番外編 The Point of No Return
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※第十二章「ひと粒の麦」のエピソード6のちょっとあとくらいの話です。
ワンシーンで、全部で3回の更新予定です。
ふと壁にある時計を見ると二十三時を二十分近く過ぎていて、
そう思いながら手早く鍵盤にフェルトをかけ、蓋を下ろしてピアノ椅子から立ち上がった。
テーブルにノートパソコンを開いたままのみそらは、何かのページをじっと見ているようだった。でも読み込んでいるような視線でも、そういう雰囲気でもない。しかも自分が練習を終えて移動してきていることにも反応していない。
これは、と思う。みそらがこうなるのはめずらしいけれど、こうなる理由なら思い当たることがある。三谷はつとめてやわらかく「山岡」と言った。するとぱっとみそらの瞳に色がつく。長いまつげが二度ほど羽ばたき、そして視線が自分をとらえるのがわかった。日常の中にあっても舞台上にいるような、視線を奪う動き――けれど、たぶんもう本人はそれを意図的にはやっていない。
「お風呂どうする?」
「あ、ごめん、まだお湯張ってなかった」
「いいよ、大丈夫。先入る?」
「いやどっちでも大丈夫。あ、いやあとがいいかな」
と視線をもう一度、みそらはノートパソコンに向ける。
「終わらせたいところまでいってなくて」
「うん」
とうなずいて、三谷はみそらのうしろにあるソファに腰を下ろした。お風呂の準備をするんじゃないのかというようなみそらの視線に、ついごくごくわずかに苦笑がもれてしまう。
「なんか引っかかってますか」
「……お気づきですか」
できるだけフラットな言い方で三谷が言うと、みそらも同じような口調で返してくる。三谷は「うん」とまた正直にうなずいた。するとみそらは肩から力を抜くように息を吐いて、そのまま背中をソファにあずけた。視線は交わらず、みそらの右頬の白さと髪の色のコントラストが照明にうつくしく映える。
「なあんか最近、ちょっとしらちゃんのようすがへんなんだよね。ちょっと挙動不審というか。しらちゃん、あんまり上手に隠しごとができるタイプじゃないし……」
と前置きして、みそらは首をひねって自分を見上げてきた。
「もしかして、何かご存じですかね」
「……知らないって言っても信じませんよね」
「その返し自体がただの『イエス』なんだけどね」
短いラリーをして、みそらはこらえきれないようにふふっと笑った。
「やっぱり知ってたんだ」
「うん。でも――」
――みそらには言わないで。お願い。
冊子をきつく抱いて切実な声でそう言った、同門の仲間の姿がよみがえる。
「山岡には自分で言うって言われたから、ごめん」
「――うん、ありがと」
うなずいて、みそらは両手をぱちんと自分の両頬にぶつけた。
「理由がありそうなのはわかってたからいいんだ。それに最悪なケースじゃないって、いまのでわかったし」
「最悪なケース?」
予想外の言い回しに三谷がおもわず首をかしげると、みそらはそんな三谷をちらりと見て、ノートパソコンに手をのばした。
「三谷のこと好きになった、とか言われたら、正直まじでどうしようかと思った」
予想のはるか先まで飛んでいった内容に、瞬間的に思考回路が真っ白になる。
「……なんて?」
「だから、」
と言うと同時に、みそらはぱたんとノートパソコンを閉じた。
「しらちゃんがもし三谷のことを好きになったとかだったら、わたしはもう友情を選べなくなるんじゃないかってけっこうまじめに考えてたんだけど、さすがにそういうダッサダサで共感性羞恥になりそうな展開じゃなくてよかった、ってことです」
「えー……」
おもわず気の抜けた音が口からもれる。
「それはなくない……?」
「わかんないよ、人間なんだし」
と言いながらみそらはソファに座った。反動で全体がすこし揺れる。みそらは爪を乾かすときのように両手の指を伸ばし、それを見つめながらつづける。左の四の指にあるシルバーの指輪と昨日の夜に塗っていた淡いモスグリーンのネイルがかすかに照明をはじく。
「そうなったらいま以上に頑張らないと、と思うと同時に、しらちゃんという大事な友人をなくすことになるかも、って、ちょっとまじめに考えちゃった」
こういうのほんと苦手だから、と小声でみそらは付け加えた。
「だから、それじゃないってわかっただけでも、けっこう気がらくにはなったよ」
「いままで以上って」
「三谷の伴奏で歌っていいのも、横にいていいのもわたしだけってほかの人に宣戦布告するためには、もっと頑張らないと、ってこと」
「――まさか」
「え?」
三谷の返事に、みそらが軽く驚いたようすでこちらを見る。その表情を見ていると、つい笑ってしまった。
「まさか、ありえないって。逆」
「ぎゃく?」
「俺のほうがけっこう頑張ってると思う。山岡に置いてかれないようにするために」
「……本気で言ってる?」
「本気本気。
「……葉子ちゃんも買いかぶりすぎじゃないの?」
「先生、そういうタイプじゃないよ」
「そうだけど……」
みそらは言いよどんだ。視線がはずれてさまよう。
「わたしのキャラって、けっきょくわたしの人工的なものっていうか。天然の『かわいい』じゃないでしょ」
「……それ、山岡だって俺が気づいてないとか思ってないじゃん」
それこそみそらが「つくっている」キャラなのは、初対面でも伝わっていたと思う。最近は伴奏法でそれが顕著で、服装やメイク、所作などもいつもとは変えているぶん、みそらのことをかなりふんわりした性格だと思っている下級生もごく一部にいるらしい。「つくっている」のは
弟の
みそらはかすかに首をひねって「そうなんだよねえ」とつぶやいた。
「なんで三谷には最初っからそのつもりだったんだろ……」
ほとんどひとりごとのような言い方に、つい記憶を探る。最初――最初といえば、あのときだろうか。
みそらや相田美咲の話は、専攻が違っても入学してしばらくすると自然に耳に入ってきていた。でもそれは自分もおなじで、小野先生のことが微妙に広まっていたし、森田
(2に続く)
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