8

「……なんで白尾しらおが落ち着かないの?」

 三谷はつい、となりにいる白尾あきらに言った。小柄な白尾はわかりやすくそわそわしたようすでずっと三谷みたにのとなりにいた。三谷の言葉に、白尾はどこか不安そうな表情で三谷を見上げる。

「あたしが弾くわけじゃないのにってこと?」

「うん」

「それはそうだけど。なんか……どういう感じになるのかなとか。あとは……」

 言いよどみ、白尾はじっと目の前に広がる景色を見た。三谷もつられたようにそれを追う。

 図書館の児童書コーナーの端っこにある読み聞かせスペースは、いまは周囲の本棚などをすこし動かして本来の面積を大きく超えているようだった。そこをぐるりと囲むように小学生くらいの子どもが十数人陣取っていて、その後ろにはその親や祖父母らしき人たちもいる。そしてその囲われた輪のすこし奥には、電子ピアノがあった。

 今日は以前から予定されていた、祖母とみそらの朗読会だった。図書館には楽器がないので、いつも読み聞かせの会のメンバーから借りているという持ち運び可能な電子ピアノがセッティングされている。その前にあるのは祖母が座るだけのパイプ椅子で、マイクなどもない。とてもシンプルな「舞台」は、三谷夕季ゆうきにとってはそれほどめずらしいものではなかった。演奏をするのがみそらだということと、それを白尾あきらと相田あいだ美咲みさきが見に来ている以外は。

 清川奈央なおは就職先の楽器店のイベントと重なったらしく、残念そうにしながらも将来のコネクションを優先した。美咲はみそらと一緒に裏にいる。みそらのサポートというほどでもないけれど、メイクとか衣装に気になる点がないか、――そしていつもとは違う挑戦をする親友のそばにいてあげたい、ということらしい。

「嫌われたくないんだもん、みそらに」

 聞き間違えたかと思った。

「――まさか、こないだのこと?」

「そうだよ。それ以外にないよ」

 三谷には白尾がどうしてそう思ったのか正直わからない。わからないというか、白尾が隠していることを聞いたみそらが白尾を嫌うことなんかあり得ないと理解しているだけだ。でもそれを白尾に言ってもきっと何の意味もないんだろうな、とも理解できるので口をつぐんでしまったけれど、――どちらかというと、みそらのほうが嫌われたのではないかと気をもんでいるというのに。

 みそらがかすかに勘づいていることを白尾に言わずにいるのは、白尾がこのイベントが終わったらみそらに話す、と言ったからだ。そうじゃないなら互いのためにも、それを見ている自分のためにもならないのでさっさとみそらに話しているところだ。

 ぱちぱちと軽い拍手の音が背後から聞こえ、職員さんたちに見送られるように歩いてきたのは、和装の祖母だった。そしてその衣装を邪魔しない、落ち着いた雰囲気の黒のスカートに薄手のニットをあわせたみそらが続く。一瞬みそらと視線が合うけれど、何もない。それどころか――ちゃんとスイッチ入ってる、と確信する。

 二人が定位置についたころに、「かわいいでしょ」と小さな声が聞こえた。右を見るといつの間にか美咲が来ていた。

「髪もまとめてあのくらいにしておくと、おばあさまの邪魔もしないし」

 美咲の言い方はどこか自慢げだった。みそらの魅力を熟知している、というような自負も感じる。脇役としての衣装や雰囲気の塩梅も声楽を学ぶ中で身につけたことなんだろうなと素直に三谷がうなずいたとき、祖母のゆっくり、はっきりとした声が聞こえた。

「みなさん、こんにちは」

 子どもたちの「こんにちはー」という声が返る。何度か来たことがある子がいるのも、なんとなく三谷にはわかる。みそらはそのあいだに電子ピアノの椅子に腰掛けて、高さなどを確認している。表情はやっぱり落ち着いているようだった。

「今日も図書館の皆さんから読み聞かせの時間をもらいました。読むのは北原白秋はくしゅうです。ちょっきんちょっきんちょっきんな、の『あわて床屋』や、赤い鳥小鳥の『赤い鳥』などは、聞いたことがある人もいますよね?」

 そのへんの学校の先生より話しかけかたがうまいんだよなあ、と三谷はつい祖母の妙な能力に感心してしまう。「喜美子きみこさんって日本語の先生みたいなんだよね」というみそらの言葉もよくわかると思う。

 祖母が問いかけると、ちらほら「はーい」という声やいくつか手も上がる。祖母は嬉しそうにほほえんで続けた。

「今日は皆さんも知っている北原白秋の童謡を、歌ではなくてピアノの曲といっしょに読みます。歌になっていない『詩』のままの言葉のおもしろさと、ピアノ曲が重なって見える景色がどんなものか、みなさんも頭の中に思い浮かべてみてくださいね」

