4-3

(承前)


「あっちの大学は卒業するつもりだけど、そのあとどうしようかなと思ってて。というかあっちの先生にそれをどうするか、いい機会だから考えなさいって。帰省っていうのもあるけど、半分は追い出された感じかな」

 あちらを発つ前にクラウディアに言われたことを思い出す。アイネ、あなたはまだここに来て日も浅いし、やることはたくさんある。でももうちょっと、卒業後のことも考えたほうがいいわね。え、演奏活動? それは続けるでしょう? だから大事なのは、自分の所在をどこにするかってことよ。

菊川きくかわ」も「一夏いちか」も発音しにくいと言ったクラウディアは、一夏いちかいちからドイツ語のいちを意味する「einアイン」を連想したのか、すぐにアイネeineと呼ぶようになった。それは友人たちのあいだでも広まっていて、あちらの自分は一夏ではなく「アイネ」なのではないかという気もしている。――そんなことを反芻していると、「それは」という控えめな声が聞こえてきた。

「わたしなんかに話していいんですか……?」

 清川の質問に一夏は首を傾げた。頬を自分の髪がすべっていく。やっぱり日本の水はこの髪にあう。

「どういうこと?」

「いや……そんな大事なこと、わたし相手に話していいんでしょうか」

「え、いいよ。いいから話してるんだし」

 あっけらかんと言いながら、つい首をひねった。どうしてこの子はこんなことを言うんだろう――と考えてみて思い至る。そうか、わたしが先輩で、自分とは進路が違うってことか。そういう周りの反応は、ここにいた頃と変わらない。

 でも、――わたしは、この子ならもう少し話をしてみたい。

 一夏は少しだけ清川奈央なおのほうに体を傾けて、少しだけ距離を詰めた。ほんとうに、鍵盤ひとつぶんくらい。

「わたしと清川さん、似てるって思ったの」

「えっ」

 と驚いた声を上げた拍子に、後輩の手にあるフラペチーノがきゅっとちいさくなった。

「ど、どこが……?」

「相手のことめっちゃ好きなとこ」

「相手って」

「わたしは六花りっかで、清川さんはりょう。あ、そうだ、わたしが涼のこと呼び捨てなのが嫌だったら言ってね」

「いえ、そんなことは……」

 まったくない、という言葉は立ち消えたけれど、それと同時に後輩がとんでもなくとまどっているのも通じた。まあそうか、いきなり「先輩」にそんなこと言われたら困惑もするよな。でもまあほんとのことだし。と、自分がこうやっていろいろ、距離感とか失敗してきたことを思い出す。――失敗しなかったのは、六花りっか颯太そうた葉子ようこちゃんくらいじゃないだろうか。でも、この子とも、もっと話してみたい。もしかしたらみそらちゃんくらいには、とても興味がある。

 興味がある――思考回路に現れた単語に、胸がぎゅっとなるのを自覚した。それはいつもどうしても切ない色を帯びていた。

「ねねね」

 もう鍵盤ふたつぶんくらい、距離を詰めた。デニムの膝が、ワンピースの青い膝に近づく。

「涼のどんなところが好きなの?」

「ええ?」

 今度こそ清川はのけぞった。

「あ、わたしが先に六花の話をしたほうがいいかな」

「いや、そういうわけでもないんですが……ちょっと想定外すぎて」

「想定外?」

「……菊川先輩、あんまり恋愛の話とかしなそうなイメージで」

 と言いづらそうなことを率直に言った後輩を見て、ふいに耳に声が蘇った。――一夏いちかはさ、思ってること、もうちょっと言葉にしてもいいと思うよ。ピアノがあるからしゃべんなくていいのはわかるけど、そうじゃないところのコミュニケーションってどうしても言葉に頼らざるを得なくなるし。

