5
話を聞いた
「やっぱり反抗期を止められるのは、先生ポジションだってことかしら」
「反抗期?」
一夏のうしろにあるスピーカーからは、朝話していたCDの音源が流れている。聞くのは数年ぶり、と言いながら葉子はCDをデッキに入れていた。一夏がぴんとこない顔をしていたのか、葉子は軽く苦笑をもらしたようだった。
「反抗期みたいに見えてたのよ、
「仕事はしてるじゃん」
「それ以外のこと。
それはクラウディアの宿題が引っかかっていたからだ。図星だったけれど、「でも決めたもん」と一夏は続けた。それでも葉子はやっぱりまだ、少しだけ心配そうな顔をする。
「それはいいけど……ほんとにわたしなの? 本気で?
「だめ。葉子ちゃんがいい」
断固とした言い方に葉子はまた軽く驚いて、それから息を吐きながら、やっとやさしくほほえんだ。テーブルについた腕に体重をのせて、少し前かがみになる。
「なんだか丸くなったねえ、菊川。よかったよかった」
「
「そうなの? あいかわらずよくできた子だこと」
よくできた、というのは自分ではなく
気が楽になったのか、ふいに弾きたい気持ちがふわっと胸を押し上げてくる。――帰りたい気持ちは変わらない。でも、そうじゃなくても生きていかなければならないこともある。
「弾いていい? 今日の練習、中途半端なところで終わってて、きりのいいところまでやりたくて」
「いいけど」と言う葉子の爪は、今日も相変わらずきれいだった。
「今日はわたしも練習するからね。木村先生の演奏会、来月に入ったらすぐあるから」
「ああ、それも聞きに行きたいんだよね。日程合うかなあ」
「ギリギリじゃないかな。だから無理しないように。仕事とご実家が優先よ。戻る算段は決めた?」
「うん」
清川と別れて、電車に乗る前に母に連絡を入れると、「そうなの」とあっけらかんとした返事が帰ってきた。過剰に心配するようなようすを見せないのが一夏の母で、よく「あんたは『戻る家』が何箇所もあるわねえ」と感心したように言ってくる。
たしかにそうだ。葉子のところも、六花のところも、実家も、ドイツも、どれも「戻る場所」だ。そして数年後、この大学もそれに含まれるようになるのだろう。
CDを止めて電源をオフにし、ピアノに向かいながら、ふと思いだして尋ねる。
「ねえ、連弾のおすすめってある? 初見もききそうなやつ」
「どのレベルの初見?」
「葉子ちゃんの生徒レベル」
そうね、とつぶやきながら、葉子は自分のマグカップをシンクに持っていく。今日は一夏が先に練習する代わりに風呂掃除をしておいたので、夕飯の食器の片付けは葉子が担当だ。
「『動物の謝肉祭』か『マ・メール・ロワ』か『亡き王女のためのパヴァーヌ』」
「わ、ベッタベタ」
「聞いといてなんなのその言い方。『謝肉祭』だと数曲しかやれてないから、復習にもいいと思うわよ、奈央なら」
ばれてる、と思いながら一夏は軽やかにピアノ椅子に座った。
ああ、やっぱりここが落ち着く。あの子じゃなくても、それでもわたしが一番大好きな場所。わたしが生きて、そしてきっと死ぬときもここで死ぬんだろう。
こっちに戻ってきたら、あの子を――実家のピアノをまたこっちに呼び戻そう。そうしてあの学校で音楽に向き合うのだ。それはとてもすてきなことだと思えた。すてきなことになる――そういう確信が胸を躍らせることが、震えるほどにうれしかった。
「あ、そうだ、連弾の楽譜ある?」
「あるよ。――あ、それか、お母さまのお許しが出たら買っちゃいなさいな」
それもいいか、と思いながら、一夏は白と黒が規則的に繰り返す鍵盤に手を乗せる。少しひんやりとしたピアノの温度が手に体に伝わる。ついでにお母さんに奈央ちゃんのこと話してみてもいいかも、なんか喜びそうだし。不思議と六花とも仲がいいんだよなあ、あの人。
「まあ、のんびりしろというのとは違うけど、いまはいまの場所があるから」
葉子の独り言のような声が聞こえて、一夏は顔を上げた。譜面台の向こうに、葉子が立っていた。背の高い姿は、いつかどこかで見た女神のようにも見えた。
「つづけていれば、いつか道はまた交わるよ。奈央も、
一夏は一瞬きょとんとし、すぐにほほえんだ。
「うん」
わたしたちはもう、
そう思ってもう一度、一夏は楽譜を見た。音符は彼の言葉となって一夏に届く。
きみは何に悩んでいる? わたしの人生をどう思う? 人はなぜ生まれ、死があることから逃れられない? なぜ神にすがりたいと思う? なぜ場所によって神は違うのだと思う? なぜ神が違うといさかいになると思う? 人生には命題がたくさんある。どう思うか、きみの言葉を聞かせてくれないか――
問いは果てしない。でもそれでいい。そうするために生まれてきたからだ。わたしが。自分の意思ではなく。――それでも自分の意思を探すために。
「そう生まれてきた」からだ。
[I was born 了]
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます