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 後輩――といまだに呼んでいいのかわからないけれど、とりあえず便宜上そう呼ぶ二人は、たしかに「ほんとうに合わせをするだけ」というみそらの言葉のとおりだろうな、とわかる練習をしていた。最初はそこそこ自分の存在を気にしていたようでもあったけれど、それも数分のことだった。見られることに慣れているし、練習をおおやけにすることにも抵抗がない。レッスンだけではなく公開レッスンや試験、コンクールのたまものだなと思う。

 じつは山岡みそらが練習として歌っているところを見るのも、三谷みたに夕季ゆうきが演奏しているところを至近距離で見るのも一夏いちかにとってははじめてだ。みそらとはなぜだかこの練習棟で雑談をすることが多かったし、三谷は小野・羽田はねだ合同発表会で数回演奏を聞いたきりだ。だからだろうか、すなおに関心してしまう。――いや、うーん、どっちかっていうと、アンサンブルに関心してるのかな。

 一夏いちかはどうにもソロ向きだった。伴奏や連弾、室内楽のようなアンサンブルが苦手だということではない。できるのはできるし、純粋な楽しさも感じるし率直に好きだ。ただ、だんぜんソロのほうが向いていると思う。自覚もあるし、指摘されたこともある。葉子ようこなんかはとくにそうで、「きみくらい心臓が強いか、自分に興味あればよかったのかなあ」なんてぼやいているのを最近も見た。興味、というのはわからなかった。自分に興味――そんなものポケットをいくら逆さまにしても出てこない気がするけど。

 でも――と思う。いま後輩二人を見ていても思う。この二人は互いに興味があって、おそらく周辺の人間にも興味がある。だからディスカッションが起きる。さっきのフレーズをどうするか、歌詞がこうならペダリングはこうするほうがいい、さっきのタメはもうちょっと短くてもいいとか。そういうことを言えるのは、相手がいることを知っているからだ。と、一夏は思う。

 自分は違う。基本的に一人だ。一人で楽譜と楽器に向き合って、聞こえてきた音に首をひねりながらつぎの音を模索する。そういうことが苦にならず、一人で舞台に上がる恐ろしさにある種の親しみのようなものを覚える、この特性がめずらしいことも理解している。

 とはいえ――と、エアコンの風が髪を揺らし、毛先が頬をなでるのを感じながら思う。うーん、この二人はちょっとあれだな、興味をそそられるというか、アンサンブルしてみたくなるような音を出すな。六花りっか颯太そうたみたい。

 とそこまで思って、ピアノの前に座っている端正な男子が藤村ふじむら六花りっかの後任であることを思い出した。あ、いや、違うか、今はもう「だった」になるのか。自分があちらでピアノと向かい合っているあいだに、未来に来るはずだった事象が過去になっている。これは――すごいのか、それともやばいのか。

 妙な感心とほんのわずかな焦燥のようなものを自覚しながら、一夏は音に耳を傾けた。プッチーニ作曲のオペラ「ラ・ボエーム」から通称ムゼッタのワルツ。うん、いいな。みそらちゃんの声はちゃんと「イタリア語」だ。カタカナじゃないのがいい。それにちゃんとムゼッタだ。日本人なのにムゼッタの雰囲気としゃべり方になっている。イタリアにいたわけでもないだろうに、すごい。

 と思うと、ここでもそのくらいができるのだとやはり感心してしまう。と同時に、じゃあなんでわたしはわざわざあっちに行っているのかとも思う。飛行機で十三時間以上、それからさらに鉄道でまた四時間近くかかるのに? ――と、あちらを出てこちらにたどり着くまでの時間を反芻しそうになってやめた。

 みそらのもつキャラクターの解像度の高さにも感心するけれど、専攻がおなじだからかつい、伴奏のうまさにも体が勝手に反応する。下手な伴奏はソロを殺す。でも三谷夕季の伴奏はそんな心配をしなくてもいいし、――もしかしなくても、唯一無二かもしれないとも思う。少なくともみそらに関しては互いのベストを引き出す弾き方をする。生まれながらのセンス――伴奏にセンスは欠かせない――に加えて、ソリストに対する理解がすごい。六花りっかの後任に挙げた葉子ちゃんと小野先生の耳は、やっぱりすごかったんだ。そう純粋に感心しながら、かすかに表情が歪むのを感じる。

 でも、これはだめだ。こんなことをされたら、一生歌うのをやめられない。

「三谷くんて」

 言葉は自然と転がっていった。曲について軽いやり取りをしていた後輩二人が、数十分ぶりに自分を認識するのがわかった。

「このまま卒業するんだっけ? こっちに来るの、りょうだけだよね」

 三谷夕季は動じることもなく、「はい」と素直に答えた。

「入学前から、四年って決めてたので」

「じゃあ院もなしか」

「さすがに一人っ子とはいえ、限度はあるかなと」

 三谷は苦笑するような顔でそう言った。限度、と音にはせずに口の中で繰り返す。一夏がうなずいて黙ったのを確認すると、いったん話が終わったと判断したのか二人はそのまま練習を再開した。

 自分も一人っ子だけど、そういえば限度なんかは考えたことがなかった。一夏が続けているのは、やめる気がなかったし、経済的な課題もなく、さらにそれに見合うだけの実力があったからだ。留学に関してはそれこそ実力で給付奨学金をとったのだから。

 いや、でもまあ、それでもやめて違う方向に行った人もいるか。そう思いながら練習を聞いていく。三谷の音は葉子の音によく似ていた。葉子のドイツでの師匠は、いま一夏が師事している人物だ。そのせいもあるかもしれない。

 血の繋がりがなくとも、国籍が違っていても、一度も出会うことがなくても、こうやってつながっていくのが音楽だ。楽器もひとつではない。管楽器も弦楽器も打楽器もあるし、そもそも作曲という付き合い方もある。――そういうやり方を選んだのが、高校からの同級生である藤村六花りっかだ。

 窓の外を見ると、陽の光はまだまだ強かった。風に揺れる梢の緑は力強い。

 似てるかも、と思う。藤村六花と三谷夕季はどこか似ている。弾き方――は少し違うけれど、伴奏を苦にせず、相手のパフォーマンスを引き出すことに喜びを見出すところも似ている。でも、一番似ているのは、そのあっけなさじゃないかと思う。

 大学で終わるだなんて、――留学をやめるだなんて、どうしてそんなにあっさりと言えるんだ。やっぱりちょっとむかつくかも、と一夏は思った。久しぶりに。

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