着信音。

 彼女の、携帯端末。

 手にとって。繋げる。


『もしもし』


 彼女の声。自分で、自分の携帯端末にかけたのか。


『ごめんなさい。急に』


 いなくなったりして。そこまでは、言えなかったらしい。無音。電話先。

 スピーカーにして、雨の音を聞きながら。放っておく。


『わたし』


 話さないほうが、いいと思った。たぶん、何かが、壊れて傷つく。それが何なのかは、分からない。でも、たぶん、何かが割れてしまう。


『わたしね。記憶ないの』


 何も言わず。


『気付いたら、雨のなかに、ひとりだけ。それがわたしの、最初』


 ただ、聞く。


『あなたといて、たのしかった。記憶がなくても、わたしは』


 彼女。たしかに、過去の話を聞いたことはない。


『わたし。あなたといて。ごめんなさい』


 ため息。そして、自分の手を眺める。

 感じる。幻想的な、何か。


「どこ?」


 彼女。無音。


「どこにいる?」


 きっと、彼女も。


『右手』


 たしかに、右手を眺めていた。


「もう、戻れないよ」


 言わなきゃよかったのに。記憶がない、なんて。それなら、なんとか、離れられたかもしれないのに。


『捨てられちゃう、と、思って。それで』


 彼女からの、位置情報。


「え?」


 同じマンションの、違う階。


「近いなあ」


『え、えへへ。えへへへ』


「待ってて。今行くから」


 たぶん、彼女は、泣いてる。

 自分が迎えに来るという安堵と、もう離れられないという不安。関係が傷ついてしまったという、こわさ。そのすべてが、なんとなく、分かってしまう。雨のせいだろうか。


 部屋を出た。

 彼女の記憶がないのなら。

 傘になって、彼女の心をまもってあげたい。なんとなく、そう思った。


「ばかだな」


 彼女の声が聞こえる。

 そう。

 彼女が、自分にとっての傘で。仕事でぼろぼろになる心を、いつも、あたためてくれる。


「ん?」


 彼女の声。


「ばかだなぁ」


 彼女。彼女も、傘を持って、階段にいる。自分は上っていこうとして。彼女は下る途中で。


「いらないじゃん、傘。同じマンションなのに」


 ふたりとも、傘を持っている。

 似た者どうしだなと、なんとなく思った。

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