4-2

(承前)


 幸い次の生徒はまだきていなかったし、ドアを開けたところで誰も一夏いちかのことを気にするようすもない。なのにどうしてか落ち着かなかった。練習が中途半端なところで終わったからか、それともやっぱり実家のピアノを弾いていないからか。何度も背中にまとわりついてきたことのある焦燥感を抱えたまま練習棟を出て、中庭を突っ切って、正門を出て、坂道を降りていく。足は止まらなかった。頭の中でシューマンの『幻想曲ファンタジー』を音と譜面で反芻しながらひたすらに歩いているといつの間にか目の前は駅で、一夏いちかはびっくりして数秒ぽかんと駅ビルを見上げた。外の空気も何も感じることなく歩いてきたけれど、練習と外気のせいで喉が渇いている。駅にあるコーヒーチェーン店が目にとまって、ほとんど無意識に足が向いた。てきとうにアフォガードのフラペチーノを注文し、てきとうな席に腰を下ろす。これからどうしよう。

 葉子ようこちゃんって今日はふつうに帰ってくるはずだったような。練習できるかな。でも葉子ちゃんも練習するだろうな、伴奏のこともあるし。それなら教えてもらったスタジオでも借りようか。空きはあるかな。考えていると、頭の中を流れるのがいつの間にか曲からとある詩に変わっていた。


   ――やっぱり I was born なんだね――

   父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

   ―― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――

   その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。

   僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。


 中学のときだ。たぶん――こういう天気だったんだろうと思う。授業中についぼんやりしていると、いつの間にか当時四十代くらいの国語教師がこの詩を黒板に淡々と書いていて、教室の誰もがそれをどこか不思議そうに、でも疑問をぶつけることもやめるように言うこともなく、それを受け入れていた。なぜそういうことをしていたのか、生徒の反応がそうだったのか、そして前後にその教師が何を話していたのかも、もう覚えていない。ただこの詩だけが一夏の中に残った。追いつける限り板書もしたし、それをヒントに図書室で探してみた。吉野ひろしの『I was born』――正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――

 わたしが「生まれさせられた」のなら、それはどうしてだろう。弾くためだろうか。人間は交流をして自分と違う生き物と交流し、そこで遺伝子を新しくし、多様性をもった子どもを産み、育て、種の発展と保存を行うという。本来ならば生きるものの意味というのはそういうことだ。種の保存。だからそこに意思はない。生まれてくる側の意思はない。ただ保存されたその先にたまたま「自分」がいただけだ。なのに人間は、人間だけは、そこに「なぜ」と言い出す。なぜ生まれたのか、なぜ受動態なのか、なぜこのフレーズにはこのような音楽記号が付随するのか、なぜドイツはドイツたり得たのか、ポーランドはなぜああも歴史に翻弄されたのか、なぜ自分は日本人でありながらドイツにいるのか――

 ぐるぐると思考がめぐっていると胃の中までぐるぐるとしてきたようだった。無意識にうずをおさめようと一夏がぎゅっと目を固くつぶったときだった。

「――菊川きくかわ先輩?」

 風が吹いた、のか、と、思った。

 でもドアが開いたようすでもなかった。それに開いたにしてもこの席はドアから遠い。エアコン――じゃない。顔を上げた先に、最近覚えた顔が心配そうにこちらを覗き込んでいるのが見えた。

「どうしたんですか? 脱水とか……」

 違う、といったところでどう説明していいものかもわからない。一夏は表情筋と気力を総動員してほほえんだ。

「だと思う。これ飲んでたからそろそろ落ち着くと思うけど」

 とソファの横に備えられた小さなテーブルにあるフラペチーノを示すと、すっきりとした青いワンピースを着た清川きよかわ奈央なおは「そうですか」とほっとした表情を見せた。

「帰り?」

「はい。ほんとは五限は室内楽なんですけど、うちの先生が出張で」

 そういえば室内楽だと三谷夕季ゆうきが言っていた。組んだグループが違うのか、とか思いながら思考回路を働かせる。清川の右手には一番小さいサイズのフラペチーノがあった。しかも一夏とおなじ、アフォガードの。

