9
ドアをノックする音がしたけれど、みそらは片づけの手を止めずに声だけで返事をした。
「はーい、いいよ、入って。着替え終わってるから」
一秒ほどの間があってドアが開く音がしたのでみそらは振り返り――手を止めた。
「しらちゃん」
てっきり
「美咲は?」
「
「え――美咲が?」
「うん。
「うそ……美咲が?」
二度、みそらは繰り返してしまった。今日一番びっくりしたのは、自分の演奏がなんとか及第点だったことをすっかり超えてこれになってしまった。――美咲が日本語に興味をもつなんて、あんまりにも予想外すぎる。美咲は興味がないものに対しては興味があるフリすらしない。その美咲が――イタリア語をネイティブレベルまで高め、イタリアのオペラが大好きなあの相田美咲が?
ぐるぐると考えていると、「片づけ、終わったの?」という白尾の声がして、みそらは顔を上げた。
「うん。
と言って畳の上から立ち上がる。鏡があるようなしっかりした「楽屋」ではなく、あくまで会議室のひとつではあったけれど、三分の一ほどの畳のスペースがあるので着替えるのには便利だった。みそらはニットとデニムといういつもどおりの格好にバックパックを背負い、一段高くなっている畳スペースの下からスニーカーを取り出した。
「美咲があっちに行ったから迎えに来てくれたの?」
と言った言葉に嘘はない。けれど、――最近の白尾のかすかな違和感の正体が、これから彼女の口から明らかにされるのだということは、なんとなく、直感に近いものではあるけれどもわかった。だからこそふつうのことを言った。それしか言えなかった。――予想がつかない。
「それもあるけど――みそらに報告があって」
やや緊張したような白尾の声がして、みそらは手を止めて相手を見上げた。いつもとは高さが逆転していることもあってふしぎな心地もする。みそらの顔の前で白尾の小さな手が互いの指をぎゅっとつかむのが見えた。
「あたし、――卒業したら、声楽専攻に入り直そうと思ってる」
――スニーカーを中途半端に手にしたまま、数秒、みそらは考えた。
「――え」
一度首をひねる。瞬間、ぱっと思考回路がつながった。
「――えっ? しらちゃん、実家に帰るんじゃなかったっけ?」
「そのつもりだったんだけど……」
白尾は言いかけ、そうしてゆっくりと膝を折った。視線の高さが同じになる。
「みそらと三谷、あと相田さんとか見てたら、興味がわいてきちゃって」
「そうなんだ……?」
「うん。楽しそうだなって、ちょっとうらやましかったんだ。でもだんだん、相田さんとやってる伴奏法見てたら、――あたしも歌えるんじゃないかっていう気持ちになってきたというか」
想定外の言葉だった。想定外すぎて豆鉄砲を食らった鳩になっている自覚がある。けど――でも、なんとなくしっくりくるものもあった。白尾の趣味を考えれば興味をもつことは十分にありえたし、それに、白尾は声楽がうまかった。あくまで副科声楽をちょっと聞いたくらいだけれど、技術的にとても優れているとかではなくても、発音が丁寧な印象だったからだ。それに、ピアノから声楽に転向する人もいる。多くは大学受験のころにシフトすると聞いていたので、すっかり失念していたけれど。
みそらがそんなことを考えているうちに、白尾はさらに続けた。
「短大の社会人枠だから長くはないし、それが終わったらちゃんと実家に戻るつもり。……ごめんね、黙ってて」
白尾の表情には率直な謝罪の色があった。
「みそら、インターンもあるのに今日みたいにピアノも頑張ってるし、三谷だってインターンもみそらの伴奏も先輩の伴奏も……もちろん自分の卒試だってあるのに。あたしは親に甘えてまだ学生気分でいるなんて、……言い出しづらかった」
そこまで言って白尾はかすかに苦笑するようにしてみそらを見た。
「気づいてたよね? あたしが挙動不審だったの」
「……うん」
率直な言葉に、率直な言葉が引き出される。
