5

 話を聞いた葉子ようこは、しばらくびっくりしたまま一夏いちかを眺めていた。それからやっと「まさか奈央なおだなんて」とつぶやいた。

「やっぱり反抗期を止められるのは、先生ポジションだってことかしら」

「反抗期?」

 一夏のうしろにあるスピーカーからは、朝話していたCDの音源が流れている。聞くのは数年ぶり、と言いながら葉子はCDをデッキに入れていた。一夏がぴんとこない顔をしていたのか、葉子は軽く苦笑をもらしたようだった。

「反抗期みたいに見えてたのよ、菊川きくかわ。こっちに帰ってきてからフラフラしてばっかりだし」

「仕事はしてるじゃん」

「それ以外のこと。藤村ふじむらのところとわたしのところ、結局わたしのところにいたのが多かったんじゃない?」

 それはクラウディアの宿題が引っかかっていたからだ。図星だったけれど、「でも決めたもん」と一夏は続けた。それでも葉子はやっぱりまだ、少しだけ心配そうな顔をする。

「それはいいけど……ほんとにわたしなの? 本気で? 夏井なつい先生とかじゃなくていいの?」

「だめ。葉子ちゃんがいい」

 断固とした言い方に葉子はまた軽く驚いて、それから息を吐きながら、やっとやさしくほほえんだ。テーブルについた腕に体重をのせて、少し前かがみになる。

「なんだか丸くなったねえ、菊川。よかったよかった」

六花りっかの言うことを実践してるだけ。そんなにたいして変わってないよ」

「そうなの? あいかわらずよくできた子だこと」

 よくできた、というのは自分ではなく六花りっかのことだろう。何が起きたのかなんて根掘り葉掘り聞かない葉子を見ていると、だからああも教え子に慕われるのだというのがわかる。大学にいた頃は姉のような存在だと思っていたけれど、この帰省でそれに「師匠」という感覚も少し増えた。少しとはいえ、それはうれしい発見だった。クラウディアもきっとよろこんでくれると思う。

 気が楽になったのか、ふいに弾きたい気持ちがふわっと胸を押し上げてくる。――帰りたい気持ちは変わらない。でも、そうじゃなくても生きていかなければならないこともある。

「弾いていい? 今日の練習、中途半端なところで終わってて、きりのいいところまでやりたくて」

「いいけど」と言う葉子の爪は、今日も相変わらずきれいだった。

「今日はわたしも練習するからね。木村先生の演奏会、来月に入ったらすぐあるから」

「ああ、それも聞きに行きたいんだよね。日程合うかなあ」

「ギリギリじゃないかな。だから無理しないように。仕事とご実家が優先よ。戻る算段は決めた?」

「うん」

 清川と別れて、電車に乗る前に母に連絡を入れると、「そうなの」とあっけらかんとした返事が帰ってきた。過剰に心配するようなようすを見せないのが一夏の母で、よく「あんたは『戻る家』が何箇所もあるわねえ」と感心したように言ってくる。

 たしかにそうだ。葉子のところも、六花のところも、実家も、ドイツも、どれも「戻る場所」だ。そして数年後、この大学もそれに含まれるようになるのだろう。

 CDを止めて電源をオフにし、ピアノに向かいながら、ふと思いだして尋ねる。

「ねえ、連弾のおすすめってある? 初見もききそうなやつ」

「どのレベルの初見?」

「葉子ちゃんの生徒レベル」

 そうね、とつぶやきながら、葉子は自分のマグカップをシンクに持っていく。今日は一夏が先に練習する代わりに風呂掃除をしておいたので、夕飯の食器の片付けは葉子が担当だ。

「『動物の謝肉祭』か『マ・メール・ロワ』か『亡き王女のためのパヴァーヌ』」

「わ、ベッタベタ」

「聞いといてなんなのその言い方。『謝肉祭』だと数曲しかやれてないから、復習にもいいと思うわよ、奈央なら」

 ばれてる、と思いながら一夏は軽やかにピアノ椅子に座った。

 ああ、やっぱりここが落ち着く。あの子じゃなくても、それでもわたしが一番大好きな場所。わたしが生きて、そしてきっと死ぬときもここで死ぬんだろう。

 こっちに戻ってきたら、あの子を――実家のピアノをまたこっちに呼び戻そう。そうしてあの学校で音楽に向き合うのだ。それはとてもすてきなことだと思えた。すてきなことになる――そういう確信が胸を躍らせることが、震えるほどにうれしかった。

「あ、そうだ、連弾の楽譜ある?」

「あるよ。――あ、それか、お母さまのお許しが出たら買っちゃいなさいな」

 それもいいか、と思いながら、一夏は白と黒が規則的に繰り返す鍵盤に手を乗せる。少しひんやりとしたピアノの温度が手に体に伝わる。ついでにお母さんに奈央ちゃんのこと話してみてもいいかも、なんか喜びそうだし。不思議と六花とも仲がいいんだよなあ、あの人。

「まあ、のんびりしろというのとは違うけど、いまはいまの場所があるから」

 葉子の独り言のような声が聞こえて、一夏は顔を上げた。譜面台の向こうに、葉子が立っていた。背の高い姿は、いつかどこかで見た女神のようにも見えた。

「つづけていれば、いつか道はまた交わるよ。奈央も、りょうも、みそらもみっちゃんも」

 一夏は一瞬きょとんとし、すぐにほほえんだ。

「うん」

 わたしたちはもう、蜉蝣かげろうのように腹の中に卵をつめこんで、三日で死ぬことはできない。次の世代を産むためだけに存在することをとうにやめてしまっている。そのように、勝手に産み落とされた。この世界に。――ただそれだけのことだ。

 そう思ってもう一度、一夏は楽譜を見た。音符は彼の言葉となって一夏に届く。

 きみは何に悩んでいる? わたしの人生をどう思う? 人はなぜ生まれ、死があることから逃れられない? なぜ神にすがりたいと思う? なぜ場所によって神は違うのだと思う? なぜ神が違うといさかいになると思う? 人生には命題がたくさんある。どう思うか、きみの言葉を聞かせてくれないか――

 問いは果てしない。でもそれでいい。そうするために生まれてきたからだ。わたしが。自分の意思ではなく。――それでも自分の意思を探すために。

「そう生まれてきた」からだ。



[I was born 了]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る