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 マンションについたときにはとっくに二十三時を超えていた。みそらは「つっかれたー」と言うとベッドに座りかけ、すぐにそのまま寝転んだ。これは本気で疲れてるな、と思ってさすがに三谷みたにが反省しかけると、みそらはちいさく笑った。

「ごめんね、荷物持たせっぱなしで」

「ううん。――これくらいは」

 みそらの着替えなどが入った荷物を床に下ろすと、その動きを目で追っていたみそらがゆっくりと首をふった。長い髪がさらさらとちいさな音を鳴らす。

「お礼を言われるようなことじゃないんだよね……わたしがやりたいだけだったし」

 三谷は返事をしなかった。そのとおりだ。――いつだってみそらは自分で決断している。

 そう思うと、「代役」とかの言葉を使うのはちがうような気がした。代役ありがとうとか、そういうことじゃない。そう気づくと、つい本音が転がりだした。

「楽しかったみたいでよかったよ」

「うん」

 みそらは近くに腰を下ろした三谷を見て、照れたような笑みを浮かべた。

「けっきょく楽しいんだよね。わかってる。どれほど準備や練習がめんどうでも、舞台の大小にかかわらず音楽をやるのは楽しい……」

「うん」

 うなずきながらみそらの髪をすく。美咲みさきがアレンジした髪はすっかりときおろしていた。普段のこういう無防備なみそらもきれいだけれど、自分の武器を熟知した、もしくはそれを理解した友人がいてそのサポートがあるみそらも、やはり眩しい存在だと思う。

「でもさ」

 と、みそらがふふっと笑う。

「まさか美咲が北原白秋に興味を持つなんてね。しらちゃんのこととおんなじくらいびっくり」

 たしかに、と苦笑がもれる。あのあと三谷と美咲は実際に図書館内にある北原白秋の詩集を探し、どの詩にはどの曲が合うなんかも話した。「鋼鉄風景」にはバッハの「イギリス組曲」や、ショパンの前奏曲二十番などが合うんじゃないか、とか話しているうちに、美咲は伴奏法でもやってみたいと言い出した。ちょうどそこでみそらと白尾しらおが合流すると、白尾にも声をかけたのだ。

「『金魚』とか『曼珠沙華ひがんばな』とかの幼さの中の狂気みたいなのって、白尾さんとかが読んだらおもしろそうじゃない?」

 と言われた白尾はびっくりしていたけれど、美咲の熱量にあてられたのか、いつのまにか二人でこれがいいあれがいいなどと話していた。美咲は祖母にもいろいろと質問をしていて、俗にいう物怖じしない性格とはこういうことか、なんて三谷は素直に感心してしまった。めずらしい光景だと思ういっぽうで、でも――ふしぎと自然なことのようにも思えた。

 こんなこと、あの夏休みの日に山岡やまおかに頼んだときには、ぜんぜん想像すらしてなかったなあ。

 図書館では大人数での話し合いはできないため、近くにあるいつものコーヒーのチェーン店に移動して話をし、そのあとみそらと自分は当初の予定通り、実家で夕飯をごちそうになって戻ってきた。一緒にと声をかけた祖母に「急に二人ぶん増えてもご迷惑にしかならないですから」と笑顔で言い、美咲と白尾というなかなか見れないツーショットは先に地元をあとにしていたけれど、それもなんだか小一時間のあいだに見慣れてしまった。白尾の進路を考えればそんな光景になるのは当然なのかもしれないけれど、――でもそのきっかけが祖母の言い出したことだと思うと、やっぱり一周回ってふしぎになる。

「種まきなんだよな……」

 つい言葉がこぼれてしまう。みそらはゆっくりと起き上がりながら「なんかそれ、わかるかも」とつぶやいた。

「三年やってると自分の範疇の外でもいろいろあるんだなって痛感したけど、でも考えてみたらそれも当然なんだよね。自分が生きるだけ、誰かも生きてるんだし」

 三谷がうなずくと、みそらはベッドの上に座り直した。

「また弾いてもいい?」

「うん?」

「『子供の情景』。まだやってない曲もあるし、あとはちょっと……いや、かなり愛着がわいた」

「いいよ。そのほうが作者も楽器も喜ぶだろうし」

「うん。ありがとう」

 偽りのない笑みでみそらはうなずいた。――ここにも穂が実ったのだ、と思った。いつかの、誰かがまいた、たったひと粒から。



[ひと粒の麦 了]



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