第15話 遂に俺の呼び名を考えてくれたのだが、可愛さというファクターは必要ないのに……と思う俺がいた。
風呂から上がると、既に燈梨は部屋で寝ていた。
そうだろう。今日1日は、彼女の人生の中でも最も色々な出来事が起こって疲れた1日だと思う。
殺し屋に捕まり、目が覚めたら見知らぬ部屋で拘束されていて、逃げようとしたら銃で脅され、その後は弟子と名乗る女に拷問を受ける……。
普通に生きていたら考えも及ばないだろう。
そして、俺も初めての経験に疲れているのだ。
仕事現場を目撃された事も初めてなら、口封じの必要性に駆られた事もだ。
依頼された対象なら、血も涙もなく消すことは容易い。
遠く離れたところからライフルで仕留めたり、至近距離でも無言で頸動脈を掻き切って終了……だ。
相手の悲鳴や命乞いを訊くこともなく、ほんの一瞬の動きですべてが片付くのだ。
しかし、今日の燈梨は初めて尽くしだったのだ。
命乞いをされたのも初めてだし、泣かれたのも初めてだ。
それらに対する応対は、体に染みついているほど復習しているが、実際目の当たりにすると、シミュレート通りにはいかなかった。
舞韻には、そこを見抜かれていたのだろう。
何度も、燈梨を始末するよう促されたが、俺がそれをできない事が分かると、燈梨を売り飛ばすか、身代金を取って放すかを迫られたのだ。
俺は、自分自身が情けなくなってしまった。
3歳の頃からこの世界に放り込まれて、ほぼ40年間、この世界に片足を突っ込んできた俺が、引退前の最後の最後で、小娘1人にビビっている。
潤んだ目で見つめられて、引き金が引けなかったなんて、口が裂けても言えない事実だった。
俺は、棚からジャックダニエルのシングルバレルを出すと、作り置きの氷と水で割ってゆっくりと飲んだ。
戦場育ちの俺にとっては、贅沢品ではあるが、親しみ深い銘柄だ。ビールでは酔い足りずに、ゆっくりも楽しめない。そして、いざとなったら、水で調整できるという実用性も兼ね備えるウイスキーは戦地での相棒と言っても過言ではない。
氷を揺らしながら、その音と風合いを楽しんでいると、視線の向こうに燈梨の姿があった。
先ほどと同じ、ブラウス一丁の姿でこちらをじーっと見ている。
「飲んでるの? 」
「ああ、すまない。起こしちゃったか……」
「いや、単に目が覚めちゃっただけ……って、お酒だけ飲むのって身体に悪いよ」
と言うと、台所に立って、冷蔵庫から何かを出すと、軽く炒めてから皿に盛ってテーブルに置いた。
スカートを履いていないだけで、下着が見える訳ではないのだが、ブラウス一丁の格好というのは、さっきもだが、思わずドキッとしてしまう。近くに来ても気付かれないように、敢えてグラスを注視した。
「はい、軽く何かつまみながら飲んだ方が良いよ」
「ああ、ありがとう。ゴメンな、寝てたのに」
「ううん、片付けだけはしておいてね。おやすみ」
と言うと、寝室のドアを開けて消えて行った。
「おやすみ」
俺は言うと、燈梨の作った、たらことピーマンの炒め物をつまみながら、改めて思った。
俺は、小娘1人にビビっている……と。
1時間ほどが経過し、適度に酔いが回った俺は、歯を磨いて後片付けをすると、寝室へとなるべく音をさせないように入った。
正直言って、気配や音を消して移動するのは、得意だ。
この世界にいれば自然と身につくもので、普段の生活で決して役に立つものではないが、こういう時だけは有効だ。
そして、暗闇で目が利くというのもメリットで、燈梨の位置を正確に見極めて、気配を消してベッドへと潜り込んだ。
「ねえ……」
燈梨は、起きていたようだ。
「起きてたのか? 」
