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 久しぶり――どれくらいぶりか、正確な数字がぱっとでてこない。二秒ほど考えて、菊川きくかわ一夏いちかは視線を落とした。もうこれだけでめんどくさい。やめよう。

 学校のシンボル――と言うと大げさだけれど、住宅街にあっても目立つ尖塔の先から足元の石畳を見る。九月の熱はじゅうじゅうとそこにくすぶっていて、見るだけでも熱い。でも坂道をのぼってきたぶんの汗も気持ちわるいし、さっさとどこか日陰に入りたい。

 キャップがあるから日傘はいいやと安易な判断をしたことを後悔する。キャップもゆったりとしたシャツもスキニーデニムもスニーカーも黒。差し色はそこそこあるにしろ、ここまで陽の光を集めやすい色にしてしまったこともまた悔やまれる。葉子ようこちゃんが急かすから、とひとのせいにしておく。というかもうあんまり考えたくなくて、とにかくどこかに入りたかった。日本の湿気はまじでやばい。食堂――いや、目立つだろうか。でも、もうそんな人は――視線で周囲を確認しても、やっぱり杞憂だと思う。

 知らない生徒ばかりだし、あっちもわたしのこと、気にしてないな。というか知らないな。

 よかった、と思いながら歩いていく。ラフな格好なので、よけいに学校の生徒だと思われているのかもしれない。間違いじゃないもんな、数年前に退学したというだけで。と心の中でへりくつをこねながら歩いていく。学校の人数は、都内のもっと生徒数が多い学校よりは少ないけれど、生徒はあまり見かけない人物がいても気にしないようだ。年代が近いのがわかるからだろうけれど、こういうところ、あんまり変わってないのかも。

 誰も知らないくらいでちょうどいい。そんなことを思いながら、なんとなく練習棟に向かう。意味もなかったしあてもなかった。葉子の家から追い出されて、それから一度はコーヒーショップで時間をつぶしていたけれど、スタジオをレンタルする気にもなれずになんとなくここに来てしまった。六花りっかは今日は学校のはずなので部屋に行ってもよかったのだけれど、彼がいま何をしているのかを把握していれば、その時間の邪魔をする気にもなれなかった。

 案外覚えてないけど、覚えてるところもある。練習棟に向かう景色は覚えてるみたいだ。

 ぼんやりとした記憶に色を付けるような気分で一夏いちかは歩いていく。と、少し先、食堂から練習棟に向かう人の列の中に、見覚えのあるシルエットをふたつ見つけた。ついじっと見ていると、何か感じたのか小さいほうが軽くこちらに視線を投げ、すぐに戻し、そしてすぐに勢いよくまたこちらを見た。ドラマのワンシーンのような見事な二度見に、一夏はつい吹き出した。

 そんな隣の人物に気づいたのか、もうひとりもこちらを見て、おなじくびっくりした顔をした。ここにいた頃は一学年下だった――でもいまは四年生になっている、山岡みそらと三谷みたに夕季ゆうきだった。

「せ、せんぱい、なんでここ……」

 うろたえたように言うみそらに、一夏はにこりと笑った。拍子に切った髪の先が顎をかすめていく。

「今日、終日オフ。暇だから来てみた」

「葉子先生とですか?」

「ううん、ひとり。なんとなく気が向いただけ」

 三谷の質問にも屈託なく答えると、ふたり揃ってびっくりした顔で互いを見つめる。どうすべきか、どうもしないでいいのか、という思考と言葉にならない会話がふたりの間をめぐっているのだろうというのはすぐにわかった。一夏はすぐに言った。

「いまから練習?」

「あ、はい」

 一夏の言葉にみそらはすぐにうなずいた。声がとても明瞭で心地いい。先日の演奏会をのぞけば、最後に会ったのはまだみそらが一年生のころ。それから三年を経た後輩は、それこそ花が開いたようなうつくしさをまとっている。――ふと気づいた。いまここが日陰なことに。いま。

 みそらの声を聞いて、気づいた。

 砂漠で水場を見つける気分ってこんなものだろうか。俄然興味がわいた。世界に色がつくようなこの声に。

「見せてもらえない?」

「え、――え、練習ですか?」

 突然の一夏の申し出にみそらは可愛らしい顔と声に戸惑いの色をにじませる。それでも声は涼やかだ。それがうれしくて一夏は「うん」とうなずいた。

「……ほんとうに合わせをするだけですけど」

「うんうん」

 屈託なく一夏が続けるので、みそらは困ったように横の三谷を仰いだ。視線で問われた三谷は「山岡がよかったらいいよ」と悩むようすもなく軽く言う。みそらは一夏に視線を戻すと、ほんのわずかに苦笑をにじませて、それでもやわらかに「じゃあ、一緒に」と言った。

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