番外編 I was born

1

 窓から差し込む光を見ながら、この時間にこの色合いか、と葉子ようこは思った。地元とこちらでは、日の入りと日の出が一時間くらい違う。地元のほうがどちらも一時間ほど遅くて、その違いに大学に出てきたころは戸惑ったものだった。なんというか――夜に追われているような気がしたのだ。

 でもそれも、大学にいる五年のあいだにすっかり慣れてしまったし、そのあとにはサマータイム――夜が極端に短い夏と、昼間が極端に短い冬をもつドイツにも行ってしまったので、そういった違いもそれぞれの場所の特性だと思えるようになった。

 それでもほんの一週間ほど前に帰省した際に感じた一日の流れは体にしっくりくるものがあった。木村先生の伴奏――木村先生の奥さんであるそもそもの伴奏担当の麻里子まりこ先輩の代打、その初遠征ではあったけれど、実家に泊まったこともあって体への負担はほとんどなかった。いっそリフレッシュできたといってもいいくらいだ。

 ――で、この子もそのリフレッシュなんだろうか。と、葉子は地元から一緒にここまでやってきた相棒であるグランドピアノ、その横に客用の布団を敷いて寝息を立てている菊川きくかわ一夏いちかを見下ろして思った。葉子が寝室から移動してきてポットでお湯を沸かしても、食器を用意しても、菊川一夏はすうすうと眠っている。

 ドイツに行っている二年ちょっとのうちに、大人っぽくなったと思う。黒髪はそのままだが、こっちの大学にいたころは背中の中ほどまであるロングだった。けれど、あっちに行ってから顎くらいで切りそろえたボブカットになっている。これは葉子も経験したことだけれど、水が合わないのだ。日本の水は軟水だけれど、ドイツは硬水。日本人の髪質はあちらの水と相性が良くない。だから切った、と一夏が言っていたのを思い出して、葉子もついしみじみ懐かしくなってしまった。

 いや、じゃなくて。葉子は一度大きく息を吐いた。コーヒーを注いだカップをテーブルに置き、つかつかと布団に向かう。

「菊川、起きて」

 返事はない。窓からそそぐ陽の光は残暑のまぶしさで、一夏いちかの白い頬を照らしている。子どもの夏休みのラジオ体操を連想しながら、葉子はもう一度呼びかけた。

「わたし、もうそろそろ準備するから、せめて布団から出なさいってば」

 せめて布団から、のときには葉子の手はすでに一夏の上がけをつかんでいた。引っ張り上げるようにして布団を持ち上げると、やっと「ううん」などの文字にしにくい声が聞こえてくる。

「だいじょうぶ……わたし今日よていないし……」

「きみが大丈夫でも、わたしには仕事があるの。せめて藤村ふじむらのマンションに戻りなさいよ」

「今日なんようびなの……」

「月曜日。あと一時間したらいっしょに出るよ」

 葉子がレッスンのような口調で言うと、やっと一夏はうーん、という声を何度も発しながら何度も姿勢をごろごろと変え、それからやっと起き上がった。多少腹が立たないこともないけれど、帰省していて気が抜けているのかな、と思うと、そこまで強く出れないのも事実だ。――自分が経験しているだけに。

 一夏は大きめのシャツにレギンスという格好で起き上がり、髪も整わないままに目をすがめつつ立ち上がった。そしてそのまま横にあるピアノの蓋を開け、鍵盤の上のフェルトカバーを取り、きちんと畳んで譜面台の横に置くと、ピアノ椅子に腰掛けて手を載せた。

 空気が一掃されるような音。――ショパンエチュード、作品二十五の七番。

 技術力の高さから入る曲ではないけれど、葉子は背筋が震えたのを自覚した。寝起きでこれ。寝起きでこの――いままで弾いていたような音のクリアさ、その緩やかな叙情性と構成の難しさをいともたやすく弾きこなしてしまう。こういう生活をしているのかな、と思う。――ドイツで。一人で。下宿先の部屋にあるピアノと。そう思うとせつないくらいの懐かしさが胸に迫る。

 菊川一夏は、葉子の師匠でもある小野先生の元生徒だ。レベルの高さから大学を卒業せず、二年生が終わった段階で渡独した。正直そのほうがいいだろうと、葉子も感じていた。一夏のレベルは群を抜いていたし、なにより彼女にとって藤村の存在は大きすぎた、と、いまでも思う。

 あの頃の菊川一夏にとっては、藤村六花りっかがいない日本の大学よりも、藤村のいないドイツの大学のほうが生きやすかったのだ。

 そんな一夏がここにいるのは、その藤村から打診された案件のためでもあった。夏休みのあいだに、テレビドラマで使用する楽曲の録音と撮影をすることになった。渡独したきり一度も帰省していないという理由ももちろんあるけれど、一夏が藤村の誘いを断ることはない、という葉子や江藤えとう颯太そうたの読みどおり、彼女は日本に戻ってきた。

 とはいえ実家はここから電車で数時間のところにあるし、仕事をする、もしくは藤村と一緒にすごすならこちらにいたほうがいい。そういう理由もあって、一夏は何日かに一度は、葉子の部屋に居候をすることになった。藤村も現役大学生なので練習は当然必要なので、藤村のところばかりいられないというのも理解できる。藤村の専攻はいまはピアノではないけれど、メインで使う楽器のひとつがピアノであることは変わっていないようだ。そうすると楽器の取り合いにもなりかねないので――そう考えると、やっぱりみっちゃんとみそらってうまくできてるんだな、なんて感心してしまう。おなじ楽器だから一緒にいられないこともあるのだ。