 そうして祖母は家の中にいるようなようすで言葉をつむぎはじめた。雪の降る夜は楽しいペチカ――『ペチカ』だ。

 そこにそっと寄り添うように流れ始めたピアノは、『炉端にて』。山田耕筰こうさくが作った曲よりもシューマンのこの曲のほうがリズムの動きがあり、雰囲気も明るい。けれど、重なると意外と違和感がないのが毎度おもしろい。「歌の伴奏」というフィルター――先入観は大きいけれど、一度外してしまえば真新しい詩に聴こえるのが、祖母がやるこの組み合わせの醍醐味ではないかと思う。

 今回の朗読は、たいていの人が知っている童謡をメインに選んでいる。『暖炉のそばで』には「ペチカ」、『異国から』には「この道」、『トロイメライ』には「揺籠ゆりかごのうた」、『詩人のお話』には「からたちの花」、『きまじめ』には「雨」など、タイトルとの親和性、もしくは曲と歌詞の雰囲気の調和を重視している。図書館でやる場合、聞き手の多くが子どもになることが多い。そこを考慮した組み合わせだった。

 練習中に、みそらは「ふしぎだね」と何度か口にしていた。

「『からたちの花』とか『この道』とかの伴奏も知ってるのに、やってみればシューマンでもハマる、って思う瞬間がある。ふしぎだよね、言語も違うのに」

 それを聞いて、自分がやっていたときのことも思い返すと、――イメージしやすいのかもしれない、と思う。「子供の情景」がもつ景色と、白秋の童謡の抱えるノスタルジックさが、うまいこと共存できる――それはもしかしたら、作者どうしの、国や時代を超えた、共通のインスピレーションなのかもしれない、と思うこともあった。

 だから、逆にシューマンだと合わない曲、合わない詩もある、と三谷夕季個人は思う。たとえば「鋼鉄風景」――終始「神は在る、」から始まり、「炎炎えんえんおこつている」と終わるこの詩や、「わがかなしきソフィーに」と添えられている「ソフィー」、ほかにも「銀座の雨」「ほのかにひとつ」「濃霧」などになればバッハやショパン、ドビュッシーなどが合うかもしれない。「鋼鉄風景」はショパンのプレリュードが合うかも、ということなんかもつい考えてしまうほどに、今回のみそらと祖母のセッションは、見ていて興味深かった。これはたぶん、自分が当事者ではなくて、第三者になったからだ。俯瞰で見れるというやつだ。

 と、同時に。

 祖母のこの行動が、ここにいる人たちにどう影響するかは、自分たちが推し量れることではない。それはこの行動の範疇にない、と言っていいのだろうと、あたらめて思う。

 たとえば高三の夏休みに聴いた菊川先輩、藤村先輩、江藤先輩たちの演奏は、当時の自分やみそらにとっては福音でもあった。一方で、夏休みにあった菊川先輩の演奏会は、みそらの言葉を借りれば、「死の天使」――つまり、絶望とも言えるものでもあった。けれど、いずれも絶対的な正解ではない。

 高三の進路決定時の自分やみそらにとっては、先輩たちの演奏は「大学生活」へつながる希望というか、一種の導きのようなものだった。けれどあれを聴いて、うちの大学を受験するのをやめた人もいるかもしれない。おなじように「死の天使」と評した菊川先輩の演奏会が、将来の目標につながる人だっていただろう。

 置かれた環境や、その時の年齢、精神的・身体的な状態などによって受け止め方はちがう。でもそれはこちらが――演者が関与できるものではない。

 この中にいる誰かが、北原白秋という詩人に、ピアノという楽器に、曲に、詩という大きなカテゴリに、「本」そのものに、祖母が着ている和装に、山岡みそらという個人に、図書館でこういうイベントができること自体に、――無数に考えられる事象のどれに興味をもつか、それが持続するか。そんなことはきっと祖母にだってわからない。

 ただ、――なんというか、種まきなのだろうと思う。

 たまたま出会ったものをどう受け止めるか、それをどう扱うかはその人次第であっても、そうなる可能性を、祖母は諦めないのだと思う。

 夕季はもう、大学に行ったらピアノを弾かないの? ――そのひと言が何に帰結するかなんて、当時の祖母が知っていたわけでもない。ただ、可能性をつぶさなかっただけだ。それを選んだのは自分で、それに責任をもつのも自分でやることだった。

 真摯に耳を傾ける人たちの背中を眺めながら、これはあのときの自分でもあるんだろうなと思う。この中から文学部に進む人や、もしかしたら自分とおなじような大学に進む人も出てくるのかもしれない。そう思うと不思議だった。――長く長く、遠く遠く、広がる景色を見ているような、そんな感覚。

