまった王様がフライパンを振っています。(短編)

雨傘ヒョウゴ

フライパンを持った王様

 

「つかれた……」


 と、思わず呟いてしまうのは、あまりよろしくない傾向なような気がした。数年の一人暮らしののちに、すっかり独り言が定着してしまったのだ。パンプスのかかとの高さを、こっそり低くしたのは最近だ。足腰の負担がとにかく辛い。


 楽な方にとどんどん流されているような気がする。財布の中から鍵を取り出して、さしこんだ。かちゃん、と音がする。扉を開けるとふんわりと食欲がそそる匂いが漂ってきて、以前なら真っ暗な廊下だったのに、リビングからは明るい光が漏れている。


「おー! ひまり! 帰ったか、飯ができたぞー」

「うーん……うーん……」


 じゅうじゅうと幸せな音を立てて、目の前で金髪碧眼の男が台所でフライパンを振っている。何度見てもミスマッチで、頭がおかしくなりそうな光景である。


「なに唸ってんだよ。ほら、さっさと手を洗って、着替えて席につけ。飯が冷めるだろうが」


 男はオカンのように木べらをこっちにビシリと向けて、私が使うことなく眠らせていた花柄エプロンをガタイの良すぎる体で着こなしている。「わ、わかったよう」 二十代中盤、この歳になって手を洗えと怒られるとは思ってもおらず。なんとも言えない気分である。背後では「さっさと戻ってこいよ、今がベストな食い時だからな!」と青年は腕を振り上げて主張している。


「さ、先に食べててもいいのにさあ……」

「うるせえうるせえ。ほら、手を洗ったら、席について、両手を合わせて!」

「どこで知ったのそれ……」

「テレビで見た。じゃなく、さんはい!」

「「いただきます!」」


 ぱちんっと両手を合わせる音がきこえる。

 彼の名前は、アルバート。実際はもうちょっと長い名前らしいけど、それでよろしい、と最初に彼がふんぞり返って言ったことだ。彼は異世界の王様で、とても偉い人らしいのだが、日本にやって来てからというもの料理の楽しさに目覚めてしまった。


 そして、うちの居候なのである。



 ***



 アルバートとの出会いは衝撃だった。

 唐突に、部屋の真ん中にもわもわと不思議な煙が漂ってきた、と思った瞬間、ぴかりと光り輝いた。もしかして火事なのでは、と遅れた思考の中慌てた。あとになってみれば考えても違うに決まっていたのだけれど、そのときはそんな冷静になることもできず食べていたどんぶりから箸を落として、う、うわぁああーーー!!? と悲鳴をあげた。社会人になって3年目、すっかり大人な気分でいたけれど大人だって混乱する。


 悲鳴をあげにあげまくって、気づけばテーブルの下に収まっていた私が最初に見たものは、半裸のイケメンだった。ハーーーア??? と様々な身の危険への混乱と、そもそもさっきの光はなんだったんだよと武器を捜すべく落ちた箸を握りしめていた私の心境をこれ以上語ることはやめよう。


 なぜそのとき逃亡という道を選ばなかったのか。やられる前にやってやる、と意外な戦闘民族的な自身の思考を知ってしまったとき、アルバートは上半身を裸のままに、金髪の髪をさらりと揺らしながら、テーブルの下に入り込んだ私に気づき、声をかけた。


「■△※§○▼∂○?」


 いや今なんていった。

 聞いたこともないおかしな言語に混乱した。外見からして外国語に間違いないのだろうけれど、べらべらべら、とまるでテープを逆再生にしたかのようなあまりにも不可思議な言葉だった。「※●△∃○……あ、あー、あー、こんにちは」 とんとん、と男は自分の喉を叩いた。その途端、やっと聞こえる言葉になった。びびりすぎて、潜り込んでいたテーブルの足を持ち上げて、ガンッと思いっきり頭を打った。


