第十二章 ひと粒の麦
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図書館の雰囲気はむかしから好きだった。小学校の校区にあった市立図書館の分館もしずかで落ち着くと思っていたし、ここ――大学の図書館もおなじだ。木目を活かした内装で、講義がある建物とは別の独立した建物だから、利用者以外の声がない。並んでいる楽譜や本なんかを眺めているだけでも異世界に来たような気分にもなれるし、それに、――と思って、
一人ひとりが、自分の興味に没頭している。誰にも邪魔されない「没頭できる空間」を共有できるような気がして、それも好きな理由なのかもしれなかった。
十月に入って、また周辺はにわかに忙しくなってきた。通常のレッスンとインターンに加えて、
三谷の木曜のコマは二限から五限まで埋まっている。いっぽうで山岡みそらは三限のみなので、今日は図書館でDVDを見てくる、ということだった。もちろん映画を見るとかじゃなくて、オペラだ。オペラの上映時間はけっこう長くて、平均すると二時間半から三時間のものが多い。なので二コマぶんの時間があっても見終わらないということもありえる。
どこまで見たんだろう、と思いながら館内を移動していく。太陽の光はもう夕暮れから宵にうつろいはじめ、さらに図書館の雰囲気を別世界のものにしているようだった。たそがれか、と思う。大学四年生という時間も、大学の時間で言えばたそがれになるのかもしれない。いつかの
付属の大きなイヤホンをして画面をじっと見つめる山岡みそらを見つけた。ほかの生徒もちらほらいるし、かなり集中しているようなので、声をかけるか、かけるとしたらどうかけるか迷う。スマホにいったん連絡して、閲覧コーナーあたりで待とうか――と考えたときだった。
ぱっとみそらがこっちを向いた。迷いなく視線が自分を捉える。みそらはすぐに笑顔になって「片付けるね」と口が動くのが見えた。何の前触れもない行動だけれど、たまにみそらはこういう反応をする。なんでと聞いてみたことがあるけれど、「なんとなく呼ばれた気がして」という野生の勘みたいな返答しか得られなかった。でも悪い気はまったくしない。
などと考えているあいだにみそらはてきぱきと慣れたようすで再生機まわりとDVDや荷物などを片付け、あっという間に三谷のそばにやってきた。
「大丈夫だった?」
つい聞くと、みそらは軽く首をかしげた。二人並んで図書館の出口に向かう。図書館の床は音を吸収するようにカーペットがひいてある。
「何かあったっけ?」
「見てるの、途中になったりしてないかなとか」
「ああ、大丈夫。曲のところ繰り返し見てたところだったし」
どれだったんだろう、と思う。オペラ・アリアからイタリア歌曲、日本歌曲など、みそらが現在進行形で抱えている曲はそれこそ多岐にわたる。それに――と思ったところで「みそらー!」という声が聞こえた。ちょうどガラスの自動扉を抜けた直後で、その声は閑散としはじめた薄暗い広場によく通った。
「しらちゃん」
みそらがびっくりして見やった先には、先ほどまでおなじ講義を受けていた
「三谷が図書館に行くの見えたから、もしかしたらみそら、ここにいるんじゃないかと思って」
「聞いてくれればよかったのに」
三谷がびっくりして思わずこぼすと、白尾は「だって三谷、さっさと出て行っちゃうんだもん。追いつかなかった」とちいさく抗議した。けれど気にしているようすもなく、白尾は話を続ける。
「間違ってたらあとでメッセージ送ろうかと思ってたんだけど」
「なんか……あった?」
白尾が脈絡なくこういう行動するのはめずらしい。自然、みそらの声にもかすかに気遣う色がまじる。けれど白尾は「ううん、そうじゃないの、ごめん」と苦笑して首を振った。そして「あのね」と、やや神妙なようすでみそらの手を軽く取る。
「伴奏法で、
あまりにも真面目で真摯な言い方だった。だからか、みそらも一瞬「え」とちいさい声をもらす。
「あの……葉子ちゃんがいいなら、ぜんぜん問題ないと思うよ……?」
「ほんと? さっき葉子ちゃんに行っていいかだけ確認したら、みそらがよかったらいいよって言われたから」
明らかに弾んだ声で言って、白尾は苦笑とも笑顔ともつかない表情を浮かべた。
「相田さんは大丈夫かな」
「
みそらの返答に「九割九分九厘?」と笑って、白尾はぎゅっとみそらの手を握ったようだった。
「ありがとう。お願いします」
そして今度こそ心からの笑みを浮かべて続ける。みそらよりも身長が低い分、みそらよりもすこしちいさな手で。
「大丈夫だったら、相田さんにもお礼を伝えておいてね」
そう付け加えると、「じゃあ、また」と白尾は校門へと歩いていった。そのはつらつとした姿は、先日ミュージカル観劇で遭遇した姿を彷彿とさせた。みそらと三谷は数秒黙った。そのあいだに二人を冷えた風がなでていく。
「……たしかに、しらちゃんなら、好き、だよね」
ちょっと呆然とした色が声に残ったままのみそらの手をそっと取る。思ったとおりで、夕暮れの風に冷やされていた。それをあたためるように、まずはみそらの左手に指を絡ませ、ぎゅっとにぎる。
「どこで知ったんだろ」
白尾が言っていたのは「葉子に許可をもらった」だけだ。三谷が基本的な疑問をついもらすと、みそらも指を握り込みながら、「うーん、後輩のパターンもあるかも?」と首をひねる。そのまま二人も、あらためて校門へと向かっていく。
「しらちゃん、
「ああ、たしかに……」
羽田門下の四年生の中でいちばん面倒見がいいのは
「二年の中でちょっと話題になってるしね、山岡たちの」
「……それ、三谷がいないとにっちもさっちもいかないんですけど」
言外に「自分の存在を除外するな」と釘をさしてくるみそらに、「うん」と軽く笑って軽く腕を引き寄せる。そのまま左手でみそらの右耳にそっとふれた。
「冷えたね。今日なんにする?」
「うーん、……麺類? なにか食材あまってたっけ。確認するの失念してた」
「どうだったっけ……明日金曜だから、もう作り置きできるように多めに買ってていいかもだけど」
「あ、そうか、それありだね。あっち行って考えよ」
スーパーにつく頃にはもう日は完全に落ちているだろう。秋の陽はつるべ落とし――まさにそんな時間だった。
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