8
――もし自分が好きなものを同じくらいの熱量で好きな人がいたら、絶対に手を離しちゃダメだよ。
ドアノブに手をかけようとして、ふいに思い出されたのは
三谷が「こんにちは」とこちらもいつもどおりに挨拶をして部屋の奥を見ると、小さなテーブルの前に小柄な人物が座っていた。女性ではめずらしいくらいの思い切ったショートカットが、小さな顔に似合っている。
「その顔、考えを変えたわけじゃないようね?」
半ばからかうような口調で言って、
水曜の夜に葉子と小野先生に送ったメッセージは、コンチェルトの学内選抜を受けるのをやめる、ということだった。葉子は予想通り「みっちゃんが決めたことならいいよ」という返事で、昨日のレッスンも同じような調子で「じゃあほかのを頑張りましょう。それでも盛りだくさんだし」というあっさり具合だった。
でも小野先生は違った。「それなら、金曜にあらためて話しましょうか」――その金曜がレッスンをさしているのは、わざわざ聞かなくてもわかることだった。
「葉子はどう言ってるの?」
「俺が決めたことなら文句は言わない、だそうです」
「かっこいいこと言っちゃってまあ……」
あまり動揺していないのかな、と思ったけれど、葉子、と言ったのには引っかかった。いくら葉子が小野先生の元門下生であっても、レッスン中の小野先生はいつも「
「それで」
荷物をベンチに置き、楽譜を取り出して生徒用のピアノの前に腰掛けた生徒を見て、小野先生はスカートに包まれた脚を組み直した。生地がこすれる音に、先生の声が乗る。
「コンチェルト選抜を受けない理由は?」
聞こえた言葉に、三谷はお腹、
「
かすかに喉が震えそうになる。小野先生のまとう空気はいつもどおりで、それがよりいっそう、自分の中にいる「生徒」の部分をおびやかし、体が声にならない悲鳴を上げてくる。小野先生が「講師」として百戦錬磨であることを、体が勝手に感じ取っているのだ。
「『小野門下』のカードを持って、非公式ながら学年トップスリーの順位があって、譜読みもしておいて、今回が最後のチャンスだってことをわかっていて、そういう優先順位をつけたのね?」
「はい」
三谷がうなずくと、小野先生は呆れたようにひとつ息を吐いた。
「優先順位はたしかに大事ね。それを理解できない生徒ほど、練習がへたくそだわ。でもそれはそれ。――ほかの人が、あなたに用意された席に座ろうとしてるのよ。悔しくはないの?」
悔しい、という言葉に三谷は思わず首をかしげた。悔しい――悔しい?
さっき先生が並べた事実は、たしかに自分が頑張ってきた結果なのだと思う。でもそこまでやれたのは、門下生とか、上位の生徒になりたかったからじゃない。ほかの生徒は違うかもしれないけど、すくなくとも自分は違う。単なる結果だ。
もちろん自分の努力もあるけれど、正直に言えば、努力を支える最大のモチベーションは、三谷
「それに」
わずか数秒の思考のあいだに、先生の次の言葉が鋭い切っ先を向けてきた。
「コンチェルトこそ、あなたが好きなアンサンブルでしょう。なぜそちらを選ばないの」
けれど、いつかのみそらの声が言うのだ。ひとりでも歌えるようになりたかったの――たったひとりでもいいから、昔聞いた歌を自分が満足するように歌いたい――自分に足りないのは、これなのだと思った。
「ひとりでも、弾けるようになりたいと思いました」
それだけ言うのにも、腹の底にある鉛を押し出すようなエネルギーが必要だった。でも、これが答えのような気がする。やっと、いまになってあの日、ほの暗い店内でみそらがまつげを震わせて言っていたことを理解できた気がするのだ。
顔を上げると、小野先生の年齢を重ねた瞳と、自分の心臓がぶつかったような錯覚をおぼえた。それでも言った。
「この先、自分が何年生きられるかもわからないし、仕事しながらどこまで練習ができるかもわかりません。だから、備えておく必要があるとも考えました」
「一人になることに?」
「はい」
「一人で弾くことに?」
「はい」
うなずきながら、先日の
もしかしたら、と思う。一人で弾いていく覚悟を身につける方法を学ぶための場所が、欧州への留学なのかもしれない。
自分たちが学ぶ西洋音楽は、キリスト教を下地にもつ大陸で生まれた。大陸ということは、たとえそこが韓国の端であったとしても、その気になればいつでも徒歩でパリに攻め入ることができるということだ。そんな肌感覚すら、島国に生まれた自分たちは、本当の意味では知らない。その微細な差がいつしか演奏へと大きくかかわるのは、間違いないのだと思う。――でなければ、先輩の演奏がああである理由が、すくなくとも自分には理解が及ばなかった。
生まれ育った場所とは違う、人種も文化も歴史も違う場所で、ただ一人、自分の音楽と向き合う。それは日本人ではなくてもおなじだ。誰もがそうやって集まってくる。誰もが一人なのだ。誰もが一人であり、その中に家族がいて一族がいて国があって、そこではじめて生活というアンサンブルになる。そして、それと同じくらいに身近にある命の脅威、それに晒されながらそれでも祈りを捧げるものが、西洋音楽なのかもしれなかった。
