第5話 初デート④
トイレから戻ると、イリス様と女性店員が何かを話しているようだった。
「そ、そんなのおかしいわよ!」
「当店のルールなので。それに、この場で百万払っていただければ何の問題もありません」
「どうしたんですか?」
俺は急いで二人の間に割って入った。
「お客様。お客様の注文されたもののお会計は税込みで百万円になります。ですが、当店は現在カップル割引をしていますので、私の目の前でカップルと認められる行為、例えばキスや「あーん」などを見せてくだされば税込み千円になります」
その話はあまりにも荒唐無稽でバカな話だった。
「パフェとコーヒーだけで百万円なんて可笑しいわよ」
道理でイリス様も怒るはずだ。
「すいません。そちらの男性のお客様こちらへ」
何故か店員に俺だけ呼ばれたため、俺は一先ず呼ばれた方に向かった。店員さんは俺に屈むよう指示をした後、イリス様には聞こえない程度の声で俺に話しかけてきた。
「お客様。あなたは彼女に恋をしている。違いますか?」
「な、何故それを……!」
俺の反応を見て、店員は口の端を吊り上げた。
「なら私に協力してくださいよ。見たくありませんか? 彼女が恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら「あーん」する姿を」
頭の中で少しだけ想像する。照れながらも必死に「あーん」してくれるイリス様。
「がはっ!! 最高すぎる」
破壊力は申し分なかった。
「でしょう」とほほ笑んだ店員は更に俺に語り掛けてくる。
「分かりますよ。あなたの彼女への愛情。至高の域に達していますね。私は彼女の照れながら「あーん」する姿が見たい。あなたは、彼女に「あーん」してもらいたい。どうです? 私たちの利害は一致していませんか?」
店員さんの言葉はまさしく悪魔の囁きだった。
ここで店員の誘いに乗ることは簡単。だが、俺は不思議と目の前の女から猫カフェの店員と同じ気配を感じていた。
「それだけか?」
「何がですか?」
「お前の目的は本当にそれだけか? と聞いているんだ」
女は「へえ」と呟いてから興味深いものを見るような目を向けてきた。
「ふふふ。やりますね。あなた、もしかしなくても私と同じ、数多くの聖戦を乗り越えてきた人ですね」
「っ!! やっぱりか」
「ええ。私は屈辱に震えながらも言うことを聞かなければならない状況に追い詰められる女性の顔を見ることを楽しみにこの仕事をしているんですよ。見たところ、彼女はあなたのことを嫌ってはいないようですが、「あーん」なんてことをするのは相当嫌みたいですからね。きっといい顔を見せてくれるんでしょうねえ」
そう言った女は、頬を赤く染め、狂気に満ちた笑顔を浮かべた。
やはり俺の予想は正しかった。こんな危険人物をイリス様の傍に置いておけるものか!!
「お前の思い通りになんてさせない」
「何ですって?」
「イリス様の最高な表情は笑顔だ! パフェを楽しんだ彼女の笑顔を守るために、俺がここでお前を止める!!」
「愚かですね……。まあ、いいでしょう。出てくる杭を打つのも、強者である私の仕事ですからね」
猫カフェの店員に匹敵するほどの威圧感を放つ女店員。
だが、俺には引けない理由がある!
「さあ! かかってきなさい!!」
「うおおおお!! 食らええええ!!」
俺は女の前にスマホの画面を掲げた。
「な……!! 馬鹿な!」
女店員が動揺するのも当然だ。俺が女店員に見せた画面には俺の預金残高が記されていた。
その金額は三百万円!!