 彼は説明した。自分は異世界からやって来たのだと。


「異世界から勇者を召喚する技術は、すでに封印されていたんだが、どうにもうっかり扉が開いてしまったらしい」


 聖女やら勇者やら、異世界人に国の采配を委ねるのはあまりにも危険だし、なにより非人道的なものだから、自分が王になったときに、がっつりしっかり封印したのだ、と胸をはって説明するアルバート某は、私の目の前で椅子に足を開きながら座り、腕を組みつつふんぞり返っていた。鍛え抜かれすぎた上半身は色々と目に毒すぎるので首元にバスタオルを巻いてやった。それはそれでひどい状態なのだけれどおっぴろげよりもマシである。


 同じく彼と向かい合って座りながら疑いの瞳を向ける私に彼はさらに語った。どのようにアルバートは王になったのか。魔法とはどんなものか。異世界とは。彼が治める国のシステムや、政治。神話や歴史。まるでひとつの大きな地球が彼の頭の中にあった。これを一から想像したとなるとまるで難しいような、そんな話だった。私はそれを聞きながらも思った。


 ――こいつ、マジモンのやべーやつだと。


 部屋の真ん中に半裸で出てきた。それだけでも警報は鳴りすぎてすでにレッドカード10枚分は溜まっている。なのに彼は本気で言っている。自分が異世界から来たのだと。物語は完璧に出来上がっている。


 そのときの私は、まず信じるという可能性を初めから削ぎ落として、いかにしてこの場から逃亡するかの一点のみを思案していた。アルバートが何もないところから突如として出現したのは事実であるので、もうちょっと耳を傾けてあげてもよかったような気がするけど、そんな問題ではなかった。ただただ身の危険を感じていた。だから、申し訳ないと頭を下げた金髪異世界人に、「ヒイッ」と悲鳴をあげながら仰け反った。


「ひどく驚かせた。本当に申し訳なかった。そして恥を忍んでだが、できれば数日ばかり、この家に置いてもらえないだろうか。いつもとの世界に戻ることになるかはわからないが、俺はこの国のことを知らない。せめて理解をする時間がほしい」


 お断りだ。

 そう叫ぶことができていたらよかったのだけれど、ここで断って、逆上されたらたまらない。表向きにでもイエスと頷いておいて、寝入ったところで逃亡するか、警察を呼ぼうと瞬時の頭の中で計算した。ガクガク機械のように震えつつ頷くと、アルバートはぱっと瞳を輝かせた。西洋風な顔つきなので私よりも年上だと思っていたけれど、もしかすると年下なのかもしれない、とそのとき初めて思った。


 少年よ、こんなことをしていないで人生を有意義に使ってくれ、と心の中で呟きつつ、「お、お腹とか減ってない!? 何かつくろうか!!」 油断をさせるべく声をひくつかせながら提案した。ぐう、と彼のお腹がなったのは同タイミングだ。


 作ったものは簡単なチャーハンだった。一人暮らしは長いので、これくらいのことならできる。でも料理にパラメーターはあまり振っていない人生だったから多分普通くらいの出来栄えだ。なのにアルバートは、こんもりと山のようになったチャーハンにおそるおそるとレンゲを差し込んで、ゆっくりと口元にふくんだ。ぱあっと花が咲いた。


 うまい、うまい、と何度も口にかきこんだ。おかわりまでした。そんな彼の様子を見て、寝ている間に押そうとしていた電話の番号はすっかり忘れてしまって、彼が言う数日を過ぎても私はアルバートを追い出さなかった。ほだされてしまったのだ。そして異世界の王様は、食事にとても興味を持った。食べたことのない料理法だといたく感心して、すっかり部屋のこやしになっていた料理本をひっくり返し、様々な手法を学んだ。