 ずーっとむかしに六花に言われたことだ。その意味がよくわかったのは留学してからだった。言葉がなくても通じるわけじゃないし、言葉だってつたない。それでも伝えようとすればなんとかなるのだというのはわかった。それは生きるためだった。留学して、音楽を本当の意味で身に着けて、生きていくため。――いつかまた、六花と並びたいからだ。

「――わたし、六花りっかに置いてかれたの」

 後輩の目がまんまるになった。

「というのは、感覚的な話ね。最初はいっしょに留学するって予定、ほんとうだったし」

 かすかに清川がうなずく。彼女も知っていて当然の情報だった。

「六花が行き先を変えただけ。作曲が好きなのも知ってたし。でもわたしは変えなかった。それだけ。留学を後悔してないし、わたしにはこれしか生きる道がない。――そういうところが似てるかなと思った」

 清川はしばらく黙っていた。じっと自分を見て、それからソファに備え付けてある小さなテーブルにフラペチーノを置いた。カップ周りの木目の色が結露でじわっと濃くなる。

「……うまい人って、なんでそう人間観察力がずば抜けてるんですかね」

「……そうなの?」

「そうだと思いますよ。これは山岡さんとも共通意見ですし」

 言い方は丁寧だったけれど、ふいになんとなく、言葉から警戒心が消えたような気がした。隣り合った膝のあいだにあった張り詰めた空気がなくなって、膝にふれる空気があったかい。

「涼もそうなんです。唯我独尊なのは間違いないのに、人が悩んでるところとか、弾き方の癖とか、そういうのはすぐに見抜く。だから三谷みたにとも仲がいい。一方的に涼がじゃれてるだけなんですけど、三谷が本気で嫌がらなくて、それこそこないだの練習につきあったりするのも、涼が本質的なところで音楽に誠実だから……音楽がないと生きていけないことを理解しているからだと思う……」

 smorzando――だんだんとゆるやかに消えていく言葉には、この三年半で積み重ねてきた友人たちへの信頼と、それを惜しむ色が垣間見えた。彼女たちに残された時間はあと半年しかない。

「だから涼はぜったいに留学をやめないし、私が進路を変えないのもわかってる。私には留学できるような技術も才能もないし、そもそも進路として考えてたところに行けそうなのに、それを捨てることはできない。私はふつうだから」

 そこまで一気に言い切って、清川はフラペチーノを手にした。さっきよりもかすかに容量が増えているように見えるのは、少し溶けかけてきているからかもしれない。

「三谷と山岡さん、うらやましいと思う。いっしょにいることで音楽を続けられるなんて、ずるい。最初はどっちも卒業したらやめる気だったのに、相手がいるなら頑張れるって、そんな漫画とかドラマみたいなこと言い出すの、ほんと就活に追い込まれてるときに聞いたって、どす黒い感情しかわかないのに。でもそれを本気で応援するのは自分がそうなれないからだっていうのもわかって、ほんとにずるすぎる……」

 だんだんと凪いでいた水面がゆらぎ始めるような声だった。

「私は涼についていくことも、こっちにいてほしいってことも言えないのに……」

 ああ、と思う。なんだか泣きたいほどうれしくて、一夏はそっと、ほんのわずか、顔を寄せた。

「――下の名前で呼んでいい?」

「え?」

 突然の質問に、清川はきょとんとした。その目には薄く水の膜が張っていて、後輩の思いの強さを感じた。――だからそう言いたくなった。

「名前。名字じゃなくて、名前で呼びたくなった。だめ?」

「いえ、そんなことは……」

 話が飛んだせいか、清川の表情はぽかんとして見えた。それがかわいらしくて、一夏はこの後輩のことをはじめて「後輩」だと実感した。後輩で、友だち。


(4-4に続く)



※本当に余談なんですが、この話の一夏ってわりと日食なつこさんの「white forest」だと思っています。サブスクにもあるので、興味がある方は聞いてみてください。アルバムタイトルが「永久凍土」なところも一夏です……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る