3-1

 ことのはじまりは、夏休みの帰省からそのまま三谷みたにの実家に行ったときだった。二人で見に行く演奏会の会場が三谷の実家に近く、帰省の荷物を抱えたみそらを心配して、喜美子きみこさんをはじめとする三谷家のみなさんが「泊まっていけば」と声をかけてくれたのだ。お呼ばれももう何度目かで、夕飯後の片づけを手伝っているときだった。

「じゃあ、夕季ゆうきに頼むのはちょっとむずかしいかしらねえ」

「ごめん、今回は先輩の優先で」

 途中から聞こえ始めた内容にどうしたのだろう、と思って布巾を片づけたみそらがそちらを見やると、三谷とそのおばあさん――喜美子さんがリビングで話をしていた。

「それは仕方ないわね。ていうかそれ、チケットあるの?」

「……聞いてみるよ」

 ちょっと呆れたような返事をした三谷は、みそらの視線に気づいた。ああ、江藤えとう先輩が出る演奏会ことかな、とみそらが思った瞬間、三谷が「あ」と発音するように軽く口を開け、そして合点がいったようにうなずいた。――みそらを見たまま。

「え、――なに?」

 みそらがつい言うと、三谷は数歩距離を詰めてみそらのそばにきた。

「『子供の情景』、いまやってるの八曲目だったよな?」

「うん、先週からそっちに入ったよ」

 羽田はねだ葉子ようこに習う副科ピアノで、みそらはいまシューマン作曲の「子供の情景」をもらっている。組曲で、八曲目が『炉端で』だ。その前の七曲目が、かの有名な『トロイメライ』になるのだけれど、――なんでその曲が出てくるんだろう。面食らっているうちに三谷が喜美子さんを振り返って「山岡がやればいいんじゃない?」と思いついたような口調で言うので、みそらはさらに面食らった。

「え、――何を?」

「詩の朗読の伴奏、というか、正確には伴奏じゃないんだけど。ばあちゃんが詩の朗読をする後ろでピアノを弾くってやつ」

 みそらはすぐに理解できず――というか、日本語はわかるけれど理解があっているのか疑問になってつい首をかしげた。

「朗読の――BGM的な?」

「そう」

 三谷が軽い笑みを見せてうなずく。「通じた」って顔だなあとみそらが思っていると、喜美子さんも数歩距離を詰め、みそらに言った。

「わたしがたまに図書館とかで読み聞かせしてるって話したことあるじゃない? あれ、ピアノがあったり、持ち込みができる施設だと、たまに朗読に合わせてピアノを弾いてもらってたの。今回考えてる『子供の情景』と北原白秋はくしゅう作品の組み合わせは前にもやったことがあって、けっこう評判がよかったから、今度もそれでお願いできないかと思って」

「――って、そのピアノがわたし?」

 喜美子さんの説明を聞いたみそらは――たぶん説明の途中だろうけれど――今度こそ仰天して三谷を見上げた。でも三谷はすんなりとうなずいた。

「うん。だいたい『子供の情景』の前半の七曲から三曲くらいで組んでたから、今回もそれでいいと思う。もちろん暗譜じゃなくて楽譜は使っていいし、あ、――終曲の『詩人のお話』があればベストだけど」

「じゃなくて! わたし、ピアノ科じゃないって話だよ!」

 焦ってつい声が大きくなる。はっとして軽く口元を手で押さえたけれど、やっぱり三谷は動じていない、というか、ごくふつうの調子でつづけた。

「専攻じゃないけど弾けるじゃん」

「弾けるってのは音が追えるってだけで、三谷レベルじゃないでしょう」

「そんなことないよ。ちゃんと弾けてるのは練習でも聞いてるからわかってる。葉子先生も合格出してるんだし」

「それはそうだけど、――そもそもの素地が」

 みそらがなおも言いかけると、「夕季」と喜美子さんのやわらかい声がかかった。とりなすように続ける。

「思いつきで言っても、みそらちゃんもそりゃびっくりするわよ」

「でも俺、先輩の伴奏もあるから、正直今年の残りはほとんど時間取れないよ」

 あ、なるほど、とみそらは納得してしまった。みそらも暇ではないけれど、その時期に三谷が忙しいのなら自分も十分に理解している。そこでたまたまみそらが現在進行形で練習している曲が以前成功している組み合わせに当てはまるのであれば、――リスクはたしかにすくない。それにめずらしく三谷が食い下がるということは、やりたいのだ、ほんとうなら。――ついそう思考が動き始めてしまう。

 北原白秋の詩の朗読に、生演奏で『子供の情景』が重なる。というのは正直――

「それに、――山岡、こういうの面白そうって思うだろ?」

 聞こえた声に思わずみそらの肩が揺れたのを、三谷は絶対に見逃さなかっただろう。みそらは数秒黙って、それから小声で言った。

「――正直、おもいます……」

 みそらの返事に「うん」と三谷がうれしそうに笑う。その笑顔の理由が「代理が見つかりそうだから」ではなく「みそらなら興味をもってくれるだろうという予想がはずれなかったから」というのもわかって――表情でそれがわかるのが悔しいけれど――みそらは両の指を組み合わせた。

 北原白秋の詩を朗読しながら、それに合わせてピアノの独奏曲が重なる。言ってみればソロとソロのセッションだ。いつもの「伴奏」ではない。どういうものかは正直気になったし、喜美子さんの朗読――自分の前で参考として読んでくれているのではなく、大勢の「お客さん」の前でやるようすも気になる。今度は違う意味で胸のあたりがざわつくのを感じながら、まずは日程がわからなければ話にならないと気づく。

「――それ、いつなの?」

「十月の第三土曜」

 三谷の返事に、勝手に思考がフル回転する。あと二ヶ月ちょっとの、学内選抜予選の一週間くらい前の時期。でも――インターンでも大きな話は来ていない。それに曲自体はすでにほとんどできている。三谷の言葉を信じればだけど。

 やれるかもしれない、とつい思う。でも、専攻でもない自分が、ただひとりで弾くだけではない、「合わせる」ことが必要な演奏が、本当にできるのか――

 黙って考え始めたみそらの腕に、軽く三谷がふれた。そしてちいさなちいさな声で言う。

「あと、ここで恩を売っとくと、あれ、頼みやすいと思う」

 瞬間、みそらの背筋が伸びる。あれとは去年も参加した、葉子とその友人先生たちの大人の生徒さんの発表会だ。こちらも先日、葉子から打診があったばかりで、今回の訪問ついでにまた着付けをお願いできないかと喜美子さんに相談してみるつもりだった。――それを、いま、ここで出してくるなんて。

「――ずるすぎない……?」

 思わず恨みがましい、それでもちいさな声と視線がもれる。けれど三谷はやっぱり動じなかった。

「さすがに二回目なんだから、なにか差し出すものは必要だってこないだも話したじゃん」

 今度こそみそらはぐうの音もでなかった。――お金でもいいと思うし、そもそもそれが正しい「お礼」の形だと思う。でもそれを受け取らないのが喜美子さんだ。みそらはぐっと顎を引いて、やっぱり恨みがましい目で三谷を見た。

「ほんと策士」

「たまたまだって」

 その「たまたま」をうまく使うところが策士なんだってば、と言いたいところをぐっと我慢して、みそらは目を伏せた。いろいろな点で考えても、理解できるし納得もできる。でも、こういうのは、自分だけの見解で安請け合いしてはだめだ。


(3-2に続く)

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