 仕事が終わって帰ってみると彼はいつもフライパンを持っていて、じゃかじゃかおいしそうな音をたてて、にかりと笑う。居候兼、料理番の王様の誕生だった。



 ***



「……おいひまり、お前俺というものがありながら、昼飯は外で食ってきたな」

「ちょっとやめてよアルバート、人のスーツに鼻を押し付けてクンクンしないでくれる?」

「これは……なんだ、生姜? ひき肉……? くっそ、よくわかんねえ」

「十分わかってるしやめろって言ってるでしょうが!」


 スーツの上着を椅子にかけて彼が作るひき肉入りオムライスをうっとり食している最中、アルバートは目ざとく瞳をぎらりとさせて素早く私の上着をひったくった。「くそ……っ! どこの馬の骨の飯を食ってきたんだよ、そいつの骨が鳥なら煮込んでスープにしてやるのに……!!」と怒っている彼だが、日本語が異常にうますぎるのは魔法を使ってほんやくこんなんちゃらと同じようなことをしているのだという。文字も同じく読めるし書ける。すごいな魔法。


 それはともかく、半熟のオムライスにうっとりスプーンを差し入れつつ、騒ぐアルバートにふん、と顔をそむけた。


「お昼くらい好きなところで食べるわよ。職場が近いし美味しいんだもん。なんの文句があるっていうの」

「あるに決まってる! ひき肉が昼夜とかぶるだろうが! こっちはバランスを考えて作ってるんだぞ!?」

「その料理人としてのプライドはそろそろどこかに投げ捨てて!?」


 生まれながらに王様として育てられた彼は、自分で料理を作るという発想は今まで持っていなかったらしく、環境を変え、どうやらすっかり目覚めてしまったらしい。アルバートは新たな発見ばかりだと知識の収拾に毎日忙しい。もとの国に戻るためにはどうやら月の満ち欠けが重要で、いくら焦ったところで時間が解決するのだから仕方ない。それなら吸い取れるものはたんまり吸い取ってから国に帰ってみせると瞳に青い炎を灯していた。でも多分純粋に料理を楽しんでいる王様だった。


「朝ごはんも夜ごはんも作ってもらってるんだから、別にお昼くらいいいじゃん……」

「お、俺の飯は、嫌か……!? まさか、そんな……!?」


 そして微妙にプライドも高い。挫折を経験したことがないのか、彼は頭をくらりとさせて絨毯の上に倒れ込んでいる。「だ、誰もそうとは言ってないよ、朝も夜も悪いなって意味で」「まあ、めちゃくちゃうまいからな!」 そして食い気味で持ち直した。メンタルがタフすぎる。


「……正直さ、たまには手を抜いてもいいんだよ? 料理ってさあ、楽しいけど毎日になると大変じゃん。私にはそんな体力なかったからこういうけど。たまには何か買って帰ろうか」


 仕事終わりに家に帰って、幸せな音がする。そのことに、正直甘えてしまっている自分がいる。と、言いながらも冷めてしまう前にと慌ててスプーンを口にふくんだ。とろとろの卵の中にしっかりした味のひき肉が詰まっている。おいしい。


 絨毯からすでに復活していたアルバートは、目の前の椅子に座って、「何をいうか」とけらりと笑った。「こっちがしたくてしてんだ。昼飯だっていくらでも作るぞ。弁当ってのも、正直つくってみたい」「いやさすがに、そこまでは」 絶対大変だ。


 そこまで頼んでしまっては、社会人としての何かが崩れてしまう。すでにぐずぐずだ、というところは見ないふりをしているけれど。この話を続けていると、押されるままにいつしかそれじゃあ、と頷いてしまいそうだと慌ててスプーンばかりを動かした。かちゃかちゃと食器と銀のスプーンがぶつかる音がする。


 ふと、静かになったアルバートが気になって、そっと瞳を動かした。すると手のひらに頬をのせて、こっちを見ていた彼と、ぱっちりと目が合ってしまった。こっそりと見たつもりだったから、にっこりと口元を笑わせる彼と目が合うとなんだか気まずくて、スプーンの動きが止まってしまう。奇妙な間があった。


「あのな、ひまり」

「う、うん」


 アルバートは緑と青が入り混じった不思議な瞳をこちらに向けた。「お前のためならいくらでも、炊いた飯を弁当につめてやるよ」「うーん……」 なぜだろう、ときめかない。顔と声はイケメンなのに。