「となり、座る?」

「え?」

「あいてるし。飲みに来たんでしょ」

 一夏の提案に清川は一瞬戸惑ったようだったけれど、「じゃあ」とすぐに一夏の右横に腰掛けた。すとん、と音がするような動きで、俊敏というよりも軽やかだ。なんというか……ちょっと、中身が少ない感じがする。

「なんか痩せたりしたの?」

 脈絡のない言葉に聞こえたのか、ストローを口に入れたばかりの後輩はきょとんとして一夏を見返してきた。

「ごめん、ちょっとワンピースの身頃、余ってる気がして」

「……よく気がつきますね」

 と清川は感心の色を隠さずに言った。ということは正解だ。

「三月に手術したんです。それからなんか、あんまり増えなくて。薬のせいだと思うんですけど」

「そうなんだ」

 清川の言い方はそれをどうしてほしいとか、困っているとか、もちろん同情を誘うような色などはまったくなかった。ただの事実、過去を話した、それだけにしか聞こえないのは、彼女がそう捉えている証拠だ。

 清川奈央はひと口、フラペチーノをすすった。それからどこか意を決したような音で、こう言った。

「先輩って、どうして私とりょうが付き合ってたってわかったんですか?」

「えー……カンかなあ」

「カンですかあ……」

 一夏が正直に言うと、清川は細い肩を落とした。

「え、当てちゃだめだったとかある?」

「あ、だめとかじゃなくて、なんでわかったのかなと……」

 そういえば最初の質問はそうだった。話が脱線しそうになり、いかんいかんと思い直す。こういうところもクラウディアとかから注意される。

「正直カンとしか言えないんだけど――」

 と言いかけ、ふと思いつく。カンが働く理由なら、ある。

「わたしが六花りっかを好きだから……?」

「……なんで疑問形なんですか?」

「……他に思い当たるふしがないなと思って」

 正直に言うと、今度こそ清川奈央は「なんですか、それ」と気の抜けたような、年齢による上下関係を感じさせない笑みをこぼした。ああ、これは、と思う。これは、涼、好きなんだろうなあ。

 先日の演奏会に向けて練習をする中で、森田涼の性格とか人となりはおおまかに把握できた。柔軟性もあるしストレス耐性もありそうなので、留学してもいまのところ心配はなさそうだ。それに日本人らしさを含めた独特の癖もあって、それがクラウディアも気に入りそうなのではないかと思う。葉子ようこ夏井なつい先生、そしてそれらの意見をつないだ小野先生の目はたしかだと、一夏でもわかるくらいだ。

 そんな留学一直線っぽい森田が清川奈央のことを好きなのがわかったのは、その演奏会の終了後、楽屋に挨拶に来た彼女を見たときだ。というよりも、話している森田と清川を見たとき。見る人によっては察せられる雰囲気というのはあって、でも付き合っているだけではないことも察せられた。それに気づくのは、シンプルに似ていると思ったからだ。自分が、清川奈央に。

 他に選択肢はないのに、相手が行く道を、百パーセントは応援できていない。でもそんなことおくびにも出したくない。そういうめちゃくちゃなことを笑顔でごまかしている。――ということにひそかにアンテナが立つのは、同族だからとしか説明しようがないと思う。

「先輩たちって付き合ってるんですよね、いまも」

「うん」

「じゃあこれからも?」

「なのかなあ。はっきりとは話し合ってないんだよね……」

 という言い方がぼんやりしていたせいか、清川がちょっとだけ気遣うような色を見せた。なので一夏はすぐに「自然消滅とかじゃなくて」と続けた。

「たんに、卒業してどうするかとか、結婚は形式上するのかとか、そういうのをまだ全然決めてないの。わたしはあっちだし、六花りっかはこっちで学生だし。それでも六花のほうが先に卒業するとは思うけど」

