2-1

「そんなの大歓迎だよ。多すぎると羽田はねだ先生が困るだろうけど、四年生で見に来た人なんて、いままで森田くんくらいだったじゃん。なんなら白尾しらおさんもおなじ門下だし」

 帰宅して練習、夕飯を済ませ、いまは三谷みたにがメインの練習時間だ。みそらはベランダに出てスマホ越しに相田あいだ美咲みさきの声を聞いていた。

「ほんと羽田先生のとこ、仲いいよね」

「それもあるけど……しらちゃんの場合は宝塚的なものがあるかと」

 マスネ作曲のオペラ『サンドリヨン』の原作は、かの有名な『シンデレラ』だ。オペラならではの大きな特徴は、ヒロインであるサンドリヨンの相手役、つまり王子を演じるのがメゾ・ソプラノ、もしくはドラマティコ・ソプラノだということだ。――という点を踏まえれば、白尾が母娘で大ファンだという宝塚歌劇の構図を連想するのも、興味をもつのも当然の流れだった。

 みそらが言うと、美咲も「たしかに」とうなずいたようだった。

「きっかけはなんであれ、興味をもってもらうのが大事だからね」

 みそらもうなずく。今回はサンドリヨンをみそらが、王子を美咲が担当する。

 そもそも――と思考がめぐる。

 ピアノ伴奏はそもそも、管・弦・打楽器、声楽がソロで演奏する場合の「練習の相手」だ。和音をつくれるから伴奏としてオーケストラの代役ができるけれど、その伴奏がひとつの講義として成立している意義は大きいとみそらは思うし、それは三谷や美咲、葉子ようこもおなじ思いのようだった。

 きっかけのひとつでいい、と思う。自分たちがなにかアクションを起こすことで曲やキャラクターに興味をもって、空きのコマで図書館にあるDVDなどを見て、そこでオペラとはどういうものなのかを知ってくれれば。歌劇という文字そのままに「演劇」でもあるので、演出家によってもかなり美術や演出方法も違ったりするし、歌手によっても受けるイメージが変わることもある。そしてそれらを支える音楽――オーケストラがどのような役割を持っているのか。

 声楽の場合、試験やレッスンではアリアの前後しか演奏しないので、全体像を知る機会がピアノ専攻は少ない。でもオペラ――ひとつの物語として見てみれば、音楽が切れ目なく続いているのがわかる。

 最初の序曲からセリフ――これもミュージカルと違ってすべて歌になっている――へどう続くのか。キャラクターの心情の変化、それによって場面の変化があり、それにまたどんな楽器がどう効果的に使われているのか。映画やドラマの劇伴のさきがけと言っても過言ではないその音楽性を知ってほしい。それがきっと、声楽の伴奏のおもしろさにもつながるのではないかと思う。

 ――ということを、とくに説明もされずに知っていたのが三谷夕季ゆうきだ。伴奏を担当してもらった当初は、三谷がなぜそうなのかよくわからなかったけれど、喜美子きみこさんと会ってすこしわかった気がする。というか、喜美子さんといえば――

「あ、そういえば」

 思考が勝手に展開している数秒のうちに、美咲がスマホの向こうで声を上げた。

「学内選抜、エントリー曲の確認アナウンス出たよ。見た?」

「あ、もう出たんだ。っていうかもうそんな時期か……」

 イヤホンで話しているので、そのままスマホの画面を学校専用サイトに移行する。たしかに「おしらせ」の最新の更新は、「学内選抜予選 曲名確認について」となっている。エントリーした生徒と曲に間違いがないか確認し、不備があれば事務局まで連絡を、という告知だ。

「ざっと見たけど声楽専攻うちはみんな妥当な曲って感じね。気になるのはそっちの田辺たなべの『ドン・カルロス』なんだけど、タイプミスじゃないよね? まさかとは思うけど……フランス語?」

「ご明察。そのまさからしいよ」

「うっわあ」と美咲があっちの部屋できれいな髪を流しながらのけぞったのが見えた気がした。ヴェルディ作曲のオペラ『ドン・カルロ』は、そもそもフランス語でつくられた。名前もフランス語読みになるので、『ドン・カルロス』という表記で美咲はフランス語版だと察したのだ。

「フランス語の発音は?」

「木村先生と、外部の先生についてるらしいよ」

「うっわ大変。でもあの曲をフランス語でやりたいのはわかる。――憧れるよね」

 こういうところにも四年生の気合は見えるものだった。みそらの同学年での唯一の同門である田辺光一こういちも一般就職組だったはずだけれど、もしかしたら最近はみそらとおなじように、就職しながらも木村先生のレッスンに通えるようにしていこうとしているのでは、と感じるときがある。まだ本人から何も聞いていないのでこちらからも聞かないけれど。

「あれ」

「どしたの?」

 まだ声楽専攻のエントリーを見ていたみそらは、聞こえた親友の声についスマホの画面を凝視した。

「白尾さんのエントリー……ないかも」

「え、まじ?」

 慌ててピアノ専攻のページに移動する。一秒にも満たないページの読み込みの遅さが、こういうときにはもどかしい。そのままスクロールさせていく。基本はエントリー順なので名前や門下で見ても順不同だ。四年生から下の学年に向かって並べてあるのでそれだけは見やすいけれど――

「ない……」

「なんか話聞いてるとかじゃなかった?」

「ないない。三谷もそれっぽいこと言ってないし。あ、でも黙ってるだけっていうのはあるかも」

 もしそうだとすれば、それは同じ門下生として、ということだと思う。

「たしか白尾さんって地元就職組だったでしょ? それもあって、っていう可能性もありそうね」

 美咲の言うとおりだった。それからいくつか練習の日程や内容、雑談をして通話を切る。話しているあいだはすっぽり頭から抜けていた指先の冷たさがしみてきた。遠くにバイパスを通る大型車の音を聞きながら空を見上げると、夏とは夜空の見え方が変わっているのに気づく。――秋の空だ。


(2-2に続く)

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