「うーん……」

「あ、なんだ。なにか間違えたか。お前のためなら、いくらでも卵焼きつくってやるよ?」

「言い換えられても」

「プチトマト詰めてやるよ?」

「お弁当のメニューぐぐってるの?」



  ***



 お昼は最後の砦なので、そこは死守をさせてもらった。そこまで任せてしまっては、私は社会人として死に行く運命だ。すでにお伝えの通りぐずぐずだけど。なにより行きつけのカフェ屋さんは店主がイケメンだしご飯もおいしい。


「ひまりのためならいくらだって炊飯器から飯をつめてやんぜ! だから弁当作らせろ!」としゃもじを振り回していたアルバートは、初めこそはご飯が炊ける音に敵襲かと悲鳴をあげていたはずなのに、今では誰よりも電子機器を使いこなして、もちろん予約もバッチリである。炊飯器でパンが焼けるとか知りませんでした。


 気持ちだけ受け取りますと逃げ切ったところで会社から帰宅したところ、アルバートはテレビのチャンネルを点けながらお楽しみのドラマを見ていた。私が帰ったことに気づいたのか、ハッと振り向いて、「すまん!!」と勢いよく頭を下げた。なぜだと鞄を置いて首を傾げる。


「ひまりが遅くまで仕事をしてるってのに、知的好奇心に負けて俺ってやつは……! 健二と日奈子がどうなるのか、いてもたってもいられなかったんだ……!」

「満喫すごい」


 多分それは月9のドラマなのだろう。画面の中で日奈子らしき女性はぽろぽろ涙を溢していて、健二はそっと後ろから抱きしめていた。「あらときめく」と、呟くと、アルバートはむふむふ頷いている。これも吸収する知識の一つのつもりなのか、いやまさか。そしてしゅんとしていたことを思い出したらしく、すぐさまさっきと同じ顔を作り直していたから、ちょっと笑った。


「いや、全然構わないっていうか、毎日大変でしょ。いくらでも見たらいいよ」


 テーブルを見てみると、ご飯はすっかり出来上がってきっちりラップを巻かれている。十分すぎるほどだし、私はこんなにしっかりできない。冷蔵庫の中すら把握も困難な女だ。


「っていうかアルバートさ、お小遣いとかいる? 前に断られちゃったけどさ、そろそろここら辺のことわかってきたでしょ?」


 食材の買い出しをしたいと彼が言ったとき財布の管理も任せることにしたのだ。彼は一度私とスーパーに行っただけで、お金の使い方をすっかりマスターしてしまった。以前に伝えたときには何に使えばいいかもわからない、と断られたのだ。アルバートはマフラーを外しながらの私の提案に、「えぇ?」と眉をひそめた。ところでお小遣いなんて王様相手に言ってしまってよかったのだろうか。まあ実際年下だからいいか。


「いらねえよ、使うもんもない……ん、いや、やっぱりちょっとくれ」

「うんいいよ。いくら?」

「……少額?」

「いやほんとにいくらなの」


 わからないので福沢諭吉を握らせた。すると、こんなにいらんと言われたので、最終的に渡したのはたったの千円ぽっきりである。「……いやいや」 これじゃ本当にお小遣いである。さすがにちょっと、と困惑していたとき、アルバートは千円札の端っこを指先で両方もって、天井の電気で模様を透かし、「こんな紙切れ、魔法でいくらでも作れるけどな。さすがに貨幣を作るのはやべーからしねえけど」と呟いてた。こわすぎ。


 それから数週間後、仕事から帰宅すると、アルバートはちょいちょいと私のコートの裾をひっぱった。なになに、と困惑して食事もそこそこにテレビの前に座らされる。なんだか珍しい。チャンネルを変えて、彼が見るお決まりのバライティ番組を二人で観た。再現VTRがある人気の番組である。今回は外国のお話らしい。話が進むにつれて、私は大きく目を見開いた。画面に映るイケメンと、右に座るイケメンを見てみる。まったく同じだ。