 ――ひと粒の麦。

 たったひと粒の麦を大地にまいたとしても、それがどうなるかはわからない。けれど、それがいつか一面に広がる麦畑にならないとも限らない。

 その「ならないとも限らない」を、祖母は否定しないし、――たぶんみそらもそこに共鳴したからこそ、今回の件を引き受けたのだと思う。

 ふいに思い出す。音楽――楽曲を形作る最小単位をあらわす言葉は「モチーフ」――日本語にすると「動機」になる。このいくつもの動機モチーフがあつまって、ひとつの曲になっていく。それはまさに、顔も、名前も知らない人たち――何百年も前の欧州で、ただなんとなく歌を歌ってみたとか、たまたまフレーズをつくったとか、もうすこしすると後進のために学校をつくったとか、――そういう人たちの延長線上に自分たちが生きているさまを連想させた。

 こんなにも、世界と音楽は密接にできていて、そこにはひっきりなしに絶望やら希望やら問いやら、いろんな「生活」が押し寄せてくる。でも、――だから『名曲』ってやつが生まれるんだしね――先日聞いた葉子ようこの言葉が思考をかすめていく。たぶん、それを受け取るために必要だったのが、いくつもの、いくつもの、だれもが知らずに踏みつけ、気まぐれに手に取る、――そんな、小さな麦のひと粒だったんだろうな。

 そしてその種まきが不毛ではないことも、すでに証明されているのだ。自分がまさにそうだし、そして――あきらもおなじことよ――となりにいる同門の友人をそっと盗み見る。さっき自分が彼女に投げかけた質問が、愚問だったことに思い至る。

 それこそ、白尾あきらは、その種からやっとひと束の収穫を得ようとしているのかもしれない。白尾が選んだことを――いま視線の先にみそらがいることを考えれば。

『詩人のお話』――「からたちの花」が終わる。祖母の声とみそらの音が混じって、物語が閉じていく。拍手の音にほほえみながら祖母は言う。「おもしろいものや気になることがあったら、わたしや、図書館の人、周りの人にどんどん聞いてみてくださいね」――

 そっととなりの白尾に視線をやると、それこそ目を皿のようにして祖母とみそらのほうをじっと見ていた。その視線からははっきりとした感情は読み取れない。けれど。

 あいさつが終わり、子どもたちやその保護者が動き始める。祖母のところに行く人もいれば、みそらのほうに向かう人もいた。ということは、曲に興味を持った人もやはりいたということだ。それは演奏者冥利にも、ピアノ専攻の学生冥利にも尽きることだと思えた。

 ふふっと小さく笑いもらす声が聞こえて、三谷はついそちらを見た。美咲が左手で口元を隠しながら正面を見ている。

「みそら、ちょっとテンパってるね。専攻と違うところで質問されて、間違った情報を言ったらどうしよう、って顔」

 あらためてみそらを見やると、――たしかにそうだと思えた。笑顔は笑顔だけれど、普段を知っているとちょっとこわばっているのがわかる。

「曲の解釈、間違ってないんだけどな」

 喧騒が戻ってきたせいもあって三谷がついそう言うと、美咲は軽く肩をすくめたようだった。

「比較対象が三谷だと多少の引け目をもつのはしょうがないと思うけど」

「え、俺?」

「だってそもそも担当してたの三谷でしょ。本家の代打ってきついよー」

 本家の代打。自分にとっては、藤村先輩の立場がそれだった。美咲は正面のようすを気にかけながら続ける。

「ほかの詩だと、どういう曲が合うと思うの?」

「詩の内容にもよるけど、ショパンもありだと思う。ショパンってだけで日本人受けはいいし、プレリュードだったら短いから、時間的にもカットしないですむんじゃないかな」

「ふうん……じゃあそれ、今度教えてよ。伴奏法の練習のときでもいいから」

 ぎょっとして美咲を見ると、美咲もびっくりした顔で「え、なに?」と言った。

「え、だって――相田ってあんまり日本語に興味ないのかと」

「たしかにみそらほどは歌わないけど……でも母国語もろくに知らないでほかの言語なんて歌えないでしょ。いまだってちょうどここに本があるだろうから、探しに行こうかなって思ってるくらいなのに」

 呆れたような美咲の言い方だったけど、たしかにそうだ。と、納得したところで三谷はもう一度白尾を見た。白尾の視線はまだみそらを捉えて離さない。

「白尾」

「うん?」

 ぱっと白尾は顔を上げた。小柄なのでしっかり見上げてくる形になる同級生に、できるだけ自然に聞こえるようにと思いながら言う。

「いまの話、相田とあっちでしてくるから。山岡が終わったらつかまえといて」

 我ながらわざとらしい、とは思うけれど、白尾はそれでも「うん、ありがと」と笑った。


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