4-4

(承前)


奈央なおちゃんみたいな先生に習ってたら、わたしももうちょっとアンサンブルにおもしろさを見出してたのかな」

「アンサンブルですか?」

「そ。個人レッスンばっかりやってきたから、三谷みたにくんとか颯太そうたみたいなの、あんまり感覚的にわからないんだ。一人でやってるほうがらくだったし」

 一夏いちかは自分の指を見た。膝の上、軽く力を抜いた指は、それでもいつでも弾ける状態にある。

「自分のためにしか弾いたことない。室内楽も嫌いじゃないし苦手でもないけど、でも結局、誰かのために合わせるとか、そういうのはない。だから六花りっかにも置いてかれたのかなってずっと思ってる」

「……付き合うきっかけってなんだったんですか?」

「うーん、なりゆき?」

「なりゆき」

「そう、なりゆき。まあ男女なんだからそういうもんでしょ」

「ああ、まあ……」

「でも誰でもいいわけじゃないからね」

「ですね」

 清川はしっかりとうなずいた。――そう、誰でもいいわけじゃなかった。六花りっかじゃないとだめだった。六花の性格で、見た目で、声であっても、そこに音楽がともなっていなければだめだった。六花じゃないとだめだった。それはいまも変わらない。トリルのかすかな音一個分すらも。六花じゃないとだめだ。

「なんでりょうなんだろうと思うんですけど、涼じゃないとだめなんですよね」

 どこかあきらめたような口調でおなじような言葉が聞こえて、ふふっと一夏は笑いもらした。

「涼、奈央ちゃんだけじゃれ方が違うもんね」

「そうですか? 三谷のほうがひどくないです?」

「うーん、それってたぶん、仲間うちだけでしか見せなくない?」

 一夏の言葉に数秒、清川は考えて、それから小さく「そうかも」と言った。

「こないだの楽屋でも『一方的に涼がじゃれてる』ってほどじゃなかったし。それよりも奈央ちゃんにああだこうだ言ってた気がするよ」

「そうですっけ……」

 と言って清川は頬杖をついた。

「涼のああいうの、デフォルトだから、もはやそれがどうとか考えなくなってるなあ」

「だろうねえ」

 うなずいた瞬間、なぜだかふと、帰ろう、と思った。実家ではなく、いや実家もだけど。そうじゃなくて――クラウディアの宿題。

「あっち卒業したら、もういっかい、うちの大学受けようかな」

「え?」

「習ってみたくなった。でも奈央ちゃんいないから、葉子ようこちゃんで」

「私がいないから……?」

「奈央ちゃんがめざしてるのって、葉子ちゃん的な先生じゃない?」

 一夏が言うと、ぐっと清川は息をつめた。

「……ほんと、そういうところですよ、先輩」

「なにが」

「相手のことすぐ透視しちゃうの。いいですけどもう」

「透視」

 言い方がおかしくてつい笑ってしまう。

「戻ってくる頃はさすがに小野先生は年齢的にやめてると思うし。それに三谷くんと涼と奈央ちゃんの師匠は葉子ちゃんだし。あ、みそらちゃんもか。だから――そこで勉強してみたいな、もういっかい」

「もういっかい」

「うん。六花がいなくても、それでももういっかい」

 六花が学校をやめたのは、一夏とおなじ二年生の終わりだ。だから一夏は高校から五年間、ずっと六花といっしょに学んでいた。大学になればマンションの部屋もとなりで、互いの練習以外は四六時中いっしょだったといってもいいかもしれない。それがふつうだと思っていたけれど、でももう、わたしはそうじゃなくても生きている。できないと思っていたことができている。

 だったら、もういっかい、自分で。一人で。菊川一夏として。

 あなたは弾くために生まれてきたのよ。――いつだったろう、小野先生にそう言われたことをふと思い出す。そのときは何もピンとこなかった。弾くために生まれたのではなくて、生きていくには弾くしかないのだと一夏は思う。弾かないと自分が生きていると認識できない。それがつづくと息が詰まってしぬ。それを回避しているだけだった。順番が違うと思った。

 でも、結局、おなじなのかもしれない。


  ――やっぱり I was born なんだね――

  ―― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――


 どうせ意思ではない人生なら、自分のためだけに弾いてもいいんじゃないか。どう「生まれさせられた」のかは一夏の知るところではないけれど、弾かないとこれほどに落ち着かない人生にしてくれた誰か――神様か、運命というものか、それとも――自分か。――いや、そうか。

 なぜかふいに思った。そうか、わたし、まだ死にたくないのか。弾かないと死んでしまうなんて思うってことは、死にたくないのか。

 死にたくない。自分の人生にこれほど似合わない言葉はないような気がした。でもそう思うなら、そのための先達や、同志を見つけたほうがいいのだと思う。――クラウディアの宿題はそういうことを含めていた、の、かもしれない。はっきり言い切れないのが自分の未熟さの証なんだろう。

