2-2
(承前)
ベランダと部屋を隔てる掃き出し窓を開けて中に入ると、ぴたりとピアノの音がやんだ。どうしたのかと思ってピアノのほうを見ると、
「なんかあった?」
「あと一分でも長く外にいたら本気で呼び戻そうと思ってた」
聞こえた三谷の声にかすかに厳しい色を感じ取って、みそらはぐっと息をつめた。お、怒ってる、怒ってるぞこれは。
まっすぐに歩いてきた三谷は、スマホを握ったままのみそらの手を練習中の手で包み込む。三谷の手はびっくりするほど熱くて、自分が冷えた場所にいたことにあらためて気づく。
「風邪でも引いたらどうすんの。じゃなくても声がれとか」
「……すみません」
ほかに言う言葉がない。体調管理も仕事のうち、という言葉はどの専攻にも当てはまるけれど、とくに自分たち声楽だとそれがより顕著だ。三谷は手を離すとソファに放ってあった薄手のブランケットを取り、みそらの肩にかけた。ふんわりとした生地が軽く肩に乗るだけで、体の表面にあった冷たい空気が溶けて消えていく。
「……ありがとう」
正直なみそらの言葉に「うん」とすこし笑顔でうなずいて、「たぶんもうすぐお湯、わくから」と三谷はキッチンへつづくドアに向かった。みそらはそのままソファに座り込んだ。自分の指で頬にふれると、それだけでもかなり冷えていることがわかる。これはやばかった。
しょんぼりと反省しているとドアが開いて三谷が戻ってきた。カップをふたつ持っていて、どちらからもあたたかそうな湯気が見えた。
「いつものでよかった?」
「うん、ありがとう。――休憩するの?」
「うん、ちょっと頭整理したほうがよさそう」
とテーブルにそれらを置くと、三谷もみそらのとなりに腰をおろした。それだけでも相手の体温が感じられ、無意識にこわばっていた体の芯がほぐれていくのがわかる。
「ほんとごめん。三谷にも、
ひとりじゃなくてよかった、と思うのはこういうときもだ。ひとり暮らしのままだったらきっとあと五分くらい長引いて、それからいろいろやってお風呂に入るのも遅れ、レッスンでは声のコンディションが悪いと木村先生に怒られるのだ。人間ってほんとうに怠惰ないきものだ――なんて、こんなことで痛感するなんて。
「うん、気をつけて」
ここでくどくど言わないのが三谷だ。うなずいてとなりにある熱を感じていると、ふいに美咲の言葉を思い出す。みそらはぱっと三谷に向き直った。
「そういえば――しらちゃんって学内選抜受けないの?」
「
「さっき美咲と話してたときに、美咲が気づいたの。エントリーに名前がないって」
「そうだったんだ?」
とみそらを見た三谷の顔には純粋な驚きがあって、これはほんとに知らなかったんだ、と理解する。と同時に、エントリー発表が告知されていたことも、みそらとおなじで知らなかったことも。そう思うと知らずふっと、安堵のような苦笑いがこぼれた。自分だけ情弱になった気分だったのだ。
「よかった、知らない人、ほかにもいて」
「
十二月上旬の江藤先輩が出演する演奏会にも参加を決めた三谷だから、余計にそう思うのだろう。おなじ門下とはいえ、他人の参加不参加などをこまかく詮索する余裕などないし、そもそも三谷
「
と三谷が言うのは、みそらと白尾あきらの仲がいいのを知っているからだ。
「しらちゃんとはあんまり実技の話とかしないからなあ……」
白尾と知り合ったきっかけは、これもありきたりだけれど小野・
「ピアノ科で最初からレッスンのこととかしゃべってたの、三谷くらいだよ。……なんでそうなったんだっけ」
「……なんでだっけ」
二人そろって首をかしげた。数秒考えてみたものの、これも二人そろって思い出せないようだった。そういえばとみそらは思う。最近そこに含まれるようになったのが清川
切り上げるように三谷が「まいっか」と言った。
「ところで、練習時間、あと一時間くらいだけど」
「うん。……だね」
なぜ残り時間の話を、と思っていると、「気になるところ、あるんじゃないの」と三谷が言った。みそらはぐっと詰まる。
「ば、ばれてた……」
「繰り返しやってたし、あと山岡はピアノのときはちょっと顔に出る」
「え、うそ」
「ちょっとだけど。できないところとか納得いってないところになると、ちょっとだけ眉をしかめるよね」
「ええ?」
「ちょっとだよ」
「ちょっとだってだめだよ。今度のは試験とかじゃないのに……」
副科ピアノの試験のように講師陣に品定めされるのとはわけがちがう。そういう意味を汲み取った三谷は、「うん」とまたやわらかく笑った。
「だから、十五分くらいなら付き合いますよ」
「お、お願いします……」
つい無意識にマグを捧げ持つようにして絞るような声で頭を下げたみそらに、「なにそれ」と三谷が笑う。マグをテーブルへゆっくりと置きながら、本当になんでこんなことに、と、みそらは何度目かに心の中でつぶやいた。
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