「何故、高校生にしか見えないあなたがそんな大金を!?」
「これが愛の力だ」
そう。イリス様を追いかけ、イリス様に貢献するべく組織で頑張り続けた。その結果、組織から大量の報奨金を頂くことが出来たのだ。
「くっ! 私の……負けよ」
女店員は悔しそうに唇を噛み締めてから、敗北を認めた。
勝った。だが、一歩間違えれば女店員と俺の立場は逆になっていたかもしれない。そう思うと、素直に勝利を喜べる気にはなれなかった。
「なんて顔しているんですか。勝ったんですから、早くこの店から出ればいいじゃないですか」
壁に項垂れて寄りかかる敗北者にかける言葉なんて持ち合わせていない。俺は、静かにイリス様の下に向かった。戦いの愚かさと虚しさを噛み締めながら。
イリス様は俺の顔を見て、少し心配そうにしていた。
「イリス様。帰りましょう」
「え、ええ。会計の話はどうなったの?」
「大丈夫です。俺が払っておきましたから」
そう言って、出口に向かおうとする俺の腕をイリス様が掴んだ。
「ちょっと待って。払ったって、もしかして百万円じゃないでしょうね?」
「いや、百万円ですけど……」
俺の言葉にイリス様は頭を抱えて「このバカ……」と呟いていた。
俺は何かを間違えただろうか? だが、イリス様のためを思えば嫌々キスや「あーん」なんてやらせない方がいいはずだ。
「あーもう! 席に着きなさい。店員さん。ガトーショコラを一つお願いします」
イリス様は席に座ると、俺を席に座らせた後に追加注文をした。
「え? な、なんでここで追加注文するんですか?」
「百万円なんて軽々しく出すもんじゃないわよ。それに、あなたに借りを作るのも癪だし、「あーん」くらいしてあげるわよ」
プイ! とそっぽを向いたイリス様の頬は僅かに赤くなっていた。
「イ、イリス様!」
ありがとうございます! と伝えようとしたところで、さっきまで死んだような顔を浮かべた店員が俺たちの近くに寄ってきていた。
「お客様! ありがとうございます! こちら注文のガトーショコラになりますので、ささ! どうぞ「あーん」を何回でもしてください!」
早すぎる。てか、話きいてたのかよ。
早く早く! と急かす彼女の瞳は生き生きとしていた。
「ほら、悪道。早く座って口を開けなさい」
落ち着いた様子で、一口サイズにしたガトーショコラをフォークで刺しながらイリス様はそう言った。
「え? あ、はい」
言われるがままに口を開ける。よく見ればイリス様の手も少し震えていた。
え? てか、今からイリス様に「あーん」してもらえるの? まじで?
「ちょっと。そんなに見るんじゃないわよ」
「す、すいません」
謝りはするが、視線をイリス様から放しはしない。こんな貴重な場面見逃せるわけないだろ!!
「くっ! だから、こっちを見るなって……。はあ。ほら、さっさと食べなさい」
イリス様は俺から視線を外すと、ガトーショコラが刺さったフォークを突き出してきた。
ありがたい。このような日がくるなんて……。この世の全てに、そして、何よりもイリス様に感謝を込めて俺はそのガトーショコラを食べようとした。
「ちょっと待ってください」
しかし、女店員の声によって俺の動きは止められた。
「認めませんよ。「あーん」という掛け声のない「あーん」など、私は認めませんよ!!」
「……分かったわ」
イリス様はそう言うと、俺の方に顔を向けた。その顔は真っ赤だった。
「あ、あーん」
控えめの声だったが、その綺麗で美しい声は確かに俺の耳に届いていた。
「あーん」
イリス様の差し出したガトーショコラを俺は、口に入れた。
胸いっぱいの多幸感が俺を襲う。味なんてて殆どよく分からない。分かることは、イリス様がこの世で一番可愛いということと、俺が今この世界で一番の幸せ者だということだった。
「ぐふっ! そ、そんな馬鹿な……。この女性から感じる波動は、ラブコメの波動!? 嘘でしょ? この女性はこの男に「あーん」をすることをもっと屈辱に思うはずじゃないの!?」
隣が何やらやかましいが、そんなことはどうでもいい。今は、ただイリス様の「あーん」を何度も頭の中で反芻するだけだ。
「いつまで咥えてるの? そろそろ放して欲しいんだけど?」
イリス様に言われてから俺はやっとフォークを口から放した。
「す、すいません。あの、凄く美味しかったです」
何だこれ? 胸がホワホワして不思議な感じだ。いつもみたいにイリス様可愛い! って感情を押し出したいのに、上手く言葉が出てこない。
む、胸が苦しい!!
