4-1

 練習を終えた後輩二人は、三限は葉子ようこの伴奏法に参加するらしい。二年生の講義だけれど、みそらの同級生であるソプラノの生徒と一緒に、伴奏の実演をやってみせるという。それもこれで三回目らしく、素直に一夏はすごいと思った。その一緒にやる相手というのが四年生の声楽の中で一番の実力者だということもあってかなり興味を惹かれたけれど、さすがに見に行くのははばかられた。構内をこっそりぶらつくのとはわけが違う。顔も知らないであろう二年生の中にまじるのはどうもさすがに肩身が狭いし、葉子にも怒られそうだ。それなもうそろそろ練習もしないと――などと考えていると、

「使いますか?」

 三谷みたにの声に一夏いちかは顔を上げた。三谷はとくに穏やかな表情を変えず、「ここ、いま見たらまだ予約とれそうなんで、最大二時間なら」と続けた。あ、なるほど、練習室のことかと思うと同時に、どうしてわかったんだろうと思う。自分が弾きたがっているのを、どうしてこの子は。でも答えはするりと内側からこぼれ出た。

「いいの?」

「俺の名前で取っとくんで、何かあったら山岡に連絡してください」

 一夏いちかが連絡先を知っているのはみそらだけだ。――まあ、逐一誰かが監視して回っているわけでもないし、もしかしたらとくに咎められないかもしれない。一夏のことを忘れてしまうほど、さすがに学校関係者は薄情ではないと思う。……たぶん。

「じゃあ、ありがたく」

 一夏がうなずくと、二人は揃って「また」と軽やかに練習室を出ていった。重いドアの音が扉を閉めるのを聞きながら、一夏は窓の外を見た。白い夏の名残があって、あっちとはちょっと色が違うな、と思う。ドイツともだけど、――地元とも、ちょっと違う。

 さっきまで後輩が座っていた椅子に腰掛ける。練習用の硬い肌触り。なつかしい。この部屋もたぶん、ここにいた頃に使ったことがある。また記憶に色がついていく。

 そっと手を載せて和音を鳴らすと、練習室特有の、狂った和声が部屋に響く。毎日いろんな生徒に遠慮なく使われる練習室のピアノは、調律がとても狂いやすい。同じ人が弾いたとしても、最低年に一回は調律が必要になる。でもここの楽器は同じ人のものですらなく、そのぶんのクセに晒される楽器は個人のものより劣化が早い。一夏はふと思いついて、ピアノの翼を大きく開けた。つっかえ棒でしっかりと固定すると、中に張り巡らされた弦が張り巡らされているのが見えた。――いつ見てもうっとりするような光景だ。その奥、側板の内側に、それはひっそりとあった。

 調律の日程のメモだ。取り付けてあるケースからそれを引き出す。最後に調律されているのは――三ヶ月くらい前か。確認してすぐに戻し、一夏は名残惜しく弦を見つめながら蓋をすぐに閉めた。開けっ放しがいいけれど、練習室でもさすがに音量が大きすぎる。

 何を弾こう、と、決めたわけではなかった。手を載せてそのままそこに体を任せる。――流れてきたのはシューマンの曲だった。

 組曲「子供の情景」、第一曲『異国から』。

 原題をVon fremden Ländern und Menschenという。日本語訳にはほかにも『見知らぬ国』『異国とその人々』などいくつか言い方がある。いずれも大人から見た子どもの日常のようすを文学的に綴った作品で、シューマンの描写力と表現力がいかんなく発揮された傑作だ。タイトルと、技術的にそう難しくはない短い曲が集まった組曲だという点にだまされそうになるが、「これは大人が子どもの時代を懐古するための曲です」とシューマン自身が綴っている。

 ドイツがどういう場所かは、この数年でよくわかった。どういう性格、民族性を持った人がいて、どんな町並みで、どんな言葉で、生活にどんな音があふれているのか。何よりも言葉が音楽に影響する――相互関係にあると言ってもいいのかもしれない。それを知れただけでも留学した甲斐はあったと思う。きっとそれが文化を知るということだ。

 調律は狂っているけれど、それでもいい音だった。後輩二人が練習していたときも、そっと寄り添ってくれる音がしていた。愛された楽器は、生徒をも愛す。

 そう思うと、実家に置いてあるピアノが恋しくてならなくなる。小学校六年生のときに買ってもらったグランドピアノは、この大学にいるあいだはこちらに持ってきていたけれど、さすがに海を渡ることはできなかった。借りている部屋にもグランドピアノがあって、歴史があるのを感じる。自分よりも前に、ほかにもこうやって故郷を出て、その部屋でピアノと向き合う人がいたのだと。

 ――申し訳なさに押しつぶされそうになるのは、こんなときだ。

 ごめん、また行けなくて。きみじゃないとだめなのに。きみじゃないとわたしの音がわたしのままに出ないのに。あれほど一緒にいたのに、十年足らずで離れて、ほんとうにごめん。会いたいよ。