「…………ちょっと」

「バイトしてきた」

「いやちょっと」


 身分証明書は、と聞いてみたら、アルバートは右手をもにょもにょ動かしている。そしてニヤついていた。なんとなくわかった。魔法怖いの一言である。


「というわけで、あぶく銭が手に入った。たまには外に食いに行くか!?」

「それは賛成だけど、行動力がありすぎてすごいんだけど」

「王様だからな!」


 決め台詞か。

 あと1000円は電車賃に使ったらしい。



 ***



 お昼ごはんは行きつけのお店と決めている。おいしいから、アルバートも行ってみる? と聞いてみると、彼は料理人のプライドに差し障ったのか、頬を膨らませてそっぽを向いた。「俺以外のイケメンは好かん!!!」「王様プライド高すぎですよ」 店長さんのことである。あと今自分のことイケメンって言った?


 俺というものがありながら、と言いながら、アルバートは私からお気に入りのお店のメニューを何度も聞き出した。そんなに気になるなら一緒に行こう、という提案に嫌だとそっぽを向いて、試作を繰り返した。そしてびっくりするほどまったく同じな味に辿り着いたとき、うははと白い歯を見せて笑った。寒い冬は過ぎ去っていた。



 アルバートはその外見から、ひどく人目につく少年だった。お弁当箱をリュックサックに入れて、きらきらした金髪をたくさん太陽に浴びせながらご機嫌にアスファルトの上を歩く。ときおり、ご近所さんに挨拶をしているから、私よりも周囲との関係性を作っているかもしれない。さすが王様、人心を掴むのはお手の物だ。


 河川敷を降りながら辿り着いたのは、いっぱいのブルーシートだった。場所取りはしていなかったけれど、私達二人分の場所くらいなんとかなる。さらさらと川の水が流れる音がして家族連れの子どもたちが楽しげに遊んでいた。


 街を歩けばいつも注目ばかりされる彼だけど、この場だけで言えばそんなこともなく、みんな頭の上や、手元のおいしいお酒やご飯に目が行っている。赤い提灯が揺れて、どんちゃん騒ぎだ。かんぱい、と二人でお酒の缶を合わせた。


 膝の上には、アルバートお手製のお弁当だ。勉強好きな彼だから、この日のためにと料理の腕をさらに磨きに磨いて、すでにぴかぴかで眩しすぎる。二人では食べきれないほど、重箱には色とりどりのおかずが敷き詰められていて、ご飯の上にも桜がたくさん散っている。キャラ弁、ならず桜弁である。


「天才だろう。すばらしかろう。すべてはクックパッドのお力なのだ」

「王様文明の利器めちゃくちゃ使うね」

「なんてったって王様だからな!」


 正直めちゃくちゃ天才なんだ、とかれはうははと笑った。真っ青な空の中、白い雲がゆっくりと流れていく。時間ばかりが過ぎていた。

 時間はゆっくりと流れているようなのに、まるで雲のように、気づけばどんどん遠くなる。


 アルバートは空を見上げた。彼はもとの世界に帰らなければいけない。今はまだそのときを待っているだけだ。王様がいなくなって、アルバートの国は大丈夫なのかなと問いかけてしまったことがある。その問いかけはひどく心無いものであったということにすぐに気づいて、私はごめんと声をあげた。そんなの、アルバートが一番心配しているに決まっている。


 彼は口元をゆるく笑わせて、静かに語った。どうかな、ととても小さく、言葉を乗せて。


『この世界と、俺の世界はまっすぐに重なっているわけじゃない。曲がりくねって、ぐねぐねで、前も後ろもわからないような道の中で、たまたま重なった場所だ。俺がここにいることで、同じように俺の国の時間も過ぎているかもしれないし、反対に逆行しているのかもしれない。もしくは、もう何百年も経っているかも。もとに戻ってみなければわからないな』