「そ。なら、良かったわ」
そう言って見せたイリス様の微笑みは正しく女神。いや、女神すらも超えていた。
「はうっ!! な、何故? この私がラブコメの波動に押し流されようとしている? そんな……。私が! この私が! 笑顔が最高だと感じるなんて!! いえ! そんなわけない! 待ってください!!」
隣にいた女店員は息を荒くしながら俺を睨みつけていた。
「次は、あなたです」
「え?」
「次はあなたがこっちの女性に「あーん」してください!」
な、なんだと!? そんなご褒美、是非やらせていただきたい! だが、イリス様が何と言うだろうか?
横目でチラッとイリス様の様子を見ると、イリス様は平然とした表情を浮かべていた。
「いいわよ」
ひょえー!! イリス様から許可が下りるなんて……。こ、これはまさか……デレ期!?
「別にあなたが私に「あーん」をしてくることなんてしょっちゅうあるし、慣れているわ。ほら、さっさとやりなさい」
イリス様の言う通り、俺はイリス様とご飯を食べていると直ぐに「あーん」を要求したり、逆に「あーん」をしてあげようとすることが多い。まあ、全て断られているのだが。
だが、今回はそれらの時とは状況が違う。イリス様はもしかして気付いていないのか?
「それじゃ、行きますね」
気付いているにしろ、気付いていないにしろ、イリス様から許可が下りたのならば遠慮なくいかせていただこう。
「あ、あーん」
俺の声は珍しく震えていた。普段なら何でもない行為だが、いざ本番となると緊張して仕方ない。何だか顔も熱いし、手も震えてきた。
「ちょっと、何であなたが緊張してるのよ。普通にしなさい」
普段と違う俺を見たせいか、イリス様にも気恥ずかしさが生まれているようだった。
それでも、平然と振舞おうとしながらイリス様がガトーショコラを食べようとしたその時。
「間接キスですね」
女店員により爆弾が落とされた。
「な……な、な、なにをいって……」
イリス様が壊れた。
そのイリス様を見て、女店員はあの邪悪な笑みを浮かべた。
「あれぇ? 気付いていなかったんですか? まさか、やめるなんて言いませんよね? だって、やるって言ったのは自分ですもんねぇ!」
こ、この女! ずっと、この爆弾を落とすタイミングを狙っていたというのか!?
イリス様の方に視線を向けると、イリス様は目を潤ませ、俺を睨みつけながらも再びフォークに口を近づけていった。
「イ、イリス様……。無理はしn「黙って。どっか別の方を見てなさい」……はい」
イリス様に従って俺はすぐにイリス様から視線を逸らそうとした。
逸らそうとしたのだ。
な、なぜだ!? イリス様から目が離せない! むしろ、引き込まれる?
(ふふふ。これが、屈辱に耐える女性の美しさですよ。ええ? どうですか?)
頭に響いてくるのは、女店員の声だった。
何だこの感情? もっとイリス様を困らせたい? いや、違う! 俺が好きなのはイリス様の笑顔なんだ!
(ここで、フォークを引っ込ませたりしたらどんな表情を見せてくれますかねぇ?)
悪魔の囁きが俺の手を勝手に動かそうとする。
負けちゃだめだ! 俺は……俺は……負けない!!
(な、何ですって!?)
鋼の精神で俺が持ちこたえている隙に、イリス様はガトーショコラを口に咥えた。
その時、一瞬ではあったがガトーショコラの美味しさに頬を緩ませるイリス様の表情が見えた。
「がはっ!! と、尊い……」
邪気の塊であった女店員はイリス様の笑顔に浄化されたようだった。
「……これでいいでしょ?」
「はいぃ」
イリス様の言葉に女店員はただ頷くだけだった。机の上には食べかけのガトーショコラと、イリス様の可愛さに悶える俺がいるだけだった。
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