「なんとなく避けられてる気がして、気になってた。思い当たることも個人的に考えた範囲では見当たらないし。……それにそういうことだったら、隠すことでもないと思うよ?」
「いや、だからそれはさっき言ったとおりの理由で……」
言いかけ、白尾はすこし口をつぐんだ。そしてゆっくりと、無意識だろうか、呼吸をして、吐く息とともに言った。
「みそらはあたしの憧れなの」
一瞬、どこかで聞いたような言葉だと思った。そして白尾の表情を見ているうちに思い当たった。――自分だ。
一年前、
「伴奏は嫌いじゃないけど三谷ほどうまくもないし。どっちかっていうとやっぱり、演劇とかミュージカルとかを観に行くほうが一番楽しい。それだけでいいと思ってたけど、なんでかわかんないけど、――欲が出てきたんだよね」
「欲」
みそらが繰り返すと、ちいさくなった白尾は顎に口をうずめるように、ちいさく「うん」とうなずいた。
「試してみてもいいのかなとか。――違うな。たんに、ほんとにシンプルに、やってみたくなっただけなの。歌うほうを」
そしてもう一度苦笑いをする。――みそらの目をしっかり見て。
「見るだけで十分だった。楽しいんだもの、自分ができないことを他人がやっているのを見るのって。スポーツも演劇もミュージカルも歌舞伎もおんなじ。あたしは見る側で、舞台の上は不可侵だと思ってた。でもみそらだけは違うの。みそらを見てると『あたしもそこに行きたい』って思えた。これが不遜なことだってことも理解してるのにそう思っちゃったの。憧れなのに、憧れだけで終わらなかった。やれるかどうかじゃなくて、やってみたくなっただけなの。だからやっぱり憧れなんだと思う。子どもがサッカー選手になりたいって言ってるのと同じ。しかも親のお金で」
引っかかっているのはそこなのか、と思った。白尾が純粋に声楽に興味をもっていることはわかるし、それに対しては素直にうれしさを覚える。でも白尾が気にするのは、「まだ学生でいること」だった。それは正直――たしかに、うらやましいことこの上ない。
そこまで認めて、みそらはちいさくうなずいた。うん、うらやましい。でも。
「親御さんの理解があるのとか、金銭的な余裕があるのは正直うらやましいと思うよ。でもしらちゃんが引け目に感じることはないよ。むしろありがとうって感じ」
「ありがとう?」
みそらはうなずいた。さっきまでいた図書館のすみっこのことを思い出すと、自然と笑みがこぼれた。
「喜美子さんのこれもそうだけど、興味もってもらえるのが一番うれしいもん」
「……それは、そうだね」
と、白尾は素直にうなずいた。自分の趣味のことと照らし合わせたのかもしれない。そこでみそらは思い至った。
「あ、じゃあ、学内選抜を受けないのはそれが理由……」
「うん。試験日、十一月末だから」
そこまで言って、つかえが取れたのか、白尾はやっとふふっと、ちいさくだけれどいつものように笑った。
「なんなら
「え、ほんと?」
「
「へええ」
ということはもしかすると美咲ともなにかしら接点があるか、今後あるようになるかもしれないのだ。
「へええ、おもしろい。おもしろいなあ」
みそらがつい本音で言うと、白尾はスニーカーの上に乗せっぱなしのみそらの手に自分の手を重ねた。
「ごめんね、勝手に気が引けちゃってた」
「ううん、いいよ」
声楽専攻の自分に言いづらいというのもわからなくはない。でも、それ以上にいまは期待がまさるし、――ひたすらにうれしい。そう思いながらみそらは手早くスニーカーを履いた。立ち上がると、いつもの視線の高さに戻る。
「じゃあ、――来年度になったら、話すネタがもっと増えるね」
いつもの調子のみそらの言葉に、白尾は一瞬びっくりしたような顔をして、でもすぐに「そうだよねえ」と腕を組んだ。
「お茶の時間がまんまと長引いちゃいそうだね」
いたずらっぽいいつもの白尾の笑みに、みそらも「そうだねえ」といつものようにうなずいた。
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