 彼が戻ることができる時間は、月の満ち欠けで決まっているけれど、向こうの時間がどうなっているかわからない。


 桜でんぶとそぼろのご飯を口にして、塩味の卵焼きを箸でつく。一口サイズのハンバーグの隣には、アスパラガスが。詰め込まれた苺がきらきらとして、短い串を突き刺した。ひらひらと桜が舞って、風が吹く。アルバートと二人、小さなビニールシートの上に乗って、まるでこのままどこまでも飛んでいくみたいだった。ぐんぐん空の上までのぼって、お弁当とお酒を持って、ちょっとしたピクニックのような。


 両手を叩いて、歌ったり、踊ったり。そんなことはしないけれど、周りの人たちの楽しげな声で、自分たちも浮かれてしまう。彼は私の部屋にやって来たとき、上半身の服すらなくて不思議な異世界の男の人だったのに、今ではなんてこともなく動きやすい、そこらのショッピングモールで買った服を着ているから、ちょっとイケメンなだけの、見かけはただの男の子だ。金髪だけど。


 そぼろご飯を食べて、ううん、と唸った。アルバートはにひりと笑って、こっちを伺うように下から覗いて、「うまいだろぉ」と口の端を緩めている。うん、と大きく頷いた。そしたら、彼は緑みたいな、青いみたいな瞳を丸くさせて、やっぱり笑った。嬉しそうだった。


 ビールの泡が、しゅわしゅわとして、私達の周りを回っている。ふわふわ、ふわふわ。きゃらきゃらと笑い声が聞こえた。みんなが楽しそうで、幸せで、アルバートと手を繋いだ。ピンクの桜が、どこまでも飛んでいく。ゆらゆら、ぐんぐん、しゅわしゅわ。


 でも。

 ぱちん、とすぐに泡は弾けてしまった。



 私は見知らぬ部屋で、ただ静かに座っていた。夢から覚めたような気分でとんでもなく大きな大理石でできた広い広いテーブルを見回した。こんなに大きくて、一体誰が座るのだろう、と思ったら、アルバートだけなのだという。もったいない空間だ。でも、王様というものは、そういうものなのかもしれない。


 アルバートは最初と同じ、上半身の服は脱いで目の前に座っていた。冗談ではない。この国ではこれが普通なのだ。頭には布を巻いている。不思議なことだ。私の部屋にいるアルバートと、この国にいるアルバートは同じ人なのに、まったく違う人みたいだ。


「まあ食え食え」


 なのに、以前とまったく同じ口調で、アルバートは片手を出した。ご飯は陶器のお皿ではなく、木をくり抜いたお椀で、その上に乗せられたのは彼が得意とするそぼろご飯だ。というか、私が好きなものだ。


「さすがに魔法があってもなあ。ガスほど便利に調節はできん。勝手が違うから、うまくできはしなかったが、材料も似たものを使ってみたんだ」


 頑張ったんだぞ、と言う彼の国は、彼が日本にやってきてから経った時間はほんの数時間程度だった。あんなにたくさん私の部屋にいたのに、こっちの時間は全然経っていなかったのだ。時間がねじれている、と以前に彼は言っていた。


 もとの世界に戻ることができるとなったとき、あとちょっとの別れの際、どうしよう、と私はただアルバートを見つめた。何かを言わなきゃ、そう思って口をぱくぱくさせている間に、アルバートはぐいと私の手を引っ張った。


 落ちた先には聞き覚えのない言葉や、日本人離れした容姿の人々がいて、周囲は煌めかしい王宮だった。アルバートを出迎えた人々が何を言っているかわからなかったけれど、アルバートは私の片手を掴んだまま、もう反対の手でざっと周りを押しのけた。彼もわけのわからない言葉を使っていた。


 アルバートが私と会話をしているのは、翻訳魔法を使っているからで、それは誰にでもできるものではないらしい。腹が減ったと彼はいって、私はアルバートと一緒に食卓についた。そしてほかほかのご飯を食べている。「悪い、思わずひっぱった」 そう言いながらも、まったく悪びれていない口調でアルバートは謝った。私もううん、と首を振りつつ返事をしてご飯を食べた。二人でスプーンを動かした。おいしい。