 うまくなったな、と思う。インスタントにしてはいい香りのコーヒーに口をつけながら一夏の演奏を聞いていると、こっちの学校にいたころにはなかった深みのようなものが伝わってくる。これは現地――クラシック音楽における現地のひとつであるドイツで勉強するからこそ身につくものだと、葉子もやはり自分の経験から思う。文化が違う。文化が培ってきた教養が違う。そこに日本人としてひとりで向き合う。それだけでも、変わるものは大きい。

 コーヒーの苦味が、心を落ち着けていく。――いや、と葉子は思った。それだけじゃない。むかしはもっと譜読みが雑な印象だった。

 もちろん音を間違えて読んでいるわけでも、作曲者が指示したことを守っていないということではなかった。記されている内容をきちんと理解し、再現している。ただ――それだけ、という印象はぬぐえなかった。それが改善されているように思えた。

 藤村のおかげなんだろうな、と思う。本来なら一夏とともにドイツ留学を予定していたのが、江藤颯太の元伴奏者でもある藤村六花だ。彼にもドイツ留学の話があったが、それを選ばなかった。正確には、一度選択したが、本人が熟考を重ねた結果、別の道を選んだ。二年生が終わるタイミングで退学し、他大学の作曲専攻を受け直して見事合格したのだ。高校から続いた菊川一夏と藤村六花の並びはそこで一度絶たれることになったが、その代わりにと藤村が約束したのが、少なくとも毎月ひとつは曲をつくって一夏に送る、というものだったという。

 そう思うと、恋の力って偉大だ、というフレーズが頭をよぎる。演奏レベルがずば抜けて高く、積極的なコミュニケーションを好まない一夏が、おなじレベルで弾ける藤村に惹かれるのは当然だったし、それは藤村もおなじだったように思う。

 高校のときからこの二人は、二人で生きてきたのだと思えた。孤立でもなく、依存でもなく、そうならないギリギリのところで、二人で。――大学にいた頃の二人は、葉子からはそう見えていた。そして先に動いたのが、藤村六花だった。彼が留学しないとはっきりと言ったのは、二人が二年の夏ごろだった。小野先生をはじめ、葉子も先輩としてそれは気をもんだ。どうにも離れてやっていけるように思えなかったのだ。特に一夏が。でも一夏はそれをよしとした。よしとしたというか――他に選択肢がなかったのだと思う。藤村の音楽を一夏が愛していたから。

 だから、藤村の曲が一夏の譜読みの甘さを変えていったというのなら、それは偉業だ。人の演奏を変えたのだ、あの子は。すごいな。

 一夏の演奏はシューマンの「幻想小曲集」の『夜に』に変わっていた。雰囲気も寝起きから少し覚醒したようにも見えて、演奏の繊細さもさらに増したようだった。一夏がドイツで師事している先生は、葉子も師事したクラウディアだ。ドイツ人らしい金髪に鼻の高い美人で、年齢は小野先生のいくつか下のこちらもベテランだ。地元民ならではの「ドイツの音のよさ」を叩き込んでくれたクラウディアの教えは、当然ながら健在のようだ。

 とりあえず起きたからいいか、と割り切り、葉子はほったらかしの布団を片付け始めた。弾き始めたらしばらく一夏はこのままだ。さっさと片付けと自分の準備を進めたほうが建設的だった。

 食器を片付け、化粧をし、着替えなどを済ませていると、いつの間にかピアノの音はやんでいた。何をしているのかと思ってリビングに戻ると、一夏は楽譜やCDなどがある棚の前にしゃがみこんでいた。

「なにしてんの」

 疑問がそのまま口から出た。けれど一夏は気にしたようすもなく、手に持っていたCDを軽く顔の前に掲げた。

「葉子ちゃんもこういうの、聞くんだなと思って」

 CDのジャケットを見て、葉子はつい苦笑した。

「古いの見つけたわね」

「この人、いまも現役だよね。洋楽、そこまで詳しくないけど」

「うん。いまだとそのCDもサブスクに入ってるわね。って考えると聞くのラクになったなあ」

「聞くのがラク……」

 葉子の言葉を繰り返した一夏が眺めているのは、まだ小学生か中学生くらいに買った洋楽のCDだ。可愛らしい見た目でロック調、というスタイルが当時日本でも受け入れられた女性アーティストで、歌番組で見かけて気になって、お小遣いと相談しながら買ってしまったのだったと記憶している。

 と思い返していると、くすりと一夏が笑った。

「クラシックやってると、クラシックばっかり聞いてると思われがちだよね」

「思われるねえ」

 思わず苦笑がもれた。「葉子でもそういうの聞くんだ?」と中高生時代に言われたことは、一度や二度ではない。

 と、話がそれそうになっていることに気づいて葉子は一度大きく息を吐き、それから吸って、次の吐く息に乗せて「それより菊川」とはっきりと言った。

「聞きたいなら帰ってきてから。早く着替えるなり何なりしないと、ここに監禁になっちゃうわよ」

「はあい」

 気のない返事をして、一夏はCDを棚に戻すと立ち上がった。予定がないということはおそらく藤村のところに行くのだろうなと思いながら、そのようすを横目に見る。彼女と同学年だった生徒はもうほとんどが卒業してしまっていて、院にいる生徒はそこまで仲が良かったわけではないと記憶している。そもそも一夏が誰かになつくこと自体がめずらしいのだ。

 と考えると、わたしってかなり気を許されているのか。それは悪い気はしない、というよりも先輩として、もしくは講師としてほっとするところもあるけれど、それでもやっぱり一夏の自由さは気になった。なんというか――ちょっとした反抗期のような。

 自分の思いつきにまさかと軽く首を振る。葉子はきちんとピアノを片付ける一夏を認めて、出勤の準備に戻った。――大切な生徒が、今日も学校で待っている。

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