 昔からどうにも、実家の――自分のピアノを長く弾かないと、ひどい罪悪感を覚えるのだ。演奏会に行くからその日の練習時間がすごく短くなるとか、学校行事で一泊するとか。そういうときはどうしても落ち着かなくなる。そわそわするというより、追い詰められている気になると言ったほうが正確かもしれない。大学にいた頃に実家に帰省するときもそうだった。ピアノは大学のマンションにあるのだから、早くマンションに戻りたくて落ち着かない。この衝動をなんと呼ぶのかは、いまだにわからない。

 明日は事務所での仕事があるから実家には戻れない。日本にいられるのはあと二週間ほど。ドイツに戻る前にまた、絶対に実家に行かなきゃと思う。じゃないと、耐えられない。

 確定できない予定への焦りを振り払うように音に集中する。弾いていると、いつもは思考の片隅に追いやっているものが鮮明になる。そのいっぽうで、並行して思考は音楽と向き合っている。いま弾いているのは楽譜の何ページ目、音の長さは何分音符なのか、スラーなどの記号は何なのか、すべて頭に入っているし映像としても記憶されている。「子供の情景」だけではなくてすべてそうできるようになったのは、――きっと六花りっかのおかげだ。

 毎月、楽譜を送ってくれるから。

 楽譜はメールに添付される形で送られてくる。メール本文にある近況なんかはそれほど詳しく書いてない。でも、楽譜を読めば六花りっかがどうしているのか、何を学んだのか、何を乗り越えたのか、感情が落ち着いているのか、それともなにか逸るようなことがあったのか――そういうことも手にとるように想像できるようになった。まるで物語を読んでいるようだと思う。

 そうしているとふしぎなことに、他の作曲家の楽譜も読めるようになった。高校まではとくにちゃんと楽譜を読めと言われ続けてきたので、これは大きな変化だ。

 そういうことも、ほんとうは、あの実家のピアノとやっていければよかったんだろうな。

 じつはこっそり名前もつけている。もちろんピアノに、だ。男女どちらなのかとか、年齢的なイメージもある。言わないけど、他の人には。――六花以外には。

 夏が遠くなる。物語に没頭する。シューマンが描いた物語を、ピアノと一緒にしていく。部屋がドイツの暖炉のある部屋に変わる。

 組曲は全部で十三曲あり、通しで弾くと二十分ほどかかる。でも止まることはない。物語だからだ。子どもの成長が止まらないように、時間をはらんだ物語も止まらない。つねに未来に向かって流れていく。――いや、未来をつくっているのか。それとも導かれているのか。それはまだ、一夏には判然とはしなかった。ただ、そこにある生命を止めることはできないということだけは本能的にわかるようになった。

 最後の音をペダルとともに消して、それからゆっくりと手を下ろした。暖炉のそばで眠る子どもたち、そしてそれを見守る母親の穏やかな横顔が遠くに消えていく。景色が日本に戻る。

 消える映画のスクリーンをじっと見つめるように前を見ていた一夏はしばらくそうしていたけれど、一度目をつぶって頭を振った。そうしてまた手を乗せる。おなじく作曲者はシューマン、曲は『幻想曲Fantasieハ長調C-Dur

 帰国前、クラウディアに――一夏の現在の師匠であり、羽田はねだ葉子のかつての師匠であり、森田りょうの未来の師匠であり、小野文子ふみこの盟友でもある女性教授に渡された宿題だ。ハ長調の潔白さとシューマンの深い哲学が絡み合った名曲。全部で三楽章あり、譜読みはある程度終わっている。けれど一ヶ月やそこらで読み込めるものではなかった。シューマンとの対話Dialogがまだ、決定的に足りない。

 楽譜、持ってくればよかったかな。たしか葉子ちゃんのピアノのところに置いたまんまのはず。暗譜はほぼできている。ただ細かいニュアンスは読み返しながらでないと精査できない。シューマンが問いかけてくるからだ。

 その強弱記号の裏にある意図は何なのか、どこが語り手の抱えた課題の解決のきっかけになるのか、解決の伝え方はそれでいいのか、悩ましいところは本当にそれで悩んだと言えるのか――生き方はそれでいいのか、なぜ生まれてきたのか自分に問いかけたのか、なぜこの世界はこうもままならないのか。

 生き方を問うてくるのは、シューマンが哲学の国であるドイツ人だからか。それとも彼の人生がそうさせるのか。それも一夏にはまだわからない。――わからないことだらけだ。

 覚えている限り気になるところを突き詰めて三楽章まで終わらせると、あっという間に二時間近く過ぎていたようだった。スマホが時間終了の五分前を告げてパイプ椅子の上で震え始める。

 一夏はしばらくそれをほうっていたけれど、ここが三谷の名前で借りていることを思い出し、手を止めてスマホも止めた。そのまま手早く楽器を片付け、ドアを開けて部屋を出る。


(4-2に続く)

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