「うん。最初は寝てたんだけど、さっき目が覚めてからは寝られなくてさ」
「そうか、今日は色々あったからな」
すると、燈梨の声のトーンが若干怒気を含んだものになり
「そうだよ! 何回も銃を突きつけられるし、縛られて脅されるし、舞韻さんには、ダーツの的にされるし、口に何回もガムテ貼られて唇がガサガサになるし、サイテーなんですけど! 」
「すまんな……」
俺は、一言だけ言って彼女をなだめてやると、燈梨の声のトーンが急に落ちて
「でも、このままいくと、私はダメになるんだって、分かった。きっと、クスリを覚えさせられて、身体がボロボロになるんだろうって……」
「ああ……そうだ」
俺は、フラットに、しかし確信をもって言った。
すると、燈梨は落ち着いたのか、さっきより少しだけトーンの上がった声で言った。
「これからどうしていいのかは分からないけど、ここでゆっくり考えさせてもらってもいい? 」
「ああ、ゆっくり考えろ。ここには、燈梨の事を邪魔する人間は誰もいない。だから、燈梨は自分のことだけを考えて、自分のためだけに生きるんだ」
俺が力強く言うと、燈梨がクスクスと笑いながら言った。
「なんか、おかしいね。昨日の今頃は、私のことを殺そうとしていた人が、『生きろ』なんて言うんだから」
「そうだな」
俺も笑いながら言った。
すると、燈梨が言った。
「そうだ、おじさんの呼び名だ。考えないと」
「任せる」
俺が言うと
燈梨が、意地悪い声で言った。
「だったら『パパ』にするね」
「却下! 」
「なによぉ~『任せる』って言ったじゃん! 」
「誤解を招くような呼称は断じて認めん。それに『任せる』って言っても、何でもアリって意味じゃないぞ」
俺が言うと、燈梨は面倒そうな声で言った。
「おじさんが贅沢ばっかり言うから、なかなか決まらないんですけどぉー」
「まだ1つしか案が出てないだろーが」
「無難なのは『藤井さん』なんだけど、おじさんの顔は、藤井さんって顔じゃないんだよなー」
「お前は顔で姓名判断が出来る能力の持ち主なのか? 」
「いちいちツッコむなー! 」
とは言え、俺にとって本名は記号みたいなものであって、呼ばれてもピンとこない。
同僚とかにならば、その呼称で何ともないのだが、家にいる間中、顔を合わせている燈梨からその名で呼ばれるのは、ちょっと辛い気がする。
「フォックスは? 」
「外でその名を呼ぶと、その世界の人間が反応して危険だぞ」
「オーナー? 」
「その呼び方が出来るのは舞韻だけだ。お前は俺から店を借りてないだろ」
燈梨は、う~んと唸りながら考えていたが
「キツネさん」
「なんか昔、そんな名前で呼ばれていた漫画の登場人物がいたなぁ……」
まぁ、妥協点はこの辺だよなぁ……と思っていた時
「やっぱやめ! 街中でその名前を呼ぶのに抵抗がある」
と、燈梨が言って考え出した。
しばらくの間があってから、燈梨は、ふふふ……と笑みを浮かべてから言った。
「コンさん!」
「えっ!? 」
「ね、コンさんにしよ。きつねだからコンさん。可愛らしいし、呼びやすいし」
正直、俺に可愛らしさは不要だと思ったが、違和感もないし、気に入った。
それに何より、燈梨が必死に考えてくれた呼び名だ。彼女の思いを尊重してやりたいという気持ちが強かった。
「ね、いいっしょ? コンさん」
「ああ、そうだな。ありがとう」
「良かった。それじゃあ、今度こそおやすみ。コンさん」
「ああ、燈梨。おやすみ」
共同生活1日目は、たくさんの出来事があり過ぎたが、ようやく終わりを迎えた。
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