数秒、小野先生は黙っていた。双眸は変わらない。ふいにこの小柄な女性も先輩と同じようにドイツで覚悟を決めてきた人だということに思い至る。その相手に向かって言うには、あまりにも大きな勇気が必要だった。だからこそ、心の中に描く人物がいる。
その人に、――その人たちに、失望されないような人生を。それを選べるようにするためには、まず自分の足で、一人で立たなければならないのだろう。それを優先順位と呼ぶのかもしれなかった。
だから、息を整えて、三谷は頭を深く下げた。
「一度は受けると言ったのに、それを取り消すようなことになって、すみませんでした」
はっきりとした謝罪の言葉に、ほんわずか、弦が共鳴して鈴が鳴るような音が聞こえるのがわかった。そのあまりにかすかな音は、楽器の肯定の声か、それとも非難の声なのか。
「……決めたことをひるがえす、それを『ごめんなさい』だけで――正式な謝罪ではなく、口先だけで終わらせられるのは、学生までですからね」
小野先生の言葉はあくまで冷静、――いっそ冷徹、とも言えるかもしれない。そういう雰囲気をただの一片も崩さなかった。
「わかってます」
「インターンに行っているなら、なおのことよ」
「――はい」
三谷が顔を上げてうなずくと、小野先生は今度こそ、音がするほどに大きく息を吐いた。
「あなた、ほんとうに葉子に似てるわね」
いままでの話のどこでそう思ったのかすぐにはわからず、三谷はかすかに首をひねった。
「……伴奏のことですか?」
「それも含めて、我が強いところよ」
小野先生はもう一度、目を伏せて息をついた。切っ先が、わずかに下がったような気がした。
「我が強いから伴奏がうまいってところも、そっくり」
なんと返事をすればいいかわからずに――ほめられているのかけなされているのかさえつかめない――三谷が黙っていると、小野先生は続けた。
「葉子があなたをあずけた先が私だった理由、間違ってなかったわね」
それこそ、独白のようだった。だから三谷はこれにも言葉を返さなかった。数秒、思案しているのか小野先生はまた黙った。エアコンの音がする。そうして無意識のうちにでも音を拾っていると、かすかに楽器に呼ばれているような気がしてきた。早く、と。人間のことは知ったことじゃない、自分は世界に音を届けるためにここにいる、だから弾けと。
そうして小野先生は顔を上げた。ふたたびその視線が自分の体を灼く。
「そこまで言うのなら、卒試の曲も、もういい加減決めたのでしょうね」
「はい」とうなずき、もう一度呼吸だけではなく体を整える。そうじゃないと言えなかった。その曲のもつ重さをあらわす名前を。
「ショパンの、バラード四番にします」
一人で弾けるようにする、それには彼の音楽が不可欠だと思った。もちろんラフマニノフでも、ラヴェルでも勉強できるのは間違いない。けれど――
曲に託すほどの誇り高いポーランド人の矜持をもち、大国が故国の首都を陥落させた歴史を目の当たりにし、死の間際、自分の心臓を故国に持ち帰ってほしいと姉に強く願った作曲家。
故郷への
「……それは、今回の埋め合わせ?」
小野先生の問いかけに、「違います」という言葉がすぐに口から出た。
「自分がやりたいから選びました」
三谷がそう続けると、小野先生は一度、目を閉じた。何かを噛みしめるようにそうして、それから息をゆっくり吐いて、吸った。軽く一度、二度、――三度。自分に言い聞かせるようにうなずき、それから先生は言った。
「――わかりました」
小野先生がかすかに姿勢を正すと、そこに先ほどまでの思案するような色はまったくなかった。口紅を引いた唇の両端が、きゅっと持ち上がる。
「じゃあ、今日はそれから。――決めたと言っただけの演奏にしてちょうだい」
「――はい」
もう一度、丹田を意識しないと負けてしまいそうな先生の声だった。三谷は譜面台に並べていた楽譜のうちのひとつを開き、四番の最初のページをゆっくりと広げた。
ここに、音楽と生きるヒントが、きっとたくさん詰まっている。音楽から離れることは、もうできないのだと思う。だから。
だからいま、あなたに尋ねるよ。――心の中で、祈るように思う。
あなたの見た景色を、あなたが愛し焦がれたポーランドの大地、そこから見えた空の色を、どうか、教えてはくれないだろうか。
いいよ、という声が聞こえた気がした。それはピアノからかもしれないし、楽譜からかもしれないし、自分の中にある願望によるものかもしれなかった。
呼吸を整える。これからは対話の時間だ。自分と、曲と、楽器と、作曲家と、人類の歴史との、長い長い対話が、ここからやっとはじまる。――それでいいのだと、ふいに背中をぽんと押された気がした。体から余計な力が抜けていく。目の前に広がっていく金色の大地――筐体の中にある弦が紡ぐ、大陸の豊かな土壌が見えたような気がした。
そうして三谷夕季は、白と黒が並ぶ鍵盤に、ゆっくりと手を載せた。
[空の色をおしえて 了]
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