 一夏はほうっておいたフラペチーノを飲んだ。冷たさが軽い痛みとなって食道を落ちていく。

三谷みたにくんとみそらちゃんのほうがめずらしいんじゃない? そうでもないのかな」

「ああー……あの二人は基本的にゴールが一緒ですもんね」

「やっぱりそう見えるんだ」

「見えます。山岡さん、伴奏者で一時期苦労してたけど、そこで三谷がついてくれて、そこからはかなり相性の良さが浮き彫りになったっていうか。そもそも三谷の伴奏がちょっとレベチなのはあるんですけど、うまいんですよ、お互いに」

 そういえば自分がいたころに会った伴奏者は女子だったはずだ。すっかり忘れていた。たぶん、それくらいにみそらの隣にいるのが三谷夕季で違和感がないのだと思う。

「ソロを殺さない伴奏って重宝されるもんね」

「ですねえ」

 と清川がすこし苦い表情になったのは、自分がもっている伴奏のことか、それとも今日休講になった室内楽のことを連想したのか。

「私の就職先、三谷が子どもの頃に通ってた音楽教室なんです」

「ほう」

「店舗は違いますけどね。コースによってはかなり即興とかアンサンブルにも力入れてるみたいで、講習とかグレード試験を受けてると、三谷ってこうやってつくられたんだなってわかるというか」

 一夏は思いっきり深く深呼吸をしながらうなずいてしまった。なるほど、アンサンブルか。

「清川さんがそこを選んだのって、もしかして三谷くんのせい?」

「です。すぐそばにあんな出来物がいると、自分でも育ててみれるかやってみたくなって」

 出来物認定なのか、というところは突っ込まなかった。

「しかもこの四年で終わる予定だったのが、山岡さんがレッスンに通い続けるからという理由で自分も葉子先生のレッスンに行こうかと検討している、とのことです」

「え、ほんと?」

「らしいです。おっそろしいですよねあの二人」

 おそろしい――たしかにそうだ。自分や森田のように「留学」という明確な理由があるわけでもない。なのに、続ける。音楽を。社会の中にいながらにして。

「わたしたちとは――たぶん別のところにいるのかな」

 ぽつんと水滴が落ちるような一夏の言葉に、清川がかすかな疑問混じりの視線を送ってくる。けれどほとんど無意識のままに一夏は続けた。

「たまに思うんだ。自分の中の魔物に追い詰められてるんじゃないかって。ずっと追い詰められて、だから弾いているんじゃないかって。弾くことが苦痛ではない。けれど弾いていないと死んでしまう。自分がどこにいるのかわからなくなる。――けど、あの子は生きてる。魔物と一緒に生きてる。きっとわたしたちとは違うやり方で、弾くのをやめないんだろうね。やめられないし、やめたくない理由もある。――うらやましい」

 しばらく清川は返事をしなかった。無表情というよりも、驚きで表情を落っことしたような顔で自分を見つめてくる。手にしているフラペチーノのマーブルの色だけがかすかに動いていく。

「……どうかした?」

 一夏がさすがに訊くと、清川は「あ、いえ」とゼンマイが動き始めた人形のように反応した。

「先輩からうらやましいとかいう単語が出るとはと……」

「え、うらやましいよ? あの子、ギロチン前提で舞台に立ってるわけじゃなさそうだし」

 演奏会のあと、みそらと清川と話した際に持ち出した例をまた言うと、清川は小さく数回うなずいた。そしてそっと言った。

「戻ってくるんですか?」

「うん……」

 一度小さく一夏もそう言って、ごまかそうとしている自分に気づいてつい苦笑した。

「――ほんとは、それも決めようと思って戻ってきた」

「仕事以外で――ってことですか?」

 一夏はうなずいた。店内のようすを見ると、そこに人種の違いはあるものの、人間としての違いは感じられなかった。いま過ごしている場所と、ここと。大きな違いはない。


(4-3に続く)

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