 つねに変化し、一定の形を保つことなく、しかしそれがゆえに追い求められるもの。そしてきっと一夏が六花のそういうところに惹かれたように、六花も一夏に価値を見出すなら、一夏こそそうしなければならないのだと思う。

「――待ってていいと思うよ」

 しばらく黙っていた人物がふいに脈絡のないことを言ったからか、清川は軽くびっくりした顔でこちらを見つめた。

「涼のこと。帰巣本能しっかりしてそうだから、待っててあげたら余計頑張りそう」

「頑張るって――」

「ちゃんと実績を出して、日本だろうがドイツだろうがどこにいても、弾いて行ける人生を手に入れること」

 人生を手に入れるなんて、まだ大学四年生に言うことだろうか。――いやでも、言うことなのかもしれない。少なくとも、清川だって、自分の学びから仕事を見つけて、それを手に入れたのだから。

 清川は答えなかった。でも瞳がかすかに揺れていた。不安と期待のはざまで揺れているようで、それがそのまま、大人と子どもの境のようにも見えた。――生まれさせられるのか、生まれてくるのか、その、はざまで揺らめく空気や水のようだった。

 一夏は軽く肩をすくめた。こうすると空気が軽くなると、あっちに行って覚えた。

「なんて、勝手に話してみたけど、一回ちゃんと話し合ってみてもいいんじゃない? わたしが言うと説得力皆無だけど」

「皆無ですか?」

「してないから、六花とそういう話。だから葉子ちゃんが最近ずーっとやきもきしてる」

 葉子が自分のことを気にかけてくれているのは気づいていた。それにどう返していいかわからないので何もできていなかったけれど、――そう思って清川の顔を見る。自分よりももう少しだけ幼い、でも自分よりも先に社会に出ていく清川の顔は、名前のとおり澄んでいた。――日本の水だ。やわらかく、肌に髪にやさしく、乾きをゆるやかに満たしてくれる穏やかな水。そこから生まれてきたわたしたちは、いつかきっと日本に戻るのだと思う。日本以外に行かないのではなくて、日本を軸に、それぞれの音楽を追い求めていくのだ。いま、一夏がそうしているように。

「葉子先生らしい」

 くすり、とかわいらしく清川がほほえむ。愛されてるなあと思う。葉子ちゃんも、そして教え子たちも。お互いに音楽を共有するという愛でつながっている。――わたしもそこにまじってみたい。

「あれ」

 とちいさく清川が声をもらした。スマホを見て、通知を確認したのか何度かまたたいた。

「行っていいよ」

 前触れもなく一夏が言うと、今度こそぎょっとした顔で後輩はこちらを見た。

「連絡、涼なんじゃないの?」

「そ、……なんで……?」

 そうですけれど、なんでわかるんですか。言葉が飛び飛びになっているのがほんとうにびっくりしているのを余すことなく伝えてきて、一夏は声を上げて笑ってしまった。

「カンだよ。反応がなんかそんな感じだったんだもん」

「え、顔に出てました……?」

「いや、ほとんど無表情だったけど」

「もうやだー……天才こわい……」

 うなだれてぼやく後輩は、率直にかわいらしかった。山岡みそら以外にこういうことを思うのはめずらしいけれど、もしかしたら清川とももっと早くから話してみればよかったのかもしれない。でも――縁がなかったのだろうとと思う。事実、当時はみそらほど練習棟で行き合うこともなかった。そう考えれば、やっぱり森田涼の留学が縁をたぐりよせたようにも思える。――置いていかれた二人が、一人ではなく二人で踏ん張るための邂逅を連れてきた。

 清川が店を出る前に連絡先を聞いておく。あっちに戻る前に一度でもいいからいっしょに練習をしてみたいとも伝えると、清川は驚きながらも「わかりました」と笑って、フラペチーノを軽く持ったまま店を出ていった。練習では、就活でやった科目についてとか見せてもらいたいな。そうしたらきっと三谷夕季ゆうきのことも――どういう思いで卒業後もレッスンを続けていきたいと思ったのかも、もう少しわかるのかもしれない。それでなくとも六花が選んだ子だ。もっと――知ってみてもいいのだろう。

 気づけば自分のスマホにも通知が届いていた。六花だ。

『今日はどっちに戻るの?』

 ちょっとだけ考え、一夏は返信を打ち込んだ。途中でフラペチーノの結露で濡れた指をタオルハンカチで拭いて続きを打つ。

『葉子ちゃんに話したいことがあるから、今日も葉子ちゃんちで』

 返事はすぐに送られてきた。『わかった』と端的で、この淡白さが六花の最大の愛情なのだと心が受け入れたのは、留学の少し前のことだった。

 わたしだけが一人なんじゃない。六花もそのあいだ、一人だった。

 半分くらいまで減っていたフラペチーノを飲み干す。さっきみたいな食道の痛みはなくて、冷たさが心地いい。そうして軽やかに立ち上がりダストボックスに容器を軽く放ると、一夏は店を出た。空は日本の茜に染まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る