「どうしたもんかな。実はな、ひまりが心配すると思ってな、適当に説明してたんだが、俺があっちの世界に行ったのはたまたまじゃねえんだよ」

「適当だったの」

「おうとも。封印してたと思ったのに、できてなかったと言っただろう。異世界との扉を開きやがったやつがいる。反乱分子ってやつだ。俺ってば天才だが、まだまだ若造なもんでな」

「見かけがすごくチャラいもんね」

「いやここじゃ金髪がデフォルトだかんな。チャラくねえから。イケメンだけどな」


 彼は肯定系男子だった。うんうん、と頷く。「だから、今度こそ厳重に扉は封印せにゃならんのだ」「ほほう」 それはとても大変だ。スプーンが進んでいく。沈黙が流れた。


「……よし、お前のことを聖女ってことにすっか」


 異世界からやって来たんだもんな、と息をつくように嘘をつくアルバートにさすがにひいた。そしてさすがにそれも冗談だった。異世界の扉を封印しようとしている人が、そこから異世界人を召喚したとなるとしていることがぐだぐだで、そんな人に誰がついてくるはずもない。


 ああ、やっぱりアルバートのご飯はおいしいな、と思ったら、変な味がした。なんだろう、と考えると、ひどくしょっぱかった。ぽろりと涙がこぼれた。アルバートも同じだった。食べれば食べるほど、代わりとばかりにどんどん涙が溢れてくる。泣いているのか、食べているのかわからない。アルバートもそうだった。二人で泣きながらご飯を食べた。肩を何度もひくつかせて、ぼろぼろ涙を溢して二人で食べた。


 私達は期限があるとわかっていたのにちゃんとしたさよならをする準備もしないで、見ないふりを続けていた。


「あのさあ」

「うん」

「俺な、ひまりといたいんだわ」

「うん」

「でもな、こっちでも、やることがまだまだあるんだ」

「うん」

「これでも、王様ってやつでな」

「うん」

「それを投げ出して、一緒にいることなんて、できねえよ」


 うん。うん。うん。何回頷いたんだろう。泣きながら食べて、頷いて、言葉を交わした。でもそれも、とても短い時間だった。月の満ち欠けはすぐに変わって、消えてしまう。その間に私はもとの世界に帰って、次に誰も行き来することのないように、厳重に、厳重に封印しなければならない。


 全部が終わったら、ひまりのとこに行きたかった、と泣き笑いのような顔をした彼とこつんと拳を合わせた。それが最後の記憶だ。




 部屋の中には、二人分の食器がある。全部が全部夢だったのではないだろうか。そう思うのに、時折残る彼の匂いが逃げることも許してくれない。仕事に行った。家に帰った。真っ暗な部屋の電気をつけた。また仕事に行った。繰り返して、家の中にはカップ麺の器ばかりが増えていく。いつも通りだ。アルバートが来る前は、こんなものだったことを思い出した。


 仕事をしていれば、否応なく意識が現実に向いていく。最近はすっかりご無沙汰だった、行きつけのカフェ屋さんに行ってみた。自分の心を落ち着かせるため、ここ最近はコンビニの惣菜パンでお腹を膨らませていたのだ。すっかり心は平静になっていたからカフェではもちろんいつものメニューを注文した。ひき肉と生姜がおいしい、エスニックなどんぶりだ。


 店長はいつもどおりのイケメンだった。ああおいしい、と頬を膨らませた。そしたらまた涙が出た。アルバートの味とそっくりだった。いや、アルバートがこの店の味を真似たのだ。口頭でしか伝えていないのにここまでぴったりなものを作るとは中々の才能だ。まったく、王様にしておくには惜しい才能だった。


 と、頭の中で茶化したところで、ぼろぼろと涙が止まらなかった。心が落ち着いていただなんて嘘だった。彼がいない日常が苦しくて、悲しくて、たまらなかった。辛かった。でも人前で涙を流してご飯を食べるだなんて行為が恥ずかしいという気持ちはもちろん持っていたので、鞄の中からハンカチを取り出した。瞼を拭って、そのまま視界を暗くして、声を飲み込むように肩ばかりをひくつかせた。化粧はとれているに違いないけれど、今はそんな場合ではない。


 落ち着けと大きく息を吸い込んだとき、ハンカチで隠した視界の端からにゅっと男の人の腕がのびたのが見えた。恐らく店長だろう。様子がおかしい私を気にしてか、空になったガラスのコップに水を注いでくれた。本当に、落ち着かねば。泣いた涙を補充するみたいに、頭を下げて、手を伸ばして一気に水を飲み込んだ。落ち着いた。


 瞳を瞑って、はー……と溜め息をついた。そのとき気づいた。不思議なことに、その場に立ったままで立ち去ってくれない。店内はめずらしく私一人きりで、不審な女に困惑して、彼が看板をCloseにしてしまったのだろうか、と首を傾げた。まさかそんな。しかし気まずい。ここはお気に入りのお店なのだ。妙なことをして、これから行けなくなってはたまらない。


「あの」


 声をかけられた。

 瞼を慎重に拭って、じっと心の中を準備させて息を吸い込んだ。謝罪の言葉と適当な言い訳をいくつか頭の中で考えさせて顔を上げる。ぱちりと目が合った店長さんは、やっぱりイケメンだった。それ以上に考えたこともなかったのに、何か奇妙に気になった。それから彼はひどく困ったような顔をしていた。


「あ、えっと、すみませんでした。すぐ出ますから」

「いや、ゆっくり食べてくれれば」

「すみません、いやほんとに」

「いやいや」


 無意味な会話を繰り返して、それじゃあ、とお言葉に甘えてと続きを口にふくんだとき、「あーーー」と店長さんは重たい溜め息と一緒に、額に手で覆って、体をくの字にさせていた。「……ドラマみたいには無理だった」 いやなんのことで、と何か身の危険を感じてきた。「泣いてるとこ、背中から抱きしめるやつ、ときめくって言ってたけど、今やったらまずいよなあ」「そ、そりゃあ……」 流れるように肯定してしまったけど、なんだこの人。


 困惑した。そのはずなのに、ひどく見覚えのある瞳だった。色も違う、顔も違う。声も、背丈も全然違う。行きつけのお店だったけど、今まで店長さんと話したのはメニューの注文と、お会計のときくらいだ。なのにひどく懐かしくて、じっと互いに見つめ合った。


「全部が終わるまで、ずいぶん時間がかかった」


 向こうの時間と、こっちの時間はぐるぐるとねじれていて、こっちが進んでいても、あっちは逆を向いているかもしれない。そうアルバートはいっていた。異世界への扉は彼が厳重に封印したから、もう誰も通ることはできない。でも、魂くらいは別だった。どれくらいか想像もつかないくらいにたくさんの時間を終えた彼がやって来たのは、ここから随分過去のことだ。この世界に生まれた彼は、普通の人と同じように生きて、街を探して、ここまで来た。アルバートのご飯が、ここのご飯と同じ味なことは当たり前だ。体が違ったって、同じ人が作ったのだから。


 でもそんなこと、今の私からしてみれば、どうでもいいことでも、わけも分からず彼の体に飛びついていた。この人は彼じゃなかった。でも間違いなく彼だった。とっくに止まったはずの涙が次から次に溢れ出した。「あ、アルバート……」 ぐずついた声で、鼻をすすりながら呟くと、うははと彼は笑っていた。随分久しぶりな名前だなあ、と言っていた。


 とんとんと、アルバートは私の背中に手を回して、ぽすりと肩に顎をおいてささやくように呟いた。


「まずは自己紹介からだな」


 ――あのな、俺の名前はな。



 出会いには終わりがあることを知った。知らないふりをしようとしていた。でも次こそは。

 これから私は少しずつ、彼のことを知っていく。


 二人で一緒にごはんを食べる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

家に帰ると料理にはまった王様がフライパンを振っています。(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